楽太郎です。
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以前、「岩戸開きの真相」という日月神示解説の中で、岩戸開きをした際に開かれる「◯九十(マコト)」の世界について、詳細を省きました。
今回は「◯九十」の世界とは何なのか、そもそも「神界」と呼ばれる世界は何か、書いていこうと思います。
まず、前回のおさらいから始めます。
「至恩の巻・第八帖」では、伊弉諾命と伊奘冉命が黄泉の国で別離を誓い、千曳の岩で天地が隔たれた後、「ナミの神はやがて、九と十の世界に住みつかれたのであるぞ」と述べられています。
「同・第十帖」では、反対に「国常立神も素戔嗚命も、大国主命も総すべて、地くににゆかりある神々は皆、九と十の世界に居られて、時の来るのをお待ちになっていたのであるぞ」と書かれています。
ここで伊奘冉命も地に縁のある神々(伊弉諾命)が「九十」の世界に渡ったとしたら、二柱は「別離」しているところか、同じ世界に同居していることになります。
それでは「千曳の岩」の意味がなく、天地には司るべき神が不在の状況になります。
その可能性もなくはないのですが、文脈として考えると少し不自然な気がします。
そこで、先出の記事で上げた図解を再度取り上げます。

この図では、「天の岩戸」がある「◯一二三四五六七八九十」の世界を「天界」、「地の岩戸」がある方を「地界」として説明しています。
「天の岩戸」の側におられる伊奘冉命から見て、「九十」の世界が「地界側」にあるとしたら、今度は伊奘冉命が私たち人間のいる地上に住まわれていることになります。
これも説明として不自然で、そもそも伊弉諾命が「地界」を司っておられるのですから、またも地界でバッティングしてしまいます。
逆に伊弉諾命が「地の岩戸」のある「九十」の世界におられるとしたら、天界の「十」の世界に座すことになり、それでは立場が逆転してしまいます。
そう考えると、「九」はそれぞれ「一〜八」側にある「中界」「幽界」のどちらかを指し、「十」とは反対側の世界から見ての「十」の世界、つまり「◯」を入れて「一二三四五六七八九」までの「10」の世界を示しているとした方が自然です。
そうすれば「伊奘冉命」は全ての「天界」を治しめし、「伊弉諾命」は全「地界」を治すことになり、筋が通ります。
簡単にまとめると、以下になります。
・天界にとっての「十」…地の十の世界
・地界にとっての「十」…天の十の世界
こうして見ると、司宰神はそれぞれの「十」の世界に座し、「岩戸」によって阻まれた世界は「天地」反対側の世界となります。
そのため、地界に座す地の神々は天界に登ることができず、天界に座す天の神々は地上に降りることが叶わない、そんな状態が「岩戸が閉じられた」世界だったと考えられます。
この「九」の世界については、以下の文章が参考になります。
「星座の巻・第十一帖」
「岩戸が開けたのであるから、元の元の元のキの道でなくては、玉の道でなくては立っては行かん、動かん二二の仕組み、ひらけて渦巻く鳴門じゃ、新しき人民の住むところ、霊界と現界の両面をもつ所、この岩戸ひらいて二度と無い光透ことでひらく仕組み」
これは天界から見て「幽界」、地界から見て「中界」を成す世界として、二つとも「霊界」の一部と思われますが、「現界」との中間的な領域であり、そこを挟む形で二枚の「岩戸」があると考えられます。
従って、それぞれの「九」を開くと「天地」の反対側にあった世界が一気に開け、対局の「◯一二三四五六七八九=10」が現れることになります。
この時、片方の「◯一二三四五六七八九」と向こう側にあった「十」の世界の「◯一二三四五六七八九」が開けると、総数で「二十」の世界が完成します。
ただ「二十二(富士)の仕組み」で考えたら、「二」が足りないことになります。
これが仕組みの妙味なのですが、「天地」は「表裏一体」なので、「◯一二三四五六七八九十」とは「十九八七六五四三二一〇」であり、この「◯」に「・」を入れて「◉」にすることで、天地が結ばれて「不二の仕組み」となります。
