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2025.12.10

さらば「不良」たち

さらば「不良」たち
2025.12.10

楽太郎です。

まず、先日の青森県東方沖地震で被害に遭われた方々へ、お見舞い申し上げます。

不幸中の幸いと言いますか、震度6強という強い揺れに関わらず、深刻な犠牲者が出なかったことに胸を撫で下ろした方も多かったのではないでしょうか。

 

私は昨日の記事で「自然災害に神の意志はないのではないか」という話をしましたが、人々がそれを「教訓」として意味を見出すことは可能です。

「地震が起こる」こと自体は自然の摂理であり特に意味はないのですが、むしろ神々は、その時その規模で地震をどう起こすかで、人間が「どう考えるか」を常に問うておられるのではないでしょうか。

 

要するに、神は「学びや気づきの機会」を与えるだけで、その出来事を通して人間がどう考え、どう動くかを促すのです。

それはおそらく東日本大震災に関してもそうで、私たち日本人にとって大きな意味のある大災害でしたが、人それぞれに「学び」の内容は違うはずです。

 

今回の東方沖地震に関して言えば、現象としては太平洋プレートの沈み込み以上の意味はないかもしれません。

しかし震度6強の地震にも関わらず、深刻な被害にならなかったことに何かしら「意味」を見出すことは可能です。

第一印象では「大変なことになる」と思っていた方も多かったと思いますが、幸運なことに良い意味での「肩透かし」でした。

この奇跡の「肩透かし」の意味を考えた時、神々はもう日本人を無闇に締め上げるつもりはなく、「油断なさるなよ」という忠告の意図を読み取ることも可能です。

 

これだけ世が荒れる中で、神々から人々に「配慮」の意思を読み取れるとしたら、この地震被害の軽微さから「神の手」を連想するのは容易いのではないでしょうか。

もはや世の動きは「神の手」の内にあって、「生殺与奪は今、完全に神が握っている」ということを示したかったのだとすれば、まさに時代は「悪神」の支配する闇の世は終わり、「神世」となっているのだと思います。

 

私はこれまでを「闇の世」と表現してきましたが、その不条理な時代でも「幸せ」を手にして明るく楽しく生きた人は沢山います。

私も80年代は夢のような暮らしだったと思いますし、逆に言えば「年々状況が悪化する」という波をひしひしと感じてきた世代です。

それでも新しいメディアや娯楽も次々に出てきて、やはりそれなりに楽しかったのです。

 

ただ、それは「夜の街」がネオンで光り輝いてキラキラした賑やかさの「明るさ」であり、私たちは人工的な光の世界を明るいと思っていたに過ぎません。

空を見れば、月が出ていて星も見えますが、「太陽」の光が差さない世だったのです。

少なくともこの3000年はそういう時代だったので、ご先祖様を辿っても本当に「明るい」時代を誰も知らず、経験していません。

だから私たちは夜のネオン街の明るさを、この世界の明るさだと思い込んでいたのです。

 

この「夜の世界」での幸福とは、日の光の差す「光の世界」での幸福とは全く異なるものだったのでしょう。

人々は人生の成功を「お金」に求め、お金があれば人も力も集まり、大抵の望みは叶うため、その獲得に最適な手段を講じます。

ただし「資本」の世界には「元締め」がいて、経済のルールは必ず胴元がいい塩梅の寺銭を取るように出来ています。

私たちは知ってか知らずか、その博打に意気揚々と打って出て「勝った負けた」という話を延々としてきたのです。

 

そんな世界では、人間の汚い部分が露骨に出て、性格的にタチが悪くなってくるのは当然ではないでしょうか。

私が子供の頃は、私がニコニコ遊んでいる時に突然よくわからない子が嫌がらせに来て、さんざん荒らして気が済んだら帰るという、あまりに意味がわからない行動に巻き込まれた経験ばかりあります。

一体自分の何が悪かったとか、何が気に食わなかったとか、おそらくそんな理由はありません。ただ「いじめたくなった」という理由だけで、人を傷つける行動に出るのです。

 

