今回は、久しぶりに「日本神話」に関する記事です。
先日、天気も良く清々しかったので、仙台泉の「賀茂神社」に参拝に行ってきました。
賀茂神社の境内前には由緒書きの看板があって、それを読んだところ気になる箇所がありました。
賀茂神社は、塩釜神社の禰宜家が代々お祀りしてきた「只洲宮」の祭祀神を元禄8年(1695年)から翌年にかけてに古内の地に遷座し、「御祖(みおや)神社」として奉斎したとされます。
御祖神社を「下賀茂神社」とし、同社完成後に「分雷命」を勧請し、元禄10年に「分雷神社」として「上賀茂神社」が建立されました。
これで気になるのは、「上賀茂神社」の創建が先ではなく、「只洲宮」の「下賀茂神社」の勧請が先になっているということです。
「上賀茂神社」の方が格上に思えるのですが、「分雷神社」よりも「下賀茂神社(只洲宮)」が先立つ理由があるはずです。
逆に「御祖神社」の方が「分雷神社」よりもネームバリューがありそうな気がするのですが、どういうことなのでしょうか。
「賀茂神社」の本社は京都府左京区にある「貴布彌神社」とされ、主祭神を水神である「闇龗神」としています。
これには、私の「瀬織津センサー」がビビビッと反応しました。
公式には「下賀茂神社」の主祭神を「多々須(ただち)玉依姫命」とされ、上賀茂神社は「分雷命」、境内社に「賀茂建角身命」を「八咫烏神社」としてお祀りしています。
「多々須(ただち)」と聞いて、玉依姫の別名とされる玉櫛姫命こと「勢夜陀多良(せやだたら)比売命」と、神武天皇の皇后である「媛蹈鞴(ひめたたら)五十鈴姫」の名が思い浮かぶのも気になります。
「分雷命」は、かつて京都地方を支配していた豪族「賀茂氏」の氏神とされ、伝承によると玉依姫の子息であり、「火雷命」が丹塗矢に化けて玉依姫を孕らせ、成人後に父・火雷命を追って天に昇ったと言われています。
しかし一般的には、玉依姫は「ウガヤフキアエズ命」の妃であり「媛蹈鞴五十鈴姫」の母とされます。
記紀的伝承では「媛蹈鞴五十鈴姫」の夫が「神武天皇」とされるので、「分雷命」を「神武天皇」と比定しても、天皇の実母が玉依姫ということになり、系統に齟齬が生じます。
「勢夜陀多良姫命」の夫を「大物主=大国主」とする系譜は、玉依姫の「丹塗矢」が「火遠理命(山幸彦)」の子「ウガヤフキアエズ命」の隠語だと解釈する分には、矛盾はありません。
どうも、賀茂家は「神武天皇(分雷命)が御祖神の玉依姫の直系である」と暗に仄めかしているのではないでしょうか。
だから賀茂家からすれば、玉依姫の御子の「媛蹈鞴五十鈴姫」が天照大御神から続く天皇家に嫁いだわけではなく、むしろ神武天皇を祖先とする天皇家が賀茂家氏神の賀茂建角身命、玉依姫命の系統から始まった、と言いたいようにも思えます。
では、賀茂神社で別社の「八咫烏神社」として祀られる「賀茂建角身命」とは、一体どういう神様なのでしょうか。
「賀茂建角身命」は別名「三嶋溝咋命」と言われ、「三島」とは伊豆半島周辺の地域を指し、その地方を治める氏神、産土神である可能性が高いです。
三島市周辺には、京都にゆかりのある地名も多く、古く賀茂系氏族がこの地に移り住み、或いは深い血族的交流があったと推察されます。
もしくは「大山咋(くい)神」とされ、山の神が「咋神」と言われる時は、ルーツが滋賀の比叡山(日枝山)、京都の松尾山とされる場合が殆どです。
反対に「大山祇(つみ)神」とされる時は、全国の大小の山々の土着神である場合が多く、伝承として「女神」とされることも多いようです。
松尾山の「大山咋神」と言えば「松尾大社」が有名ですが、京都の東には一方の大社「賀茂神社」が鎮座しています。
松尾大社は渡来系氏族としては京都で賀茂氏に並び、朝廷に影響力を持った「秦氏」の氏神社です。
かつて、京都盆地を支配した「秦氏」と「賀茂氏」の二大豪族は、婚姻関係を持ちながら宮中の祭祀を司ったとされます。