この時「・(キ)」を2個入れているので、合計は「二十二」となり、経綸が完成します。
神様の仕組みだから当然かもしれませんが、「良く考えられてるなあ」と思います。
ただ、これを岡本天明翁が頑張って考えたとするなら、IQが180くらいなければ思いつかない気がします。
さて、今回のテーマである「神界」を解き明かす上で気になる点が浮上しました。
ここで「天界」と「地界」が違う世界であるのはわかりますが、この説明であれば「地界」に座す地の神々が「天界」におられないとしたら、その身も「神界」に置かれていないことになるのか、という点です。
強引に考えれば、神は目に見えないし地上におられないのは確かですが、「地の神々はきっと中界におられるのだろう」と想像することも可能です。
ただ中界は「霊界」のごく一部であり、「地の八方世界」が物質的領域だとしたら、地上の神々にとって可動できる世界が小さすぎる気がします。
つまり「天界」を「霊界」、「地界」を「現界」として考えると、「地の神々」の可動領域をうまく説明することができないのです。
私はここで、仮説を立てることにしました。
「天地」とは「霊界」に内包される世界であり、そこにおいて「現界」とは霊界、すなわち「神界・幽界」を含む霊界「天地の世界」とは別の概念なのではないか、と。
整理すると、「霊界」の対極にあるのは「現界」であり、必ずしも「地界」を意味しないという考えです。
「現界」を「物質界」と考え、あくまで「地上の世界」と切り離して考えると、見えてくるものがあります。
「物質界」と「霊界」が対比する世界というのは、「冬の巻・第一帖」にはっきり記されています。
「また物質界は霊界の移写うつしであり、衣ころもであるから、霊界と現実界、また霊と体とはほとんど同じもの、同じ形をしているのであるぞ」
ここで「移写(うつし)」という言葉が出てきましたが、「現界」は「映し世」とも言われます。
つまり「現界」とそっくりの世界が「霊界」にあり、むしろ「映し世の原型」こそが霊界と考えられます。
この「霊界」に地上そっくりの世界があるとしたら、それこそ「地界」と言えるのではないかと、私は考えました。
ここで、新たな図表を出して説明していきたいと思います。

「現界」を「物質」の世界だとすれば、「神界・幽界」を含めた「霊界」は読んで字の如く「霊」の世界です。
「秋の巻・第二十八帖」に、参考になる一文があります。
「霊は物につくと申してあろう、祓いする時はモノにつけて、モノと共に祓えよ」
オカルト好きな方には違和感がないと思いますが、「憑依」は「人」だけでなく「モノ」にも起こり、霊が宿ることがあります。
「呪物」などもその一つですが、神道に用いられる「神籬(ひもろぎ)」とは本来「神霊」が宿るものとされます。
これは「霊界」にも「現界」とそっくりの「モノ」があり、「霊」はその世界にある「モノ」に干渉すると考えれば、ただの物質に「霊が宿る」と考えるより自然です。
つまり「霊界」は「霊」と「霊的なモノ」が同時に存在するからこそ、「憑依」が可能なのだと思います。
上記「冬の巻」には、こうあります。
「宇宙は霊の霊と物質とからなっているぞ、人間もまた同様であるぞ」
「霊の霊」とは、霊界が霊の「身体」を持つ霊にとって実体のある世界とすれば、人間の住む宇宙に及ぶ霊は、厳密に言えば「霊」の一部です。
それを「・(タマ)」と表現するなら、「霊の霊」で間違いないでしょう。
「黒鉄の巻・第二十五帖」からです。
「心は草にも木にも石にもあるぞ、天にまたたく星にもあるぞ、ただ薄いか厚いかの相違であるぞ」
この「心」を「霊」として読み換えると、やはり「霊」は遍く物質に存在すると考えられます。
「現界」と「霊界」は違うレイヤーでありながら、現界とほぼ同じ世界が霊界にあり、現界に対応する霊界を「地界」「神界・幽界」に比定しうる霊界を「天界」と呼ぶことができるのではないでしょうか。
「天地界」とは私たちから見える世界を意味するよりは霊界における天地であり、むしろ私たちが接する「宇宙」は「霊」と「物質」が重複する世界であり、ゆえに「霊」を知覚しうる「物質次元」と考えられます。
