私が別名義で運営している「日月神示解説」というサイトに、先日の「日月神話」の解説ページを追加しました。
今回の記事もかなり突っ込んだ内容になりましたが、日月神示ですら「悪神」の正体についてボカしているのに、そこを言及する当たり「神をも恐れぬ」傍若無人さに自分で恐縮します。
考えてみれば、「宇宙開闢」を行った元の世の大神にも、更なる上の次元の「神々」が存在するでしょうし、どこかで「存在」や「概念」という「概念」そのものを作り出した「神」がいるはずです。
その「超」がつくような根源神が「善と悪」「光と影」という概念を作り出す時、その役割を受け継ぐ「神々」、つまり「悪」を司る神も生み出されたとしたら、とても自然な話です。
「別天津神」の神々がこの宇宙を創造なされた時、「光と影」もまた「善の神と悪の神」となり化成する必要があったでしょう。
その両属性がなければ、世界は成り立たず「生長しない」のですから、どこかで「汚れ役」を買う神様に存在してもらわなければなりません。
その大役を仰せつかったのが、伊弉諾命と伊奘冉命の二柱にご誕生なされた第一子、正真正銘の「天日月大神の長兄」たる「ヒルコ神」なのではないでしょうか。
しかし、次世には世を支配するであろう御神格でありながら、自ら最大の「汚れ役」となって世に災厄をもたらす存在となった時、この世の全ての「負のカルマ」を背負うことになったのかもしれません。
ただ、それだけの「苦しみ」や「不幸」を司る神は、それだけ大きな業に耐えうる器でなければならず、それゆえに「天日月大神の正統後継者」ほどの霊格でなければ務まらなかったのだと思います。
ここまでは「日月神示」を読んだ上での、ただの感想であり、妄想にすぎません。
ただ、そう考えると今の世に起こることも妙に説明できてしまうというか、変に納得してしまう部分すらあります。
「オノゴロ島」から葦の船で流されたヒルコ神は、北のロシアに流れつくとまず「父への復讐」を誓ったでしょう。
その父は「月と地球を司る神」であり、その身体は「日本列島」にあるのですから、かの地を分断し天の益人(日本人)を根絶やしにすれば、父「伊弉諾命」への復讐になります。
そのためには、まず「人間」を大勢従え、日本を攻め落とす「尖兵」に変える必要があります。
ロシアに上がった悪神にとって、地続きの「ユーラシア大陸」は常に国境が隣り合わせのため、領土紛争が絶えず「戦争」には事欠かない土地だったでしょう。
そこで悪神は、人類が誕生してからこの数千年、ずっと「帝国」を中心とした「侵略と征服」の文明を依代とし、徐々に「悪心」を人間に植えつけて行ったのではないでしょうか。
ヨーロッパの大地は元々肥沃な土地ではないため、領主が富を増やすには領土拡大を続けるのが効率的です。
ヨーロッパの戦史は、人類の歴史そのものと言っても過言ではありません。
シュメール文明、エジプト文明からギリシャ文明、ローマ帝国と続き、アジア、イスラム系の文明も隆盛してくると、ヨーロッパは戦乱の時代となります。
ローマ帝国が滅びると、かつての構成国のフランク王国が中心となり、西欧は諸王国が権勢を競う群雄割拠の時代に突入します。
中世が終わり「大航海時代」を迎えると、西欧諸国は世界各地を侵略し、現地住民を虐殺し掠奪しては、西欧に「富」を運び入れました。
フランスの王権と争い続けたイギリスは、時に新大陸「アメリカ」への植民地化を始め、先住民を殺戮してはアフリカ大陸から「奴隷」として人々を連行してきました。
そして、彼ら「奴隷」となった黒人をプランテーションで働かせることでアメリカは「富」を集約し、ついには覇権国イギリスから「独立」を果たしたのです。
この「文明史」は、まさに「戦争と搾取の歴史」そのものです。
アメリカの黒人は未だ差別の対象であり、貧富の差は歴然としています。
世界では互いに異なる民族同士が争い、憎み合うことが国家ぐるみで推奨され、その教育を受け入れる人々は自然と他民族への「迫害意識」を抱きます。
その「悪意」が世界に蔓延するからこそ、これまでの世界は草葉の陰に至るまで憎み合い、いがみ合う時代になっていたのではないでしょうか。
そして現在、「グローバリズム」という毒にも薬にもならない強弁が世に蔓延ることで、人々は分断され真の「多様性」や「自由」が脅かされています。
その上部には、富裕層を中心とするエリート階級の「利権」が見え隠れし、裏というか表として堂々と「世界政府」が語られています。