賀茂氏はおそらく三輪山の祭祀をルーツとする土着系豪族ですが、渡来系である秦氏は元は海洋系氏族であり、「海部氏」と繋がりがあります。
ゆえに、松尾大社で大山咋神と共に祀られている「中津姫命」が「市杵島姫命」とされるのも、秦氏が宗像系氏族と繋がりがあることの証左になります。
秦氏にゆかりのある京都の「木島坐(このしまにます)天照御魂神社」の境内には、「織物」にまつわる「蚕の社」があり、また「元糺(もとただす)の池」という神泉があります。
一方、京都の「賀茂御祖神社(下賀茂神社)」には12万平方メートルに及ぶ世界遺産の「糺(ただす)の森」があり、社叢林を巡る小川は賀茂川の支流にあり、その水源が学術的にも貴重な生態系を保全しています。
仙台賀茂神社の「只洲の宮」の語源は、京都下賀茂神社の「糺の森」にあることは間違いないでしょう。
そして、多々須玉依姫の父神を「賀茂建角身命」、滋賀・松尾の「大山咋神」とするのも共通します。
従って、塩釜神社の祭祀を担当してきた禰宜家が、個人的に賀茂神社の御祖神をお祀りしてきたのも、元々は京都の一族だったからと考えられます。
宮城の三陸に位置する塩釜神社は、かつて大和朝廷が蝦夷平定の折、前哨基地である「多賀城」の西南5キロの丘に、京都などから派遣された役人が祈願のために創建した神社と言われています。
塩釜神社には、かつて大和平定を成し遂げた武神である「武甕槌神」「経津主神」の二柱が左右宮の拝殿に主祭神として祀られています。
また「別宮」として塩釜の地に製塩の技法を授けた「塩土老翁命」が祀られていますが、ここで「別宮」とされるのは、「特別にお祀りしている」という意味だそうです。
塩釜神社に特別に祀られる「塩土老翁命」は、分社である仙台賀茂神社の「賀茂建角身命」と関連があるように思えます。
江戸時代以前まで、塩釜神社の主祭神は「塩釜明神」とされ、由緒が判然としなかったと言われています。
仙台藩四代目藩主である伊達綱村は、塩釜神社造営の折に由緒について調べさせ、それを「塩釜社縁起」にまとめました。
それによると、「塩釜六所明神或曰猿田彦事勝國勝塩土老翁岐神興玉命太田命六座同体異名神也」とあり、「猿田彦大神・事勝國勝狭神・塩土老翁命・岐の神、興玉命、太田命」の六座を同一神と比定しました。
「賀茂建角身命」が「八咫烏神」とされることは前述しましたが、八咫烏は神武天皇が東征の際、熊野にて橿原に案内した「太陽神(高神産日神)の遣い」とされます。
塩釜社縁起の説に沿って考えると、「猿田彦大神」は天孫降臨の際に瓊瓊杵命を高千穂に導いた神であり、吾田の地と娘を瓊瓊杵命に授けた事勝國勝狭神と似た功績を残しています。
「塩土老翁命」は、猿田彦大神と同じ「導き」の神であり、塩釜の地に武甕槌神と経津主神を導き、蝦夷平定の助力をしたことになります。
つまり完全なる同定はできないにせよ、神能と神格としては「賀茂建角身命」と「塩土老翁命」には強い共通点があります。
賀茂建角身命、または三嶋溝咋命の娘が「玉依姫(玉櫛姫)」であるのは間違いないようです。
しかし縁起説にある六座には、事勝國勝狭神の娘が「神吾田鹿葦津(かむあたかしつ)姫」、いわゆる「木之花咲耶姫命」がおられる以外に、他の五座には明確に御子神が存在しません。
「塩土老翁命」が山幸彦を豊玉姫の坐す竜宮に導いた時、翁が「龍王」として語られている訳ではないからです。
とは言え、事勝國勝狭神は別名を「大山咋神」とされており、「木之花咲耶姫命」を「玉依姫」と同定可能であるのは確かなように思います。
しかし木之花咲耶姫命は瓊瓊杵命の妃であり、火遠理命(山幸彦)の母となるので、玉依姫から見ると夫の火雷命は息子ということになってしまいます。
ここら辺が日本神話のゴニョゴニョした部分というか、玉依姫の比定を軸に世代が交錯するのが神話解釈の鬼門になっているように思います。
日本の神社祭祀が720年成立の「日本書紀」を礎とし、国史に連なる神話を縁起や由緒としながら、土着の信仰や氏族の伝承が組み込まれた先々でこのような齟齬が発生していったのでしょう。
