楽太郎です。
今回は、私がたびたび言及する「神に仇なす者たち」について、正面切って扱ってみようと思います。
だいぶ前になりますが、「悪霊の正体」という記事の中で「日月神示」と「ルノルマンカード」の一致する内容を引き合いにしながら、「悪霊」の種類について解説したことがあります。
ルノルマンカードの「鼠」「蛇」「狐」が、日月神示に語られる「邪気」「オロチ(八岐大蛇)」「金毛(九尾)」という「悪の三大将」に対応する形でリーディングに出ることから、自分の指針を図る上で参考にしていました。
今考えても不思議な一致なのですが、ただ神示で「ジャキ(二八基)」は「鬼」に対応しており、鼠のようなか弱いイメージは持ち合わせていません。
「地つ巻・第十八帖」には、こうした解説がなされています。
「元の二八基じゃき光理こり湧いて出た現空げすの種は、二八基じゃきと大老智おろちと四通足よつあしとなって、二八基じゃきには二本の角、大老智おろちは八ッ頭八ッ尾、四通足は金毛きんもうであるから気付けておくぞ」
「二八基(ジャキ)」とは、どうも「邪鬼」であって、私が読んでいるような「邪気」というイメージとは程遠いように感じます。
「海の巻・第五帖」には、こうあります。
「八股オロチも金毛も、邪気ジャキも皆それ生ける神、神の光の生みしもの、悪抱きませ、善も抱き、あななう所に御力の輝く時ぞ来るなり、善ぜん活かさなければ悪なるぞ」
ここで「邪鬼」は「邪気」となっており、原文の表記揺れが生じています。
ただ先の文を改めて読むと、これら「悪の三大将」である「下衆(現空)の種」は、「邪気が凝り固まって湧いて出た」という風に解釈できます。
つまり元の気が歪んだことで生じる「邪気」が、凝り固まると「鬼」となり、派生として「オロチ」や「金毛」という魑魅魍魎が出現すると考えられます。
神示では「動物霊」がよく人に悪さをするように語られていますが、私は以前「動物霊的性質のある人間霊」を「動物霊」だと言っているのだと思い込んでいました。
しかし、日本では昔から「狐憑き」や「蟲毒」など、動物霊を呪術的存在として認めてきた歴史があり、その「悪霊」を必ずしも人霊とは言い切れないはずです。
確かに霊的な力のある動物の種族はあるのでしょうが、彼らが「知恵」をもってコンスタントに人間を襲うことの動機に、今いち納得ができる理由が見つからなかったのです。
ただ、調べていくうちに「動物霊」が人間を呪う理由や、「鬼」が人間だけでなく神に仇なす動機がわかってきました。
今回はその考えがまとまったため、記事にしようと思い立った次第です。
日本では、古来から「狐憑き」「狐持ち」という憑依現象が語られていますが、また巷で人を化かして騙したりする「妖狐」の存在もよく知られています。
他方、「稲荷神社」に祀られる「稲荷神」こと「宇迦之御魂」の眷属は「白狐」とされ、崇敬の対象となっています。
日本で「妖狐」と言えば、平安時代に鳥羽上皇を誑かしたとされる「玉藻の前」や、安倍晴明の母「葛の葉」が狐とされることなどが思い浮かびます。
このイメージは、古代中国の「山海経」などに見られる瑞獣「九尾の狐」に遡ります。
「九尾の狐」が「封神演義」の「妲己」などに設定として加えられることで、創作に登場する過程で「悪」の属性を帯びることになったと考えられますが、それは日本でも同様のようです。
どうやら日本では「狐」を「田の神・山の神の化身」として、太古から瑞獣的な崇拝対象として祀っていた帰来があります。
元々「山の神」の眷属だった狐が、弥生時代以降に水田が普及するようになると、里に降りてくる狐を「益獣」として扱い、その風習が「稲荷信仰」に結びついた可能性が高いと言われています。
現代人の私たちにも「霊力のある動物」として考えられている狐や狸、蛇などは中国の「五大仙」と称され、「狐仙(キツネ)」「黄仙(イタチ)」「白仙(ハリネズミ)」「柳仙(ヘビ)」「灰仙(ネズミ)」と関連があります。
これらの動物は、「太陽」や「月」の精気を長年浴びることで霊力がつき、仙術を体得すると考えられていました。
「ハリネズミ」は日本に生息する土着の動物ではないため、主に「狐」「鼠」「蛇」「鼬」が「霊力のある動物」と認識されていたかもしれません。
「鼬が化かす」という話は希少ですが一応確認でき、日本では「ハリネズミ」の所に「狸」が収まっているように思います。
つまり「狐」や「蛇」は、もともと霊力が強い生物であることは広く知られており、日本人の文化の中で信仰対象として根づいていたと考えられます。
しかし「田の神・山の神」の化身である狐が、ただ人間が祀っているだけで人間に悪意を持つとは思えません。
