楽太郎です。
前回、「大峠を読み解く」の改訂版を投稿しましたが、その記事には書ききれない部分が多々ありました。
そこで、前回の図をもう一度ここに載せて、追加の解説を行いたいと思います。

この図の上部に「旧九月八日」「節分」など、季節に係る日付が記載されていますが、これは「日月神示」の中では重要な節目を示すターニングポイントとなっています。
まず、「旧九月八日」からご説明します。
「黒鉄の巻・第三十八帖」に、その意味がそこはかとなく述べられています。
「目出度めでたさの九月八日の九の仕組み、融け流れて、世界一つじゃ」
「九月」の「月」とは、月の司宰神であられる伊弉諾命(月読・素戔嗚命)を指し、「日」は太陽を司る「真の天照大御神」こと「伊奘冉命」を象徴する概念となっているようにも思えます。
「岩戸開き」が「八」から「九」に掛かるものだとしたら、「九月八日」は「九が開く(八)」、つまり「十になる」時点を意味するのではないでしょうか。
この「黒鉄の巻」が降ろされたのは「昭和25年(1950年)」になります。
ここで「旧」という文字が日付についていないことに注目して頂きたいのですが、「九月八日」には「新旧」があるようなのです。
まず「日月の巻・第十帖」を参照します。
「辛酉の日と年はこわい日で、よき日と申してあろうがな、九月八日は結構な日だが、こわい日だと申して知らせてあった事少しは分かったか、何事も神示通りになって、順番に出て来るぞ、遅し早しはあるのだぞ、この度は幕の一ぞ」
「日本の臣民、これで戦済む様に申しているが戦はこれからぞ、九、十月八日、十八日は幾らでもあるのだぞ、三月三日、五月五日はよき日ぞ、恐ろしい日だぞ、今は「型」であるぞ」
この「日月の巻」が降ろされたのは昭和19年8月となっています。
後述するように、この時点で「旧九月八日」の仕組みは発動していないはずですが、「九、十月八日、十八日は幾らでもあるのだぞ」とあることから、「九月八日」が複数回あることが示されています。
また、ここで「十月八日」なる日付があることも示されています。
では、肝心の「旧九月八日」はいつで、何が起こった日なのでしょうか。
「地つ巻・第二十五帖」に、こうあります。
「時の神様ほど結構な恐い神様無いのだぞ、この方とて時節には叶わん事あるのだぞ、今日なれば九月の二十八日であるが、旧の八月十一日殿を拝みてくれよ、二十八日殿もあるのだぞ、何事も時待ちてくれ」
太陽暦である「九月二十八日」と、太陰暦(旧暦)の「旧八月十一日」は同じ日だったりしますが、「旧八月二十八日」も同じ日とは普通考えません。
新暦「九月二十八日」と旧暦「九月二十八日」が同時に存在するには、別の意味合いが含まれている気がします。
「九月八日」に「表裏」があるとしたら、「裏」が「旧九月八日」ということではないでしょうか。
「九月八日」が「岩戸開き」を指すとして、その意味を考えてみたいと思います。
「まつりの巻・第十八帖」に、そのヒントがあります。
「旧九月八日までに、すっきりと祀りかえてくれよ、真中に御三体の大神様、御三体の大神様、天之日月の大神々様、地くにの日月の大神々様、雨の神様、風の神様、岩の神様、荒れの神様、地震の神様、弥栄え祀り結構ぞ」
「旧九月八日」から起こる変化というのは、宇宙創世から「この世を構いなさる」天地の「御三体の大神」は別として、改めて「天日月大神」と「地日月大神」の祭祀が始まるように読み取れます。
「夜明けの巻」が書かれた昭和20年8月上旬、「天の岩戸開き」が行われたと私は考えているのですが、その一年後の昭和21年8月に書かれた「まつりの巻」では、「旧九月八日」が起こったことが複数の箇所から確認できます。
この「旧九月八日」は「天の岩戸開き」とは別の現象のようであり、ちょうど「一年」ずれる形で起こっています。
