楽太郎です。
瀬織津姫様のご神璽を受領しに、岩手県紫波郡矢巾町の早池峯神社まで参拝して来ました。
一日通して歩きっぱなしだったので、筋肉痛でほぼ動けません。
その代わり、精神的にはかなり安定しています。
今、稼ぎがにっちもさっちも行かない状況で、これからどうしようかという時期なのですが、不思議と何とかなる感じがしています。
「いい歳して何してるの」と他の人から思うような状況なのは承知なのですが、周りの方のほうが焦りや心配を感じるのではないかというくらい、私としては何も感じません。
これからどうするのか、ということを考えるには「世の中はこうなっていく」という予測が、まず前提になければなりません。
これまでの社会は、とりあえず何がなんでも金を稼ぐべし、という雰囲気でやってきました。
ただ、そもそも「お金」というものを手にしたとて、自分が富や恵みを得られるとは限らず、それに固執しても幸せに近づくとは限らないことに、人々は気づきつつあります。
おそらく、十中八九これから景気回復が起こることはないでしょう。
日本の不況は、日本が単体で引き起こしているものではないからです。その元栓を握っている海外勢力が変わらない限り、日本の状況は悪くなる一方です。
物価高、人手不足、労働意欲の低下に歯止めは掛からず、経済は落ちるところまで行くはずです。
ただでさえ生産や物流が滞り始めているのに、ここで大災害が発生すれば、どうなるかは誰しも予測がつくでしょう。
私も少し前まではそこまでならないだろう、とタカを括ってましたし、神様もさすがにそこまでされるとは思えませんでした。
しかし、この数週間の流れを見ていると、やはり悪い予感は確実に現実味を増していることを実感します。
神様から受けるアイデアの内容や、これからの示唆を俯瞰して捉えると、これまでの時代のやり方よりも新しい時代に合わせた手段を取るように促されているように感じます。
新しい時代、神様の支配する世界においては、これまで続けてきたことや好きなこともそっくり次の時代に持っていけるものだと思っていました。
神様の願いを汲み上げ、自分で企画して始めたこともありますから、それくらいは続けられるものだと安易に考えていました。
けれど、どうやらそうでもないらしいのです。
私にいくつかある才能や、これまで伸ばしてきたスキルは、必ずしも不要になるわけではないと思います。
ただ、これからを生きていくに当たり、神様の意図する方向で人を助ける仕事を確立し、まず経済的な基盤を作ることを先にやって欲しいようです。
この「楽太郎」アカウントを盛り上げ、画業を主軸にして行きなさい、と神様が促しておられるとしか思えません。
それは、これまで数年かけて積み上げてきたキャリアや、少し前までに命がけで進めていたプロジェクトをそっくり投げ出すことを意味します。
イラストレーターとしては、イラストはここ数年ほぼ投げていた分野でもあります。
現時点で稼ぎにほぼ結びつかず、どうせ貫いても先細るのは目に見えているのですが、自分が信念を持ってやって来たことですから簡単に諦めたくない気持ちはあります。
「世の中はこれからこうなるから、こうした方がいいよ」とは、神様から降りてくるアイデアであり、それを受けると自ずと意欲も高まります。
しかし、人間としての意識のレベルでは、自分で一度決めたことは曲げたくないですし、不確定な未来を見据えるなら尚のことです。
しかし、「信念」も悪く出れば「頑固」になってしまいます。
徹頭徹尾に筋を通したい、一度始めたことは根気よくやり遠す、というのは良い部分かもしれませんが、それが悪影響を及ぼすようになれば律儀さは逆に欠点になります。
良い面も、状況によっては悪く出ることもあります。
だから私に必要なのは、発想の転換なのです。
「今までやって来たこと」が「これからも出来る」と思うのは、時代が続いている場合にのみ限ります。
その時代の節目が、転換と呼ぶに相応しい激動期となるのであれば、どれだけやってきたかに関係なく見直しを迫られます。
それは私に限った話ではなく、おそらくこの国に生きる全ての人々に降りかかることでしょう。
逆に言えば、「皆が変わらなくてはいけない時期は間違いなく来るのだから、今のうちに素早く転換しておいた方が賢い」とも言えます。
「この前やっていたアレはどうなった」と言えるのは、時代の煽りも受けない人だからこそ言えることで、おそらくそう言い続けられる人はほぼいなくなるでしょう。