狂言に「釣狐」という演目があり、これは「白蔵主」という妖狐が、「狐釣り」の漁師に狩りをやめさせようと化けて近寄りますが、うっかり罠にハマるという話です。
実は狐が好むとされる「油揚げ」は、私たちが想像する大豆の揚げ物ではなく「油で揚げた食べ物」全般を指し、「釣狐」における油揚げは「鼠の油揚げ」です。
釣狐の漁師は、鼠の油揚げを使って「狐狩り」をしていたのです。
つまり人間は「稲荷神の眷属」として狐穴に食べ物を備え、風習として祀っておきながら「狐狩り」も同時に行っていました。
これは「神の化身」を狩る行為に等しく、しかも霊性が高い種の狐でそれをやってきたわけですから、「白蔵主」でなくても人間に反感を抱くのではないでしょうか。
これは「蛇」に関しても同様で、「蛇」の古語を「蛟(みずち)」と言い、語源的には「水(ミ)つ霊(チ)」と考えられます。
よく川や水源地には「蛇神」が祀られていますが、「水の流れる様子」を蛇に見立て、かの動物を祀ることで水神に肖ろうとしたのでしょう。
これは狐と同様の経緯であり、蛇神信仰は後に大陸由来の「龍」という概念と結びつき、「九頭竜信仰」などに繋がっていったと想像できます。
しかし、やはり「蛇」も信仰対象としてだけでなく、家畜を狙う「害獣」と見られることもあれば、「食用」とされ薬酒などに用いられたり、散々な扱いをされたことでしょう。
これらに共通するのは、人間が彼らを「神」として祀っておきながら、同時に「動物」として狩りの対象にもしてきたことです。
「仙獣」となった狐や蛇の目線で人間の行いを見れば、自分たちを崇めておきながら侮辱されているわけで、その矛盾を気にしない理由があるでしょうか。
冒頭、日月神示の「海の巻」にある「八股オロチも金毛も、邪気ジャキも皆それ生ける神」とは、元々祀られていた動物霊だったものが「邪神化」したとは読めないでしょうか。
また「地つ巻」の「元の二八基じゃき光理こり湧いて出た現空げすの種」というのも、この世界に渦巻く邪念や陰気の類と、負の念を持った動物霊が「凝り固まる」ことで、こうした悪神が誕生してしまったのかもしれません。
「狐」や「蛇」などの霊性の高い動物が「オロチ」や「金毛」になるということは、もちろん最も霊性が高い「人間」が邪神化しない理由はありません。
これがいわゆる「鬼」であり、人間の発する「鬼の気(邪気)」が源となった存在であり、これらを総じて「悪の三大将」と呼ぶのではないでしょうか。
だから予め霊力が高く、神に近い存在の者たちが「神」に上がることなく、負の感情を抱いたまま、憎むべき人間に祟る存在として暗躍するのも納得できるのです。
もちろん人間は様々な人がいますし、ある地域で牛を「神の眷属」として扱っていても、私たちは普通に牛焼肉を食べたりします。
「地域限定で神」などということは霊界としては考えにくいでしょうし、その矛盾を人神ではない高級動物霊がどう解釈するかは、推して知るべしかもしれません。
ただ、これだと人間を憎むには十分な理由になりますが、なぜよりによって創造主である「神」まで呪う必要があるのでしょうか。
最近、「天之日月神」という記事を投稿しましたが、その中で「二見興玉神社」に伝わる「御鎮座伝記」の一節を紹介しました。
そこには、こう一文があります。
「吾又大地心の国(根の国底の国)より悪鬼邪神の地表に出で来りて、大いに世を害い人を苦しめむと荒び、碍ぐる妖魔に相卒りつつ、その惨害を制禦ぎて、生民を護るが故に剛く畏き神と名ずけたり」
この「剛く畏き神」を「素戔嗚命」と比定でき、素戔嗚命の神能は本来「祓い清め」であり、「塞の神」である伊弉諾命、猿田彦大神との同一神格と考えてよいでしょう。
即ち「人間に害をなす」悪鬼邪神に対抗し、人々を守るために魔を制御するのが「素戔嗚命」であり、ゆえに憎き人間たちへの報復を妨げる神も、同時に「仇」となりうるのではないでしょうか。
だから「素戔嗚命」こと伊弉諾命が「国常立尊」として「艮」の方角に封印されたことにも繋がる可能性はありますが、まだ結論づけることはできません。
ただ神示では「ロシアに上がった」地球が泥海の頃からの悪神が、「祓いの神」である伊弉諾命を敵視する根拠にはなり得ます。
ところで、この「仇」という漢字は、成り立ちとして見れば非常に興味深いです。
「九」というのは「曲がる様」を意味し、「人」が「曲がる」ことで「仇=敵」となるのは、直感的に理解できます。
この「九」を「曲がる」という意味で用いられる漢字に、「咎」があります。
上部の辺は「九」の派生であるらしく、要は「口が曲がる」ことで生じる「罪」に対して、行われるのが「咎め」なのでしょう。
この「口が曲がった人」を「咎」める際、追求される側にとって、咎めを与える側は「仇」となるでしょう。