「特に理由もないのに、他人に危害を加える」という心理は私には全く理解できないのですが、その性分はわりと大抵の人が持っているのではないでしょうか。

そうした理由のない「悪意」は、率直に言って人々の荒んだ心の反映です。

無意識に「他人に対する怒り」があるとすれば、自分が受ける「何かが足りない感覚」に繋がり、その根底には「満たされないことへの不満」があるはずです。

 

しかし、誰も「満たされない」ことの正体を言語化できず、言葉にできないから延々と解消できない状態が続きます。

私はここに「闇の世」たる所以があり、人々が自らの不幸感を正しく認識できない仕組みがあるからこそ、一生を費やしても「不満」の原因がわからないという不幸に繋がったのではないかと思います。

 

「イジメ」というのは、子供の頃にあるものだけではなく、むしろ大人になってからの方が多く、それも水面下で目につきにくい部分で陰湿に行われ続けます。

大人の世界で「イジメ」が蔓延しているのだから、子供が大人の真似をしないはずはありません。

結局、物わかりの良いはずの大人が、陰湿な世界に嵌まり込んで抜け出せない状況だからこそ、子供の世界もまた陰湿になってしまうのではないでしょうか。

 

私が若い頃は「ヤンキー」というのが堂々と街を練り歩く時代でした。

今のヤンキーはSNSに潜って見た目上は大人しくなりましたが、おそらく凶暴性は変わっていません。

彼ら「ヤンキー」の性格の悪さも、私は身を持って知っているのですが、今思えば彼らは「心」を蔑ろにする荒んだ時代の被害者だったのかもしれません。

 

私にも酷い反抗期があったのでわかります。

大抵の場合、自分の感性を大人から頭ごなしに否定されることで、大人ならず世界を敵に回して、尚かつ自分を犠牲にしてまで戦いを始めてしまうのです。

その苛立ちは「暴力性」に向かうわけですが、大人を相手にすればコテンパンにされ、将来も潰されるのは目に見えています。

だから自分より弱い者を組み敷き、絶えざる不満や怒りを目下の相手にぶつけ、何とか溜飲を下げようとするのです。

 

「欲求不満」の化身となった不良が「被害者」なのは言うまでもありませんが、最も悲惨なのは不良に組み敷かれる「イジメ被害者」です。

この暴力のヒエラルキーを作り出したのは「大人」であることを忘れてはいけません。

大人の世界に「闇」があるから、暗がりの世界でしか生きられない子供たちを作り出してしまうのです。

 

この世界が長らく「闇の世」であったからこそ、経済の世界に住まう社会人もネオン街の働き手にならざるを得なかったでしょう。

「悪」があるとすれば、夜の世界に力を持つ悪人たちではなく、夜の世界を作り出し、その世界を明るいと人々に信じ込ませ、朝日を登らせないようにしてきた者たちです。

 

その間、光の神々は何をしていたのか、と思われるはずです。
日月神示「富士の巻・第六帖」には、「今は善の神が善の力弱いから、善の臣民苦しんでいるが、今しばらくの辛抱ぞ」と書かれています。

 

おそらく「夜の世界」にもちゃんと警察署があり、駐在さんもパトロールしているけれど、地元のヤクザが圧倒的に幅を利かせていて、国家権力が舐められるような力関係だったのかもしれません。

「そりゃ神頼みしてもダメなわけだ」と思ってしまいますが、悪が蔓延ることも大きなシナリオの一部だとしても、神々にも人間にも理不尽な時代が続いたということでしょう。

 

それほど闇深い時代が3000年も続いたのだから、人類が戦争の歴史を延々と歩んできたのも頷ける気がします。

その中にあって、我が国でも祖父や曽祖父の代には、実際に銃火器で人を撃っていた時代があったのです。

その数十年後には「経済」という社会人同士の戦場、疎開地に住まう子供たちが「イジメ」という、子供同士の戦争に巻き込まれる時代を作り出してしまいました。

 

やはり、いい加減「悪」の世は終わらせなくてはなりません。

 

この世界に「闇」を作り出す悪が根源から払われる時、社会に潜む悪人や不良たちも、深い意味で「救われる」のだと思います。

今まで「欲求不満」の原因を蔓延させてきた世の仕組みが壊れることで、彼らが怒りを抱く原因が消え失せるからです。

私はこれが「悪を抱き参らせる」ことの真髄ではないかと思います。

 