日月神示「月光の巻・第三十二帖」にはこうあります。
「世界連邦と申しているが、地上世界のみの連邦では成就せぬ、片輪車で、いつまでたってもドンテンドンテンじゃ」
この神示が書かれたのは1958年ですから、「国連」がまだ健在だった頃です。
ウクライナ侵攻で常任理事国のロシアがなし崩しの言動を取ることで、国連は事実上「絵に描いた餅」になってしまい、今ではNATOが半分役割を担っています。
その国際秩序が脆弱になった頃合いを見計らって、「世界経済フォーラム(WEF)」のような国家的エリートと富裕層を中心とする組織が、堂々と「世界新政府」などと言い出して今に至ります。
神示の降ろされた時代と違うとは言え、いくらなし崩しになろうと「国連」に世界征服のような悪どいことはできなかったでしょう。
なれば神示に語られる「世界連邦」というのは、アメリカの超富裕層で構成される「世界新政府」を意味し、その脅威が「日本を八つ裂きにするために、世界中から攻め寄せる」という説明とピッタリ一致するのです。
「悪神」はこれまで人間の欲望を刺激し、その支配欲を原動力として「争い」を支配してきました。
それは「戦争」だけでなく「競争」においてもです。
「お金」や「社会的地位」や「ルックス」は、人々のモチベーションにもなり得る反面、無意味な優越感を煽り、憎悪を生み出す原因でもあったのです。
また、過剰な「右肩上がり」の市場的バイアスは、大勢の人々の幸福度を犠牲にしてでも「企業」として隆盛することを良しとしました。
その「経済」の仕組みを最大限に使って史上最大の「帝国」となったアメリカは、第二次世界大戦で敗戦国となった日本を占領し、その国家の枠組みすら好き放題にしてきました。
それはまるで、「お金」というモノに宿った悪神が、日本を「金で潰そうとしている」ようにも見えます。
ヒルコ神の次に誕生した「アワシマ」は、神産み国産みでは「島」と「神」が同時に産まれていることから、ヒルコ神は「アワシマ」の守護神と言えます。
現在、米国株式市場を席巻する「第二次ハイテクバブル」という「アワ」が、金融を支配する「ヒルコ神」によるものだとすれば。
アメリカ経済という「アワシマ」は、国常立尊の眠る「オオヤシマ」の国を攻め落とすことができるのでしょうか。
神示には、「金で治めて金で潰す」とあります。
悪神が日本を金で潰そうとするなら、金を「金」で潰されたら日本は潰せません。
どうも私は、そういうシナリオになりそうな予感がします。
ゆえに、悪神の思惑は「神示」の通りに潰えるのではないでしょうか。
しかし、悪の思惑が潰えたからと言って、それが「平和」を意味するとは限りません。
神示の言うように「悪を抱き参らせる」には、既にある「悪」と手を取り合うことが必要です。
これまで「お金」が世を悪くしていたのだとしても、「お金」自体が悪いのではありません。
「戦うこと自体」が悪いのではなく、「競争自体」が悪いわけではありません。
お金が好きな人も争いが好きな人も、殴り合いが好きな人もいますが、それを望まない人がたくさん巻き込まれる仕組みが問題なのです。
そもそも、自分がしたいのなら似た人々を集めて、似た者同士でやればいいでしょう。
超富豪も、一つの島や大陸で収まっている分には全く問題ありません。
その食指を世界中に伸ばし、サービスを寡占し、政治を牛耳り、利権を得るために弾圧し、言論をピックアップし、情報を統制し、争いを仕掛け、搾取する仕組みを世界中の人々に強制するのが良くないのです。
そこまで徹底したシステムを緻密に組み上げてきた悪神は、言い方は悪いですが腐っても神であり、やはり素晴らしい神能であらせられると思います。
ただ、そういう時代は終わらせなければなりません。
「お金」は商業取引をスムーズに行う最善の手段であり、当然これ自体は有用なものです。
だから、「お金の時代」が終わるということは「お金に対する向き合い方が変わる」だけで、「お金」そのものの性質まで変える必要はありません。
問題なのは、資本の形骸化した仕組みだけが一人歩きし、それを良くない使い方をする人々が多いからで、改まるべきなのはその「仕組み」です。
「悪」と手を取り合うとは、追従することでも懐柔することでもなく、存在を許しお互いが存立し合いながら、「害」となる仕組みを最小限にしていくことです。
「悪」が存在してもこちらの「善」が損なわれなければ、そこには「自由」があるだけであり、その状態を「共存」と呼びます。