また「記紀」には、奈良時代の政情不安の朝廷が豪族を皇室に繋ぎ止め、氏族の身分を取りまとめる役割もあり、そこに多少の政治的「忖度」があるはずです。
もし「オリジナル」があるとしたら、その伝承は記紀以前に遡るはずで、おそらく文書としては残っておらず口承の部分も多かったでしょう。
ゆえに、「玉依姫命」が元々どういう御神格であるかについて、「神武天皇」の母・義母という多分に政治的な立場にある女神として、様々な解釈が存在するがゆえに「鴨玉依姫」「玉櫛姫」「櫛玉依姫命」「活玉依姫命」など、様々な呼称が存在するのだと思います。
「玉依姫」という神名の語源を辿れば、「玉」とは「霊」のことであり、霊が「依る」即ち「霊の依代となる女神」という意味になります。
その「霊」を「神武天皇を身籠もった」と解釈すれば、神武天皇の母である女神、という定義になります。
しかし玉依姫を神武天皇の妃である「媛蹈鞴五十鈴姫」の母とするなら、五十鈴姫を身籠もったのが「霊を憑依する巫女」であったという意味になり、一気に擬人化されます。
私はここで、虚実ないまぜになっているのが、認知的不協和の原因ではないかと思います。
冷静に考えて、神武天皇はご誕生からご成育環境まで地域が特定されていますし、古墳などから足跡を辿ることも可能です。
しかし「大山咋神」や「玉依姫命」に関しては、古代の豪族に縁を見ることもできるでしょうが、そもそもいつの時代も目に見えない神霊であられます。
いくら皇族と言えど、人間として地上にいる限りは肉体が必要です。
ただ神武天皇の系譜を見る限り、玉依姫命は人間の肉体を持っていなくては身籠もることはできないでしょう。
穿った見方かもしれませんが、神と人間の系譜を繋げる時、「玉依姫命」という女神が接続点となり、この矛盾が数々の系譜に現れているのではないでしょうか。
「人間の肉体を持たない神」が「神である人間」を産む時、そのズレを説明しきれないからこそ、各氏族が自身の系統を説明する時に最も都合の良い解釈になったのだと思います。
だから私は、玉依姫までは天の神々の系譜であり、神武天皇の「母」までは皇族の系譜なのだと思います。
それを繋ごうとした時、玉依姫が「母」になるか「義母」になるかという齟齬以上に、玉依姫が「山の神(大山咋神)」の娘なのか、「海の神(綿津見神)」の娘なのかという差異にも繋がったのではないでしょうか。
ここで、玉依姫命は「山の神なのか、海の神なのか」という疑問も立ち現れてきます。
どうも玉依姫命が木島坐天照御魂神社では「中津姫命(市杵島姫命)」、事勝國勝狭神の御子神が「木之花咲耶姫命」とされることにヒントがあるように思います。
市杵島姫命は「宗像三女神」の一柱で「海の女神」ですが、木之花咲耶姫命は「山の女神」であり、どちらも「旧支配者」の娘であるのは変わりません。
旧支配者の「父」が禅譲する際、その後継者(瓊瓊杵命・火遠理命・大物主・火雷命etc.)が娘である女神を娶っています。
つまり、山でも海でも図式は全く同じです。
「玉依姫命」の御神名にある「玉(霊)」が「稲(サ) の霊」を指すとしたら、「玉依姫命」の正体が見えてきます。
長野の「筑摩神社」には宗像三女神の一柱である「市杵島姫命」の別名として「狭依(さより)姫命」が祀られています。
つまり、「玉依姫」とは「狭依姫」であり、市杵島姫命を通して「瀬織津姫命」と同定可能と言えるのではないでしょうか。
そう考えると、山の神たる大山咋神の娘が玉依姫であるのも、説明がつきます。
山から流れてくるのは「川」であって、「サの霊(玉)」は川を伝って降りてくるからです。
私は以前、「進撃の瀬織津姫」という記事の中で「朝廷に影響力を持った海部系氏族によって、瀬織津姫命という神格が”宗像三女神”に上書きされた」という仮説を述べました。
海洋系氏族が陸の耕作民となり、「川」の女神を信仰するようになると、宗像氏が祀る玄界灘の三島に因んだ海神と陸側の「川」や「滝」にまつわる神名が習合し、「瀬織津姫命」という御神格は「市杵島姫命」に置き換わったのだと、私は考えています。