やはり「岩戸開き」で「九」に移行した後、「九が開く(八)=十になる」ことが「九月八日」の意味と考えられます。
昭和20年の「天の岩戸開き」で「九」に移行し、「十」にまた移る際には時間間隔として「約1年」で実行される可能性があります。
上図を再度見直して頂きたいのですが、私見では「2029年酉年」に「地の岩戸開き」が起こった後、「正念場の20年」の残り一年を消化して「十合目」に入り、世は「三四五(みよいづ)」となり、晴れて「五六七(ミロク)」の世となると説明しています。
「九から十」に移行する期間が「約一年」であることは、「地の岩戸開き」の後に「正念場」があと一年残っていることの説明にもなります。
「旧」という接頭語は、「天が先」であることを考えれば「新しい」九月八日(2029年時)に比べて「旧い」ものです。
「旧九月八日」が「天の岩戸開き」から一年後、天界が「十」となり「天の大峠」を終えたことを意味するとしたら、その時をそう表現しているのかもしれません。
では、先に挙げた「十月八日」「三月三日」「五月五日」の意味するところを考えてみたいと思います。
まず「十月八日」についてですが、「九が開く(八)」と「十」になるので、厳密に「十」が開くというのは考えにくいです。
しかし「二十二(富士)の仕組み」とは「〇一二三四五六七八九十」が両面、裏表重なって「一つになる」ことを意味しているため、「十」が開くと裏の「〇」になるのだと思います。
ただ「富士・鳴門の仕組み」は「地の岩戸開き」が遂行されない以上は実現しないため、現時点で「(旧)十月八日」は訪れていないと考えられ、その証拠に「十月八日」という文言は、ほぼ上記と同じ内容の「日の出の巻・第四帖」以外には登場しません。
ゆえに「十月八日」は「地の岩戸開き」後の「(新)九月八日」の後に訪れる可能性があり、「複数ある」というのも「表裏」で見たら「新旧」の「十月八日」が存在するということだと思います。
では次に、「三月三日・五月五日」とは何でしょうか。
「三月三日」は一般的に雛祭りが行われる「上巳の節句(桃の節句)」であり、「女子の日」とされます。
対して「五月五日」は五月人形などを飾る「端午の節句(菖蒲の節句)」であり、「男子の日」と言われています。
「女と男の記念日」と言って連想するのは、伊弉冉命と伊弉諾命の「二柱」です。
「キの巻・第十四帖」には、こうあります。
「三月三日から更に厳しくなるから用意しておけよ、五月五日から更に更に厳しくなるから、更に用意して何んな事が起こってもビクともしない様に心しておいてくれよ、心が違っているから、臣民の思う事の逆さまばかりが出て来るのだぞ、九月八日の仕組み、近くなったぞ」
「キの巻」は「夜明けの巻」以前に書かれた神示ですが、「天の岩戸開き」後に「天日月大神」の御即位があったとすれば、岩戸の中に隠れられていた”真の天照大御神”こと伊弉冉命が玉座にお戻りになられているはずであり、ゆえに「伊弉冉命」の御即位を意味する記念日の可能性があります。
ここで「伊弉冉命」を別の御神格に比定すれば「豊雲野大神」であり、つまり「三月三日」は豊雲野大神が玉座に戻られたことを意味し、それは「天の岩戸開き」の後に「十の世界」となった天界だから成立したと言えるわけです。
ゆえに、「旧九月八日=三月三日」と比定しても差し支えないと思います。
また「五月五日」は「新九月八日」に当てられていると言え、「国常立大神」の御即位は「天日月大神」の御誕生でもあるため、時系列的に天界で先立つことを鑑みても、二柱の共同統治が始まった霊界が「更に更に厳しい」のは容易に想像できます。
そして、地上世界で「地の岩戸」を開くことで「天日月大神」の御神威が現界に轟き渡ることとなり、それは天界とは別の「五月五日」であるとも言えるのです。