それを「現界」と称するわけですが、厳密に言えば「霊界」に属する「天」とは無縁の世界であると言えます。
それゆえ、「地界≒現界」と考えても「天界=神界」との繋がりを回復する作業を「岩戸開き」と呼ぶのかもしれません。
天地の岩戸が開かれた「◯九十(マコト)」の世が完成する時、世界は「半霊半物質」の次元に移行すると神示には述べられています。
それは「物質的宇宙」と「霊的宇宙」の統合された「真の世界」となることを意味し、これまでの物質偏重の世が改められることになるでしょう。
その「真の世界」とは霊・物両面の世界であり、物質次元と霊的次元が共存することで霊界の法則が物理の世界にも働くことになり、ゆえに神々の神能が発揮しやすい世界になると考えられます。
「夜明けの巻・第十一・十二帖」の書かれた昭和20年8月6日か7日の時点で、「天の岩戸」がリアルタイムで開かれたと思われる箇所があります。
私の解説では「天の岩戸開き」の折、神界では程なく「天日月大神」が御即位なされているはずで、「旧九月八日」を皮切りに祀り方が変更されていることからも伺えます。
ただ2026年現在、未だに御神威の反映が地上に起こっていないと思いますし、私たちの住む「現界≒地界」にある「地の岩戸」が閉じているのが問題なのです。
「月光の巻・第六十二帖」に「霊界が主で、現実界が従である事分かって下されよ」という一文があり、神示では時間や空間の概念がない「霊界」で起こったことは、順序や現象としては違っても「現界」で必ず起こると言われています。
「天の岩戸開き」が約80年前に実現したのなら、今度は私たちの住む世界で「岩戸開き」が起こることは必然かもしれません。
先の「地の神々はどの世界に座すのか」という疑問については、少なくとも現在は「天界(神界)」に入っておられ、そこから「地界」にアプローチしていると考えられます。
しかし「地界」は未だ岩戸に閉じられた状態であり、神々の御神能が十分に発揮できない状況なのではないでしょうか。
「天の岩戸開き」まで天日月神様がどこにおられていたのかと言えば、やはり天界へは登れず「三千年地に潜っていた」という表現に相応しい状況であられたのかもしれません。
地上には「神社」がありますし、「磐座」や結界のある霊場も存在します。
もしやと思いますが、地上の神々はそうした場所に息づいておられた可能性があります。
さて、ここまでは「現界」を軸にした「地界」の解説をしてきましたが、では神々の座す「天界(神界)」とは何かについて考えていきたいと思います。
「神界」について取り扱う前に、まず「神」とはどういう存在なのか解説します。
「白銀の巻・第一帖」に、こうあります。
「各々の世界の人がその世界の神であるぞ、この世ではそなた達が神であるぞ、あの世ではそなた達の心を肉体としての人がいるのであるぞ、それがカミと申しているものぞ、あの世の人をこの世から見ると神であるが、その上から見ると人であるぞ」
つまり、人間の住む「現界」とは別の次元「あの世」に住む「人」が、人間の心に現れる時に「肉体」を持ち、私たちから「神」として見えるのだ、と語られています。
神とは私たちの「心」に宿る存在であり、神である彼らもより高い次元から見れば、「神」を心に宿す「人」ということなのでしょう。
また、こうも書かれています。
「自分の衣は自分の外側であるぞ、自分を霊とすると、衣は体、衣を着た自分を霊とすれば家は体、家にいる自分を霊とすれば土地は体であるぞ」
人間の肉体を「家」だとすれば、その部屋に住む人が「神」ということになります。
これを図にすると、以下のようになります。

「黒鉄の巻・三十一帖」に、こうあります。
「肉体人に神は直接分からんものぞ、神は能はたらき、神の働きの影しか分からんものぞ、神の姿を見たと申すのは、神の姿の影を自分の心に描き出したまでであるぞ、心に分かっても、肉体に分かるものでないぞ」
神示によると、人間に「神界」は知覚が極めて難しい世界であるらしく、人間が霊視などを通して「視た」神の姿は、もれなく「影」を脳内で描いたものに過ぎないとされます。
