スピは幻想なのか?

楽太郎です。

世は「風の時代」とか「次元上昇」とか、私の好きな言い回しでは「神代」が到来したと、スピリチュアル界隈では言われています。
しかし、世は相変わらず物質中心の社会であるのは変わりませんし、人徳より利益が優先される仕組みも相変わらずです。

「この価値観も終わりだな」と思っていた物事すら、盛り上がっているのを見ると何となく疎外感を感じ、「自分は間違っているのか?」と不安も過ぎります。
特に気持ちが弱っている時なんかは、「こんなことに夢中になって、俺は何をやっているんだ?」という気持ちにもなります。

そういう時は、無理に視座を高くしようとするのではなく、あえて現実主義を徹底してみることにしています。

「神仏を信じ敬う」というのは、現代だから異端のように思われるだけで、歴史的には神仏に対する文化は脈々と根づいています。
日本は最高神天照大御神の御子孫であられる天皇陛下あっての国なので、「神はいない」と言うなら、日本という国体そのものを否定することになります。
また、国民が七夕に短冊を笹につけたり、お盆にお墓参りしたり、正月に初詣に行く意味もないでしょう。

そう言うと、「それは風習や文化であって、形だけのものだ」と言う人もいるはずです。
では、それはそうであると仮定して、話をしてみようと思います。

私はこれまで「霊的能力がある」と仰る方と何名かお知り合いになる機会がありました。
私個人の感覚としては「そうなんだろうな」と思いましたが、それは置いておきます。
そういう方たちは、自身に特殊な感覚があるからと言って、下手に隠したりせずに堂々と自分の見える世界を語っておられました。

このご時世ですから、それを人前で話すことはそれなりに色眼鏡で見られてきたはずです。
けれども、自身の感覚や能力に自信があるからこそ、人から疎まれたり批判されるリスクを跳ね除けて生きてこられたわけです。

物質中心の世に生きる人は、そこまで自分を信じて生きていけるでしょうか?

年収が何百万円以下では胸を張れない、いい歳して結婚していないと恥ずかしい、学歴もなく学校も出てないと見っともない、そういう価値観にこだわって萎縮する人もいます。
目に見えないものや自身の感覚を信じて生きていく人は、それは立派なことだと私は思います。

「目に見えるもの」、特に肩書きや数字、身なりや持ち物、そういった明確に比較できるものがあるからこそ、自信もわかりやすい形で得られるのかもしれません。
ただ、「自信」こそ実際は目に見えないものです。

年収が1000万円を超えた瞬間から自信がつく、というわけでもありません。
自信は、自分が深く望んでいたことが少しずつ実現することにつれて培われるものです。
小学生が初めて逆上がりができた時の自信と、年収1000万円を達成した時の自信は、本質的には同じものです。

スピリチュアルは、目に見えないものだから自信になるはずがない、という考え方が理不尽だと思います。

人から愛されているという実感も、人からの評価も、実際には目に見えないものです。ましてや、愛情も数値化できるものではありません。
「目に見える」「目に見えない」というのは、基本的に価値基準とはなり得ないものです。
だいたい、人間の脳内自体が目に見えないものなので、それも当然です。

「神様はいるかいないか」で言えば、ご神気の感覚のあるなしでだいぶ答えは変わってくると思います。
信仰に関して言えば、「新NISAで有望株に投資する」のも「神棚をお祀りする」のも動機としては同じように感じます。
「幸せになるための投企」という意味では、同じくらい賭けになりうるものです。

私が神様を感じたり、エネルギーを感覚で捉えることについて、人によっては「気のせい」とか「勘違い」と思われるでしょう。
私自身は、それを否定しません。肉体がまず違うので、この感覚は共有できないからです。
この共感がなければ、社会で共存できないとしたらおかしな話です。

「神仏を信じられない」人からすると、「神仏を信じる」人は思い込みが強いとか、迷信深いとか見えることでしょう。
しかし、神仏の存在が不明確なこと、それ自体が「神仏の功徳を得るための試練」として私たちの前に現れているとしたらどうでしょうか。

「目に見えないものを信じる」ことができた人は、できない人よりも一段高い認識に至ることで、選択の幅が広がります。
そして、神仏の加護を受けて得する人、加護がなくて不幸になる人、その区別がつくならば、自ら信仰心を育て幸福になるための切符を手にすることを選ぶはずです。

私は、神様や仏様を信じながら不安になる時、自分が神仏を信じることで得た変化に目を向けるようにしています。

ご神札を置く部屋は綺麗に掃除するようにしていますし、湿気や埃もきちんと取ります。
生活にも気をつけ、無理もしなくなりました。
人には分け隔てなく親切にし親孝行を心掛け、悪口や愚痴を言わないようにしています。

以前の私では考えられなかった行動ですが、見えない世界を信じるようになっただけで、ここまで人は変わります。

おそらく、「金運を呼び込むため」とか「誰かに気づいてもらうため」というような、現世利益を期待してやる行動ならばそれほど続きませんし、徹底することもできないでしょう。
しかし、私はそう思って無理にやらず本心で行動しているからこそ、自分の思想や感覚に深い肯定感を持つことができます。

結論を言えば、神仏が幻でもスピリチュアルが大嘘でも、私は一向に構いません。
少なくとも、物質中心でものを考える人たちよりも高い視点で発想し、豊かな感受性を肯定しながら生きているだけで、確実に幸福度は上がっていると言えるからです。

私は、自分の霊能力が眉唾でも勘違いでもいいと思っています。
この感覚を信じている限り、私は安心感や確信を持って判断し行動できるので、何一つ困ることがありません。
それが真実かどうかよりも、自分にとってどうであるかの方が大事です。

強いて困りごとを言うなら、意見の合う人が極端に少ないことです。
でも、そんなのは昔からそうなのであって、神仏を信じたからではありません。
私は人とズレた感覚を持って生きてしまうからこそ、どう足掻いてもこの世をうまく渡っていくことはできなかったですし、特に気にすることでもないでしょう。

だからこそ私は神仏を信仰し、スピリチュアルの道を進んだことを後悔しないと思います。
人間と人間の作った世界を信じるか、自分の感覚と信じるもので構成される世界を選ぶかの違いです。
これを主観で捉えている限り、特に致命的な違いはありません。

だからこそ、「目に見えないものを信じるのはどうかしている」という現実主義には、私なりの現実主義をぶつけるだけです。
そして、そのことについては特筆して議論すべきテーマでもないと思います。