人間の生活に欠かせない、淡水の流れる「川」は「山」から伝ってきます。
だから「大山咋(祇)神」の御子神が「川」を象徴する「瀬織津姫命」であるのは、理に叶っています。
「狭依姫命」という御神名は「瀬織津姫命」と密接な関係にあり、「狭(サ)」とは本来「稲霊(サ)」を意味するのだと思います。
山から瀬を伝って「降りてくる」神霊は、秋になれば稲に宿り、実りをもたらす。
この豊作祈願の儀式が東北に残った「サオリ」という風習であり、また「サ」の神を降ろす巫女・乙女を「早乙女」と呼び、「サ」の儀式を行う月が「皐月」になるわけです。
だから「狭依(瀬織津)姫命」というのは、本来は稲田に豊作をもたらす神だったのではないか、と思います。
その件に関しては、上記の記事で詳しく書いています。
ゆえに、「玉依姫命=瀬織津姫命」であると結論づけたいと思います。
ただ、「瀬織津姫命」という御神格は、伊勢神道並びに各由緒において「撞賢木天疎厳之御魂向津姫(つきさかきあまさかるいつのみたまむかつひめ)命」ともされており、「天照大御神の荒魂」と言われます。
しかし、「天照大御神」が素戔嗚命との誓約で誕生した神々がおられるにせよ、伴侶となる神が存在する訳ではありません。
「公式」にそうなっているのですから、御祖の神が天照大御神に繋がっているとしても、地方豪族が祖先の神武天皇を指して「天照大御神の御子が我が氏神である」とするのは、さすがに暴論になってしまうはずです。
天照大御神、言わんや「瀬織津姫命」は記紀に記載もなく、伴侶も御子神も歴然とはしていないのですから、隠喩的に神格をスライドさせて説明できるようにしようと考えた結果、「玉依姫命」という御神格が誕生したのではないでしょうか。
ただ、私は「天照大御神の荒魂」の偽物として「玉依姫命」という御神格があるとは考えていません。
「玉依姫命」という御神名が、たまたま豪族と皇族の祖神の系譜を繋ぎ合わせるのに最適な固有名詞であったからではないか、と思います。
ゆえに、私の結論としては「玉依姫命」とは「瀬織津姫命=撞賢木向津姫命」であると言えます。
だから仙台賀茂神社の下賀茂社が塩釜より先に古内の地に遷座したのも、「只洲宮」たる瀬織津姫命、つまり「天照大御神」だからと考えれば説明がつきます。
ではなぜ父神であられる「塩土老翁命」が塩釜の地に残ったかを考えれば、多賀城が造営され塩釜に「武甕槌神・経津主神」が祭祀される以前には、すでに「塩土老翁命」がお祀りされていたからではないでしょうか。
「塩釜の塩造り」は太古から始まっており、「海と塩の神様」は元々この地に祀られていたのだと思います。
それが京都由来の国家神道の流れを受けた時に、「導きの神」としての御神名が宛てられたのかもしれません。
その証拠に、仙台市内や賀茂神社周辺の土地には、京都賀茂氏の流れを組む、賀茂県主の足跡を残す地名が残っています。
私は地元にいながら「瀬織津姫命」にまつわる土地に暮らせることを嬉しく思います。
あと、私見ですが「日月神示」において、「御三体の神」として「伊弉諾命・伊奘冉命・つきさかきむかつ姫」の名が挙げられており、どうも「つきさかきむかつ姫は伊弉諾命と伊奘冉命二柱の、正真正銘の御子神ではないか」と仮説を立てています。
つきさかきむかつ姫が「撞賢木天疎厳之御魂向津姫命=天照大御神」なのだとすると、瀬織津姫命のご両親は伊弉諾命と伊奘冉命となります。
この説を敷衍すると、「賀茂建角身命=塩土老翁命=猿田彦大神=事勝國勝狭神=岐神=伊弉諾(伊邪那岐)命」となってしまいます。
ゆえに、玉依姫命の父神は「賀茂建角身命」こと「伊弉諾命」ということになります。
こんなことを言えば、日本中の神社出入り禁止になってもおかしくないのですが、そういう考え方もあるということです。
ただ、私はあながち侮れない説のような気もしています…