誰も人の過去を責められないのですから、自分だけが一貫性にこだわる必要もないのです。
私に降りてくるインスピレーションは意識のレベルで納得しがたいものだとしても、それを神様が私のために降ろして下さっているとすれば、神の恩恵を拒むのと同じことでしょう。
このままエゴを押し通し、突き進んでもいずれ絶望の縁に立つことになります。
しかしここで神様の忠告を大人しく聞いておけば、希望を繋げながら生きていくことはできるかもしれません。
その「希望」は神様が与えて下さる恵みそのものであり、それを授かる人間はありがたがるのが当然です。
ただし、神様としては私のためを思ってのアドバイスを、意図して受け取らないのであれば自由だ、と考えておられるに違いありません。
その選択の良し悪しが私はすでに理解しているからこそ、「新しい時代への変容」のための障害が自分にあることもわかります。
そこにあるのは「屁理屈つきの感情」だけだからこそ、執着を手放せば解決します。
しかし、自分が積み上げてきたプライドを捨てる覚悟は、かなりの葛藤です。
ただし神様はその選択のために、あくまで優先順位をつけて仕事をして欲しい、と仰られているのであって、「やりたいことを全て捨てよ」と仰りたいわけではないと思います。
神様は「新しい時代に続けられそうなこと」だから私にその選択をさせたがっておられるのでしょう。
私が葛藤を終えれば自動的に解決する話なので、神様は静観して待っておられると思います。
神様はどれだけ人間に目をかけていても、加護やお導きをいくら与えたとしても、決して甘やかすことはありません。
人間から見ればうまくいかない、ついていないと思うようなことも、神様からすれば遍く正しいお導きなのでしょう。
私たちは、何の障害もなくトントン拍子でうまくいくことを願い、それを助けてくれるのが神様だと思いがちです。
しかし、人は魂の修行としてこの世界に生まれ、その形而上学的な世界においての幸福は、人間の考える「豊かさ」の中にあるとは限りません。
下手にうまくいくことばかりだと、人間は調子に乗ります。
神様からはどうかと思うことでも、人間は自らが豊かになればそれが正しいと思うでしょう。
それは自分の目から見えて成功にしか見えなくても、長い目で見たら不幸への伏線だったりします。
うまくいかないことは、人間にとって絶望的で不幸なことだと思います。
しかし、神様は正しい学びをするならば、その境遇を成功への伏線として用意なされます。
神様とは、小手先の幸福よりもっと本質的な幸福に導いて下さる存在なのかもしれません。
人間にとって、それは納得のいかないことばかりのはずです。
人間は目に見えて手元に何かがないと、安心できないものだからです。
けれども、「手に入れたから不幸になったもの」「持たないから良かったもの」は、すぐにわかることはありません。
私の半生もこの数年の出来事も、ずっと「持たないから不幸だ」と思っていましたが、いずれ「持たなかったから幸せになれた」と思える日が来るのかもしれません。
神様は、人間よりもはるかに長いスパンで物事を見ておられるので、人が目の前の事象に一喜一憂するのも修行のうちだと考えておられるのでしょう。
その過程で手に入れたもの、失ったものに人間は心を囚われますが、そこから自らを解放して進んでいくことこそ、人が成長するということなのだと思います。
「過去を捨てる」ことは、自分のプライドや自尊心の支えにしてきた物事への手放しを意味します。
それは、誰にとっても簡単なことではありません。
自分の実績は惜しいですし、途中で投げ出すのも、投げ出したように見られるのも耐えがたいものです。
けれど、次の時代を生きるには少しでも荷物になるものは、今のうちに降ろしておいた方がいいのでしょう。
そして身軽になった分、新しい挑戦もしやすくなりますし、新しく手に入れたものを持つことも出来るようになります。
それは、未来をより良くしたいという想い以上に、神様を信じるからこそ出来る選択です。
もしかすると、すぐには決められなくて構わないのかもしれません。
ただ、神様は私の性格をご存知ですから、パッと割り切ってしまうのに時間が掛からないこともご存知のはずです。
このモヤモヤはすぐに取り払えるものではありませんが、もう喉の奥まで答えが上がって来ているのも感じています。