従って、神が人間の心に宿る時、神の心象は「影」であり実際の御姿でない可能性は高いのですが、ここで「心にはわかる」とも言われています。
神にとっては人間の心に宿ることが重要なことであり、そのために「人間」という「神の宮」が作られた節もあるのです。
その神を心に宿すに当たって、魂を司る「守護神」という名の「自分」が存在し、それは「神の宮」を守るためと考えられます。
「本守護神」が霊界にいるもう一人の自分「大我」だとすれば、それを補佐する「正守護神・副守護神」もその一部であり、これらの魂は「神の宮」たる人間の「心」を守護する存在と言えるのです。
再び「冬の巻・第一帖」に戻ります。
「あの世の上の世では神の心を肉体として、神がいますのであって限りないのであるぞ、裏から申せば、神様の神様は人間様じゃ、心の守護神は肉体じゃと申してあろうがな」
やはり人間が神の宿る「心」の「守護神」であり、これを読む限り人間は神様と「持ちつ持たれつ」の関係とも考えられます。
「そなた達も八人、十人の人によって生きているのぞ、また十二人でもあるぞ」
「守護神と申すのは、心のそなた達のことであるが、段々変わるのであるぞ、自分と自分と和合せよと申すのは、八人十人のそなた達が和合することぞ、それを改心と申すのぞ、和合した姿を善と申すのじゃ」
「神の宮」を司る守護神(大我)は、どうも霊界を通じて八人十人の「自分」と繋がっているとされ、これは「祖先霊」とも考えられますが、格によっては「神」かもしれません。
「どの世界にも人が住んでいるのであるぞ、⦿の中に⦿があり、その中にまた⦿があり、限り無いのだと知らせてあろうが、そなた達の中にまた人が居て限り無いのじゃ、この方、人民の中にいると知らせてあろうがな」
「◉」の中にある「⚫︎」を拡大すれば「◉」であり、さらによく見れば「⚫︎」の中に◉が存在する、という「入れ子構造」になっていると考えられます。
この「入れ子構造」というのが、「神界」を推察する上で参考になります。
「黄金の巻・第三帖」には「神は神の中に宇宙を生み給うたのであるぞ」とありますが、「夏の巻・第七帖」にもこうあります。
「神も人間も同じであると申してあろう、同じであるが違うと申してあろう、それは大神の中に神を生み、神の中に人民生んだためぞ、自分新しく生むときは、自分と同じカタのものを生む、大神弥栄なれば神も弥栄、神弥栄なれば人民弥栄ぞ、(中略)人民いくら頑張っても神の外には出られんぞ、神いくら頑張っても大神の外には出られんぞ」
神々の「階層」を神界の構造として考える時に、「神の中に神を産む」という概念がポイントになってきます。
「水の巻・第二帖」には、「禊祓詞(天津祝詞)」が記されていますが、一部気になる箇所があります。
「つくしのひむかのたちばなのおどのあはぎはらに、みそぎはらいたまうときに、なりませる、はらえとのおおかみたち、もろもろのまがごとつみけがれを、はらいたまえきよめたまえともうすことのよしを」
通常「禊祓詞」のこの部分は「生(あ)れませる」であり「なりませる」というのは一般的ではありません。
「祓戸大神」たる瀬織津姫命始め四神は、伊弉諾命が阿波岐原で禊をした際、誕生なされたとされます。
ゆえに「生まれた」のであり「成った」という表現は少し不可思議です。
「夏の巻・第五帖」には、こうあります。
「なりなると申してあろうが、
なると申すのは内分は同じであるが、形の変わることであるぞ、ウムとナルとは同じであって、同じで無いぞ」
神々の関係を考える上で、「ウム」と「ナル」の概念は抑えておかなければならない部分であり、まず「黄金の巻・第四十六帖」には、こうあります。
「今度の仕組み、まだまだナルのじゃ、なってなって、なりの果てに始めて成るぞ、生むぞ」
同「第四十七帖」では、こうです。
「ナルとは成る言ことぞ、成るは表、主ぞ、ウムとは
のこと、生むは裏、従ぞ、ナルは内、ウムはソト、ナルには内の陰陽合わせ、ウムにはソトの陰陽合わせよ、成ると生むは同じであるぞ、違うのじゃぞ、成ることを生むと申すことあるぞ、生むこと、成ると見ることあるぞ、ナルとは