この世界の闇を祓い、悪を打ち砕くというのは、目立つ悪人を葬り特定の権力者を打ち倒すことではありません。

世の仕組みを根本から変えることで、「悪人」が「悪」となる原因を消し去ってしまえば、自ずと「悪人」はいなくなります。

それが「悪を救う」ということの意味であり、救われた悪人は必然的に「改心」するしかなくなります。

悪人は心を改め、罪をきちんと償い、善良な人々と和気藹々と暮らせるようになる世界に「弥栄」以外の表現があるのでしょうか。

 

私は個人的に、色んな人たちから煮湯を飲まされてきたのは否定しませんが、この口惜しさや煮え切らなさを拭えないからと言って、仕返しをしたり見返してやろうなどという気は1ミリもありません。

むしろ自分が酷い目に遭ったからこそ、同じ目に遭う人をできる限り少なくするために、また性格が悪くならざるを得なかった彼らを深い部分で救うために、私は世を変えなければならないと思うのです。

 

ここまでは「理想論」で机上の空論に過ぎない、美しい思想で終わってしまうでしょう。

ただ、今の世界は「日月神示」に語られる100年がかりの「大峠」にあり、これから「岩戸開き」が控えていることを忘れてはなりません。

 

「岩戸開き」には、神示によると「五十九の身魂」が必要だと説かれています。

しかし私は実際に「七人の神人」がいれば「地の岩戸開き」は成就するのではないかと考えています。

「まつりの巻・第十七帖」には、こう述べられています。

「集団のアは神示じゃ、ヤとワとは左と右じゃ、教左と教右じゃ、㋳と㋻はその補助じゃ、教左補、教右補じゃ、ヤの補助は㋻じゃ、ワの補助は㋳じゃ、ア、ヤ、ワ、㋳、㋻、が元じゃ、その下に七人と七人じゃ、正と副じゃ、その下に四十九人じゃ」

 

以前「富士・鳴門の仕組み」という記事で「ヤ」は「伊奘冉命」、「ワ」は「伊弉諾命」、「ア」を「天照大御神(撞賢木向津姫命)」を意味すると書きました。

「天の御三体の神」に当てはめて考えると、「ア=天御中主神」「ヤ=高神産日神」「ワ=神産日神」となり、㋳と㋻はその裏の働きとなり、これが「五柱の神」を意味します。

ではその下にいる「七人と七人」とは何かと言うと、「正と副」とあります。

 

「冬の巻・第一帖」に「霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ、幽界的自分が副守護神じゃ、本守護神は大神の歓喜であるぞ」とあることから、「本守護神」を自分の「分御霊=本体」と考えて、魂に「正守護神・副守護神」を宿す人間が「七人」であるということだと思います。

しかし、その下に「四十九人」とあることから、やはり「56人」は必要であるように思えます。

 

「日の出の巻・第十五帖」に「手二本足、二本入れて十柱ぞ、手足一本として八柱ぞ」とあり、上記の「人」とは「柱」であり、人間の部位として考えることもできます。

先の「56柱」に「一人=八柱」で割ると、「7」になります。

 

「扶桑の巻・第一帖」から、少し長いのですが引用します。

「五十連いつら世に出るぞ、天に神の座があるように、地には人民の座があるぞ、天にも人民の座があるぞ、地に神の座があるぞ
七の印と申してあるぞ、七とはモノのなることぞ

天は三であり地は四であると、今までは説かせてあったなれど、いよいよ時節到来して、天の数二百十六(216)地の数一百四十四(144)となりなり、伊邪那岐三(3)となり伊邪那美二(2)となりなりて、ミトノマグアイして五となるのであるぞ

五は三百六十(360)であるぞ、天の中の元のあり方であるぞ、七の燈台は十の燈台となり出づる時となったぞ、天は数ぞと申してあろう、地はいろはであるぞ」

 

この「数」は「円周」を模した360度を元にしています。

「天の数216」が「伊邪那岐3」となったことから、伊弉諾命の「取り分」として考えると、「216÷3」で伊弉諾命の取る天の数字は「72」になります。

「地の数144」を「伊邪那美2」が取るとすれば、同じく割って伊奘冉命の地の取り分は「72」です。

「天と地の総数360」を「伊邪那岐・伊邪那美5」の二柱の合計数で割っても「72」になります。

 