この「共存」を阻む力「害」こそ退けなければならない「悪」であり、このための自衛にこそ「戦い」はあるべきなのです。
「共存」を阻害し、境界を無くすということは巨大な力が集権を強めることであり、それは「独裁」を可能にし全体を「帝国化」するでしょう。
それが最終的な「グローバリスト」の目的であり、その支配欲を覆い隠すためのレトリックが選択の限定された「多様性」です。
しかし中央集権というのは、歴史的に見てこれほどハイリスクで、不安定な社会構造は存在しません。
その為政者が露悪的で、野蛮さを隠さないほど強権的となり、その傘の内にいる人々は生存を脅かされるでしょう。
その脅威が強まるほど危険性は肥大し、人々は「滅亡」に近づいていきます。
その趨勢を感じる今、本当にそうなることを「神々」はお許しになるのでしょうか。
もし「悪神」がこの世界に君臨し続けようとするなら、人間を絶滅させた上で草木や動物相手に「悪」を行うことはできません。
つまり、「人間」あっての「悪」であり、人間のいない世界の悪魔は大してやることもないはずです。
だから「悪」と人間は持ちつ持たれつであり、永く「悪」であるためには良い塩梅に人間を滅ぼさない方が良いでしょう。
ゆえに、悪神からしても人類が滅ぶことだけは避けるはずです。
ならば、「人間を生かす」悪の中には何%かの「善」があるはずです。
果たして「100%悪ではない」悪神とは、本当にこの世界を闇に沈める大魔王と言えるでしょうか?
それはそれで、「悪」を支配する「大神」の下で「大神」のために働く「正しい」神なのではないでしょうか。
「悪」がこの世界に必要だからこそ、この世界に悪があることが神々から許されているのです。
そして、これまでの時代も、次の時代においても変わらず「悪」が必要なのです。
人間も天使も神も、「ひたすら善良なだけ」の世界に多様性はなく、キラキラするだけのつまらない世界でしょう。
だからこの世界には「歪み」が必要であり、「倒錯」する自由が必要なのです。
そして、その「曲がり事(禍事)」を許す自由を「悪」と呼び、「悪」があるからこそ「自由」はより自由になるでしょう。
ただ「悪」は自分たちでやる分には「善」であっても、その力を外に向けるから「悪」は「害」をなし、許されないものになってしまいます。
その関係に白黒はなく、複雑に絡まる世界の中で、いかに最小公約数の軋轢と最大公倍数の幸福を実現できるか、そこに「善も悪もない」新しい世界の鍵があるはずです。
それが「ミロクの世」だとしたら、カタストロフによる人類の歴史的な学びも、完成へと向かう文明にとって必要なプロセスです。
だから、「悪神」とは「正しい神」であり、本質は「善の神」なのではないでしょうか。
古き良き日本人は、恐ろしい祟りをもたらす悪神や怨霊を、きちんとお祀りすることで味方につける、「御霊信仰」という考え方を持っていました。
昔の日本人にとって、「悪霊」も自分たちに害をなさなければ問題ないし、それだけすごい「霊力」があるならあやかろう、と考えたのです。
「悪神」を必ずしも「ヒルコ神」に結びつける確証は、今のところありません。
ただ「ヒルコ神」は、奇しくも「恵比寿様」として人々に金運をもたらして来ましたが、もしかすると「悪神」も、きちんとお祀りすれば改心することがあるのかもしれません。
神々に仇なす「闇の者たち」も、愛や感謝の気持ちを投げかければ、いつか「光」に戻っていくとしたら。
その願いを抱く人々が生きていく世の中が「ミロクの世」ならば、弥栄しないはずがありません。
「お金」は必要ですが、必要ではない世の中にすれば「悪」にはなりません。
お金が「必要」でなければ生きられない社会を作り上げ、それを食い物にしてきたのが「悪」ならば、そのやり方が通用しない仕組みを作ればいいのです。
「善」を絶対化するから「悪」は際立ちますが、「多様性」という価値観の下で他者を脅かさない環境ならば、「悪」は許され「悪」ではなくなるでしょう。
それは「人間」には実現するのが不可能なことでしょうか?
この地上世界の支配者は肉体を持った人間であり、人間が手を動かすことで作り上げたこの世界を、自分たちで変えられないはずはないのです。
そうして「悪を抱き参らせる」世界になるのなら、何となく古き良き日本の姿に戻っていくだけのような気もします。
私たちは、この数十年で様々なものを失いましたが、むしろ取り戻すために手放したのだとしたら、また掴めば良いだけなのだと思います。