なること、自分が大きく成ることぞ、自分の中に自分つくり、内に生きることぞ、ウムとは自分の中に自分つくり、外におくことぞ」
やはり「ウム」と「ナル」は同じであると語られていますが、また「違う」とも言われています。これはどういうことでしょうか。
「黄金の巻・第八十六帖」からです。
「智慧と愛が主の座に居らねばならん、物は愛から生まれるぞ、ウムものが基きじゃ、生まれるものはナルのじゃ、ナルには智慧でなるのじゃぞ」
私たちは「生む」という概念は、「親」の側が「子」を「外に」生み出すことにあると解釈しています。
また「成る」のは「子」が成るのであって、「親」は子供が育つに従って「親」として成長します。
これは私たちが「ウム」が外側、「ナル」を内側と考えるからであり、神示でも同じように表現しています。
神が「子」を自分の内側に生み出す時、それは「宇宙的広がり」があるから可能です。
例えばカンガルーの赤ちゃんは、母親の袋の中で成長しますが、大きくなれば独立せざるを得ません。
しかし「神」は無限の広がりを持つので、自分の内側にまた「神」を生み出すこともできるのでしょう。
そうして自分の中に新たな「神」を生み出した時、自分は「御祖」となり、さらに大きな存在に「成り」ます。
伊弉諾命は、自分の内側に祓戸大神という「御子神」を生み出すことで自分自身が成長した体験を通して、「ウム」を「ナル」と表現していると考えられます。
すなわち、「親神」であられる伊弉諾命は、瀬織津姫命始め「御子神」を自分の内側に生み出したと言えるのです。
これは物質の肉体を持つ人間には考えられないことですが、「霊体」であられる神々にとっては可能であり、むしろ自らの胎内に「宇宙」を作り出せるほどと考えられます。
「祓戸大神」と呼ぶくらいの神格ですから、瀬織津姫命始め四柱の神々の御神威は絶大なはずであり、かの神々を単身でお産みになられた伊弉諾命は、祓戸四神から見たら「大神」に他ならないでしょう。
ようやく、「神界」を解き明かす上で鍵となる「大神」という概念に辿り着きました。
この「大神」というのが、全ての次元を紐付ける基本構造となります。

ここで「大神」という定義を立て直す必要があります。
「神の神」を「大神」とするなら、大神は一つ次元の高い「神」となります。
「神々」という一世界の次元で見ると、神々を統べる「王」もまた「大神」という御神格に預かるのです。
つまり「神の神としての大神」と「神の王としての大神」の二つの定義が存在します。
「天之日月大神」という御神格は、私たちの一つ上の次元「天界」の「神の王」とも言えるのですが、その次元に座す「天之日月大神」の更に上の次元には、その御神格を統べる別の「大神」が存在し、かの大神も「天之日月大神」と称するのかもしれません。
神が、神の中に別の神をお産みになられる時、ご自身は御子神の神能を司る御神威を持っていると考えられます。
おそらく「自分自身の内に生み出す」ならば、ご自身にはない御神能を御子神に授けることはできないはずです。
従って上位の次元の「大神」は、御子神としての「大神」よりも強大な御神威を有しているはずであり、それゆえ同じ「天之日月大神」でも上下関係が生じているのかもしれません。
神示を読み解く上で、役職に関して曖昧な記述が多いのは、そうした「霊的階層」を加味して考える必要がありそうです。
そして「人間」は最も下層部に位置していると言えますが、人の「心」を神が「宮」とし、また神の心に宿る上位の「神」が座すことを考えると、神が人の心を「宮」とする構造そのものが、全次元の階層に準じているとも考えられます。
人間の住む「四次元世界(※宇宙論でいう「四次元宇宙」を意味しません)」から見て、人間の心に宿る神々の座す次元は「五次元世界」と呼ぶことができ、かの神々の心に宿る神もさらに上の次元とすれば、その連鎖は限りないとも言えるでしょう。
こうして考えていくと、人間の住む「現界≒地界」に対比する「神界(天界)」とは、「五次元世界」という人間の世界から一つ上の次元と考えて間違いないでしょう。