「岩戸の巻・第十六帖」に「子(ね)の歳を真中にして前後十年が正念場、世の立て替えは「水」と「火」とだぞ、ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ」という一文がありますが、この「ひつじ」とは「未年」のことではなく、「日嗣(ひつく)」であり、天日月大神御即位に連なる「豊雲野大神」と「国常立大神」の来誕を象徴していると読めます。
ついでに「節分」についても説明しておこうと思います。
「梅の巻」には「節分までに早く祀ってくれよ(第二十五帖)」など複数「節分」に関する言及があり、他にも「雨の巻」や「磐戸の巻」などにも見受けられます。
「節分」は「二月三日」ですが、「九月八日」と同じ解釈をすれば「二が三になる」と読めます。
これらの文書が書かれたのは昭和21年頃までであり、私が「地獄の三段目(三)」の世に変わったと推測するのは「1990年代初頭」であるため、当時から見るとこれから「二から三」に入るのであり、それを「節分」と呼んでいるのかもしれません。
実際、この「祀り」というのは信者に儀式的なものを要求しているというより、より内面的な宗教的実践であるように受け取れます。
全体通して、これらの日付は世界が霊的移行の段階を経るたびに、神界や霊的に起こる事象に対応した行動を取るように促していると考えられます。
ただ私は「九月八日」には別の意味がもう一つあって、それは「一厘の仕組み」に繋がるものではないかと考えています。
神示には「九分九厘」という単語がよく登場します。
これは「幽界」の干渉を受けた人民の魂が「外国」同様となり、それに対して神示は「攻め込まれている」という表現をします。
この「九分九厘」は、「九月八日」で「九」が開くことで、十日までの残り一日、すなわち「一厘の仕組み」に掛けているのではないでしょうか。
「極みの巻・第一帖」に、こうあります。
「九分九厘まで進まねば後の一厘は分からん、今が九分九厘であるぞ、日本は日本、世界は世界、日本は世界のカタ国、自ずから相違あるぞ」
やはり日本は「九分九厘」に至る、まずい状態に置かれていると述べられています。
また「至恩の巻・第十六帖」には、こうあります。
「二二と申すのは天照大神殿の十種とくさの神宝に「・」を入れる事であるぞ、これが一厘の仕組み、二二となるであろう、これが富士の仕組み、七から八から鳴り鳴りて十となる仕組み、なりなりあまるナルトの仕組み🌀、富士と鳴門の仕組み、愈々いよいよぞ」
この「一厘の仕組み」が発動するためには「◯九十(まこと)」が開けている必要があり、また「一厘」がなければ「富士・鳴門の仕組み」も発動しないことになります。
「九分九厘」まで攻め込まれた状況を「ひっくり返す」一厘の仕組みは、そのまま「九十(コト)」の世界に繋がっているのです。
「同上・第十六帖」の続きとなります。
「これが分かったならば、どんな臣民でも腰を抜かすぞ、一方的に一神でものを生むこと出来るのであるが、それでは終わりは全う出来ん、九分九厘でリンドマリぞ、神道も仏教もキリスト教もそうであろうがな」
つまり二柱揃っての御神威を発揮する「天日月大神」が現れる時、「富士・鳴門の仕組み」が発動するため「一厘の仕組み」も同時に作動すると考えられます。
では、その「一厘の仕組み」とは何であり、どうすれば作動するのでしょうか。
「月光の巻・第四十八帖」からです。
「世界中を泥の海にせねばならん所まで、それより他に道ない所まで押し迫って来たのであるが、尚一厘の手だてはあるのじゃ、大神様にお詫び申してすっかり心を改めて下されよ、神々様も心得違い多いぞ、泥の海となる直前にグレンと引っ繰り返し、びっくりの道あるぞ」
つまり、「心を入れ替えて改心すること」だと述べられています。
ただ、それだけではないようにも思える箇所もあります。
「青葉の巻・第十帖」からです。
「仕組み途中でグレンと変わり、ガラリと変わる仕組みしてあるのじゃ、そこに一厘の仕組み、火水かみの仕組み、富士と鳴門の仕組み、結構結構、大切致してあるのじゃ、善き世と致すのじゃ」