この「72」というのは、「天に神の座があるように、地には人民の座があるぞ、天にも人民の座があるぞ、地に神の座があるぞ」とあることから、「天の神座・天の人民の座」「地の神座・地の人民の座」を2種類それぞれ示し、それが「七の印=7」ということではないでしょうか。

この「7」を2つ、「7」に7掛けすると「49」となり、やはり「49人」という数字が浮かび上がってくるのですが、一方の「7」を「神の座」、7掛けする方を「人民の座」とすると、それぞれ「七柱」は一対の「神と人」となり、要するに「神人」です。

 

そして、この「七の燈台が十の燈台になる」というのは、「56÷8=7」ですが「59の身魂」で考えると「3」足りない状態でした。

「七の燈台が十」になれば「59」に付合し、ここで追加される「3」というのは、「ア(神示)・教左・教右」であり、要するに「天日月神」のことではないでしょうか。

 

そして「〇一二三四五六七八九十」が揃い、「鳴門=七る十」が完成すれば「富士の仕組み」は成就するため、「岩戸開き」は「七人の神人」によって成し遂げられると読むことが可能です。

 

「青葉の巻・第三帖」には、こうあります。

「役員よきにして今の世に、よき様に説いて聞かせて、先ず七七、四十九人、三百四十三人、二千四百〇一人の信者早くつくれよ、信者は光ぞ、それが出来たら足場出来るのだぞ」

ここでは「七七」とあり、「七人」とは書かれておらず、7の7掛けした「49人」をまず示しています。

これが「七柱=一人」と「七柱=一柱神」を意味し、この「七神人」が「49柱」に当たることは上述した通りですが、「343」「2401」も「49」を7掛けしていった数なので、公倍数的な広がりと見て取れます。

 

「天つ巻・第三十帖」からは、こうです。

「手足は沢山は要らぬのだぞ、火垂ひだりの臣と水極みぎりの臣とあれば良いのだぞ、「ヤ」と「ワ」と申してあろうがな、その下に七七七七七と申してあろうがな」

 

この「七七七七七」を合わせても「35」にしかなりませんが、「頭・左手・右手」を含む「五柱」で換算すると「7」になります。

「ヤ・ワ」を「七神人」と換算しても「五柱」に足せば「7」です。

「ア・ヤ・ワ」が「元の神」だとすると、他に「カ・サ・タ・ナ・ハ・マ・ラ」があることになり、これも「七柱」です。

 

やはり、まず最初に「七人」の神人がこの世に誕生すれば、「地の岩戸開き」が成就するということなのだと思います。

 

つまりは、「神」を心に宿した人が「七人」この世にいれば、地の岩戸は開かれて「闇の世」は完全に終焉を迎え、晴れて世は「弥栄」となるのです。

今の世の中は、人間が考えてどうにかできるレベルの問題ではなくなっているがゆえに、「神の手」を借りなければならないわけですが、まず「神の手」を掴める人間がいなくてはなりません。

それが「神人」の役割であり、そういった人物が世に求められているのです。

 

「なんだ、その7人が頑張ってくれたらいいんだ」と人任せに考えられるような方は、たぶんこの異様にくどい長文ブログを読まれないと思います。

つまりは、私以外に少なくともあと6人の「神人」が立ち上がる必要があり、「我こそは」と思う方が、この中にもおられるのではないでしょうか。

「地の岩戸開き」には「最低七人」いれば成就するというだけの話であって、「神人」は何人いても構わないでしょうし、むしろ多ければ多いほど捗るはずです。

 

おそらく、いつかは全人類が「神人」になる時代は来るため、そうそう珍しい時代も長くは続かないでしょう。

次の時代の「型」を出す人がその先駆者となり、「弥栄の世」の道標になっていけば、その実現もより早くなるに違いありません。

最近の空気を鑑みても、いよいよ神様が日本人に本気で「発破」を掛けてきた、そんな感じがします。

前の記事「考える」ことを考える次の記事 「時代」は変わる。

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