つまり神界とは、神々が作り出した世界の中から、その世界に存在する神々が更に作り出した世界の一部と言えるのです。
ゆえに、神々の作り出した神界の最下部に位置する私たちの世界(地界)が、神界から直接的な干渉を受けるのは当然でしょう。
ここで気になるのは、一体この神々の階層はどれほど続いているのかです。
そのヒントが「青葉の巻・第十一帖」にあります。
「苦しむ時は苦しめよ、苦の花咲くぞ、世は七度の大変わり、変わる代かけて変わらぬは誠一つの九この花ぞ」
この「七度の大変わり」とは、人類史的な意味でも捉えられるのですが、仮に新たな宇宙が「生まれた」回数と考えたら、この階層の全貌が見えるのではないかと思います。
まず最初にあるのは「ム(無)」であり、すなわち「第〇次世界」です。
「第〇次世界」から成りなって生じた宇宙を「第一次世界」とすれば、これから「大峠」で「七回目の大変わり」をするのですから、私たちの宇宙は「第六次世界」でしょう。
一覧にすると、こうなります。
・人間の世界…四次元・第六次
・神の世界…五次元・第五次
・「元の神」の世界…六次元・第四次
・「元の元の神」…七次元・第三次
・「元の元の元の神」…八次元・第二次
・「元の元の元の元神」…九次元・第一次
・「ム」…十次元・第〇次
こうして見ると「有」として存在する神々の次元は、少なくとも「九次元」まで続いているかもしれません。
上記では「八枚十枚の衣」と書かれている以上、人間の住む次元から考えて八次元〜十次元あると仮定すれば、十三次元ないし十五次元世界まで続いている可能性もあります。
よもや「七度目の大変わり」とは、人間の住む「四次元世界=第六次世界」の下に新たな「第七次世界」が誕生する間際の話をしているとしたら、すごいことだと思います。
これまで見てきたように、天地の「岩戸開き」によって可能になるのは「五次元世界(神界)」と「四次元世界(現界)」の統合であり、どちらかというと現界の「霊界化」と呼べるものです。
これはスピリチュアル界隈での近年最大のテーマであった「地球の次元上昇(アセンション)」に近いものを感じます。
いや、アセンションが「大峠」の一部と考えたら、むしろその方が説明がつきやすい気がします。
アセンションに関する話題では、地球が「五次元宇宙」に上昇すると言われています。
これは神示から見れば「天界」と「地界」が統合されることで、現界は霊界の一部となり「半霊半物質」の次元になるとされます。
まさに「アセンション」の内容そのままだと言えないでしょうか。
私の解釈だと、「地の岩戸開き」が行われるのは2029年であり、「五六七(ミロク)」の世の到来が2030年以降と見ています。
近年「アセンション」の終了は2032年頃と言われており、時期的にも一致します。
もし「アセンション」が、新たな宇宙を創造するための一つのプロセスなのだとしたら、これから生まれ出る「新次元」の「神」は現生人類になる可能性はないでしょうか。
いずれ数億年後に地球が滅びると予測されますが、仮に人類が絶滅するわけでなくても、遠い将来に人が「肉体」を持つ意義を失う時が来るのではないかと思います。
人間が霊的に向上した暁には、「神人」となり生ける「神」になります。
「神」に近づくほど、いずれ「人間」として肉体を持つ必要性が薄れ、完全に霊界に身を置く時が来ると考えた方が自然です。
いずれ、霊界に住む人間が新たな宇宙の「神」になる日が来るのかもしれません。
もしこの神々の世界が、そうした「神と人」の連鎖の繰り返しだとすれば、同じ循環を何度も重ねてきた宇宙の痕跡を説明できる気がします。
わりと途方もない話になってしまいましたが、「日月神示」はこうした深淵を垣間見せてくれます。
私たちはこれを「深淵に辿り着いた」と考えて良いのでしょうか。
いえ、80年前に既に開示された「神秘」だからこそ、これからの人々にとっては「スタート」に過ぎないのだと思います。
「神世」とはおそらく、深淵が始まりであり、神秘から始まるのだと思います。