「知でない智を神が与えるぞ、神人共にと申してあろうがな、務め上げたら他にない結構な御用であるぞ」
日月神示解読の要と言える、「神人」という概念が出てきました。
「岩戸開きの真相」という記事では、「七人の神人」がいれば「地の岩戸開き」は成就するという自説を述べています。
「下つ巻・第二十一帖」から引用します。
「今の戦は・と〇との戦ぞ、神の最後の仕組みと申すのは、〇に ・入れる事ぞ、〇も五ぞ ・も五ぞ、どちらもこのままでは立って行かんのぞ、一厘の仕組みとは、〇に神の国の・を入れる事ぞ、よく心に畳んでおいてくれよ」
おそらく「悪」のやり方とは、全ての「・(キ)」を抜いた状態にして、⦿の神国を形骸化させて骨抜きにすれば、何もかも「◯」の状態となり、全て「外国」の手に落ちます。
「◯」に染まった世界は「有限」にのみ向かう世界となるため、いずれは滅びます。
そうして地上世界を支配し、最終的に滅ぼそうとするのが「悪神」の思惑なのではないでしょうか。
「下つ巻・第二十二帖」に、こうあります。
「岩戸開く仕組み、知らせてやりたいなれど、この仕組みは言ってはならず、言わねば臣民には分からんぞ、神は苦しいぞ、早く神心になってくれと申すのぞ、身魂の洗濯急ぐのぞ」
「二三三二・〇◉、コノカギハイシヤトシカテニギルコトゾ」
この後半部分の暗号を読み解いてみると、「扶桑の山(=富士山)に入り、・を◯に入れ◉にすること、その鍵は”石屋(金の仕組み)”と手をしっかり握ることぞ」という内容になります。
「石屋」とは「フリーメイソン」の暗喩と思われますが、ここで言及されるのは近世の建築ギルドであるフリーメイソンの「ルーツ」と言える、十字軍のエルサレム奪還に始まる「テンプル騎士団」まで遡ります。
この「テンプル騎士団」による資産の保全事業が後の「銀行」の制度確立に繋がっているため、比喩的に「金の仕組み」と言い換えても差し支えないと思います。
現代で言うと、日本は西洋文化に影響され、追随して資本主義社会、いわゆる「金の世」となっています。
倫理や道徳は衰退し、法や制度は形骸化して社会は混乱し、今まさに人々の良心が問われる時代と言えます。
おそらく、この文明世界を神々が心底嫌うならば「泥海にする」のも手段のうちなのでしょう。
しかし、その文明社会も科学技術も神々が人間と共に作り上げたものなので、できる限り悪い部分だけを削ぎ落として良い部分は残そうとするはずです。
私たちが「一厘の仕組み」に直接携われるとしたら、現代人が日常的に接する西洋文明の仕組みに「・」を入れることなのではないでしょうか。
今、「◯」だけになっているからこそ行き詰まりを見せるこの世界に、「・」を入れることで「◉」の完全な文明が完成するのだと思います。
この「・」を既存の技術や制度「◯」に入れるには、まず私たちの心に「・」がなくてはなりません。
それを呼び込むには、やはり神示にあるように「身魂磨き」が必要なのです。
「身魂磨き」ができた人から、心に「神」が宿り「神人」となります。
「神人」というのは、自身の才能を持って「◯」に「・」を入れ、「◉」を完成させる工程を、実地でやる役割を担っているのではないでしょうか。
ここまでは「何をやるか」まで実例を挙げられるほど、具体的に考えられる事柄です。
それを行える「七神人」が誕生すれば「地の岩戸開き」が可能になり、それが「一厘の仕組み」でもあるのだと思います。
まとめると「神人」とは「文明を完成させる人々」であると言えるのです。
そうして新たに造り出された文明によって、「弥栄」という真のサステナブルな社会に「建て替え」ていくことができるのかもしれません。
これが、私が日月神示から読み取った「一厘の仕組み」です。
「大峠」のロードマップと合わせて考えたら、これから「何をするべきか」が見えてくる気がします。