ただ「曲がった人(仇)」だから「咎」を与えるとも言え、どうもどっちもどっち感が否めません。
ただ「素戔嗚命」からすれば、人々を守るために行う「善神」としての完璧な権能であり、ここで言う「仇」とは「咎め」を受ける側からの「逆恨み」のようにも思えます。
日月神示「黒鉄の巻・第二十四帖」には「悪霊自身は、自身を悪と思っていないぞ」とあり、やはり彼らなりに正当性を感じて人や神を呪うのだと思います。
ただ、こうは考えられないでしょうか。
「神に仇なすことで、神を批判的に理解する方法を取っている」としたら、と。
日月神示の「地震の巻」は天明氏が「霊耳」で聞いた霊界の詳細が書かれています。
そこに「月の霊人は歓喜を歓喜として感じ、歓喜として受け入れるが故に、これを味わんとし、批判的となる。為に二義的の歓喜となる」とあります。
この「月の霊人」が「幽界的魂の人々」と考えられ、彼らが持ちうる「反神論」「無神論」は、神の存在を体感するために敢えて「批判的」となり、神に仇をなすことで受ける神々の「咎」をもって、逆説的に神を知るのかもしれません。
「嫌よ嫌よも好きのうち」と言いますが、これを全身全霊で行うのが「神に仇なす者たち」なのだとしたら、何となく憎めなくなるのは私だけでしょうか。
神に仇なす者たちの次元から見れば、憎き人間たちに報復したり憎悪を発散させる「正義」の行為が、神々から一方的に咎めを受けるのは割に合わないように感じるはずです。
しかし神々の座す高い次元から見れば、神から咎めを受けることで神と関わることができ、その瞬間に「神」という存在の実態を知ることができます。
それは私たち人間が正しい手段で「祭祀」を行い、神にあやかろうとする逆の手段を取っているとも言えるのです。
それは「天之日月神」が「この方、悪が可愛いのじゃ(空の巻)」と言い、「悪を抱き参らせよ」と仰る根拠にもなり得ます。
神々の導きに従い「善行」を通して神と関わる人々は、「神とは何か」を改めて知る必要はなく、まして批判的手段を取る必要もないでしょう。
しかし「悪行」を通して神を知ろうとする者は、「罪」を重ねて神から「咎め」を受けるまで、求むべき「学び」は発生しません。
ゆえに、「悪」は最終的に「神罰」を受けるのが目的で罪を重ねるのであり、「愚かさ」とは「学び」に至るまでの試行期間に等しいと言えるのではないでしょうか。
もしかすると「罰」を受けることで感じる「痛み」とは、学びのためにあるのかもしれません。
よく「魔が差す」と言いますが、「魔」が引き起こす「禍事」は、通常の摂理が「曲がった状態」だから生じるものです。
「魔が差す」には「間」がなければならず、人の心に「隙間」があるということは、「気」が抜けた状態にあったからです。
つまり「◯(マ)」に「・(キ)」が入っていないから「魔」が差す余地が生まれるのです。
日本語というのは本当に不思議だと思いますが、こうしてシンプルな言葉にも真髄が隠れているのが面白いところです。
日月神示には「同じ名の神が二つある」と語られる部分があります。
これは私たちが同じ名前の神、例えば「天照大御神」に祈願するにしても、悪い念が入れば「天照大御神」の名を借りた「悪神」が現れ、正しい心で崇拝すれば本当の「天照大御神」の御加護を得られる、ということではないでしょうか。
つまり私たちの心根次第で、同じ神様をお祀りしても全く違う神と繋がることもあり得ると考えられます。
「稲荷神」の眷属の白狐も、白い狐だから「善」と考えるべきではなく、人間が崇敬を持って丁重にお祀りすれば、いかなる名の神であろうと「善なる神」として現れるということだと思います。
逆に、どれほど功名のある神様であろうと、歪んだ気持ちでお祀りすれば「悪神」に霊線が繋がり、却って災いをもたらす可能性もあります。
だから、「善い神か悪い神か」と考えるのは無意味で、人間が正しく祀れば「善神」が現れ、間違った祀り方をすれば「悪神」が現れる、ということなのだと思います。
まして、私たちが感じる「邪霊」という存在も、裏を返せば彼らなりの「正義」や「言い分」もあったりするのかもしれません。
だから積極的に彼らを滅ぼそうとするよりは、むしろ現実的に考えれば「関わらない」ようにすることでしょう。
それは私たちの心に、彼らと同じ心があるから「霊線」が繋がって関係が生じるのであり、私たちにできるのは自らの「邪心」を祓い清めていくことなのではないでしょうか。
こうして「善良な霊」も「悪意のある霊」も、お互いの領域で完全に棲み分けていれば、特に争う意味はないはずです。
どうも「善も悪もない」悪を抱き参らせた世界とは、単に「似た者同士」がコロニーの外部と、下手に干渉し合わないだけの世界なのかもしれません。


