「降誕人」について

楽太郎です。

今回の記事は、地球の次元上昇に係る「天命」を持って生まれた人々、「降誕人」について書きたいと思います。

私自身は、天からお役目を与えられた魂を持つ人のことを「命(みこと)持ち」と呼んでいます。
ただ、日月神示の「龍音の巻」で語られる「降誕人」と同じ意味だと思っています。

「龍音の巻・第三帖」にはこうあります。
「特別の使命をもつ天使は、最下級の霊界まで降りて来て、人民に特別な通信をなし、指示することもあるぞ、また天使の霊が母体に宿り人民として生まれ来る事もあるぞ、末世にはこの種の降誕人が沢山あるぞ

この一文は、「磐戸の巻・第十二帖」にある「誠の者は、千人に一人だぞ」という一節と繋がっているように思います。

私はこれまでの人生経験上、魂のレベルから「善良」な人とも数多く出会いました。
それはただ単に、上っ面で「良い人そう」とかいうのではなく、本質的に「天性の善人」だからこそ、この歪な世界では善良さが裏目に出て、何となく残念な境遇の人たちが殆どでした。

そうした「似た魂」の人々の割合は、「磐戸の巻」から推察する「千人に一人」という実感に符号します。
日本の人口は1億2000万人ですから、「12万人」というのは、私が思うにかなり妥当な数字です。

けれど、高い霊界から降りてきた潜在的な「降誕人」が、その10倍はいるのではないかと思います。
その大半は「覚醒」に至るまでの人格に至らず、「普通の人」と同じ感覚で埋没しているように見えます。

この「降誕人」には、幾度も輪廻を重ねてかなり高い霊的階層に至った高級霊が多く、ごく少数ですが一度も輪廻せずにいきなり「人間」に生まれ落ちた「元天使」もいます。

この地球の波動は「物質」による引力が働くので、やはりそれなりに低い波長域にあります。
しかも、低次元の霊界である「幽界」の支配力の強い「闇の時代」が長らく続きました。
その期間は、現代に至るおよそ3000年くらいだと思います。

従って、高い霊的階層から地上に降りてきた「降誕人」にとって、この世界は全く勝手が違うわけです。
人々は基本的に粗暴で、簡単に嘘をついて誤魔化し、自分の責任を放って逃げ回ることが多いです。
また、人々は妙な理屈で行動しますし、全く合理的ではない「謎のルール」に支配されています。
それが多数派の世界は、まず降誕人は生まれついて最初に「面食らう」のです。

「良いのか悪いのか」を判断する前に、あまりのカルチャーショックに動揺が起こります。
まず、ここが一番陥りやすい降誕人の「つまずきポイント」だと思います。

特に、霊的に高位であればあるほど「天界」の記憶、人間としては身につけた光の性質を「感覚」として強く持っています。
天から持ってきた感覚が強ければ強いほど、この世界の勝手と自分の元いた世界の勝手が違いすぎることに、まず混乱してしまうのです。

高い波長の魂であればあるほど、波動の重たい「肉体」とは乖離が生じます。
天界での肉体は「霊体」ですが、彼岸の世では自分の意識体と外部から認識される形には、殆ど齟齬がありません。
しかし、この世界では「肉体」というガワがあるため、自らが認識する自分の姿と、鏡に映り他人から見える自分とは全く違うものに感じられます。

「魂と肉体の乖離」だけでなく、「自意識の乖離」もそこで起こります。
これは子供の頃に素直であり、可愛がられながら育つうちはあまり大きな問題にはなりませんが、人格が成長し肉体も形作られていくほど違和感や不快感が大きくなっていきます。

いわゆる普通の人というのは、魂と肉体との関係においてあまり波長の差がないため、このような違和感は抱きません。
しかし魂と肉体との間にズレを感じる人は、この違和感を抱いたまま他の人と同じことをして、同じ競争をするのですから、上手くいかないことも多いでしょう。

あまりに「普通」のことができないので、よく「発達障害」とか「サヴァン症候群」、「ギフテッド」とか医療的診断を受ける人もいるかもしれません。
けれど、こういった「魂と肉体のズレ」を深い問題にするのは、大抵「何でアンタはこんな簡単なことができないの」という他責にあることが多く、ゆったりとした環境なら問題にならない性格でも、周りが尻を叩くせいで問題を大きくしてしまうのです。

そして、「良くできる」という性質だけを社会的にピックアップした結果、同じ発達障害でも「ギフテッドなら許される」という雰囲気にしてしまいました。
そこで、生きづらい人々が持つ真の「天性」はますます引き出せない環境になっています。

脳科学的には「発達障害」と診断されても、本質は目に見えず知覚できない「魂」にあるのですから、「目に見えない」という性質を否定している以上は、物質的(脳科学的)な原因を全てだとしてしまうのは無理ないかもしれません。

しかし、こういった「魂と肉体のズレ」を感じる人というのは、そもそも素直で善良な人が多いのです。
だから周りが「そんなこともできないのか」「ダメなヤツだ」と言い続ければ、自分が本当にダメで欠陥のある人間なんだと、心に深く刻み込まれてしまいます。
そのつもり積もった「挫折体験」が、対人関係や社会に不安を感じ、尻込みしてしまう要因になりやすいのではないでしょうか。

そうした「負のループ」に嵌まり込むようなシステムが、これまでの社会では完璧に作り上げられていた、というのが本当のことだと思います。
だから天性の力が強い人というのは、生まれた時から違和感を引きずり、人があまりしない困難や悩みと向き合ってきた人が多いのではないでしょうか。

特に、これまでの世は悪が支配する「闇の世」だったわけですから、天から使命を持って生まれ落ちてくる光の存在は、優先的に潰しておきたい相手でしょう。
私が出会った「同じ魂の性質を持つ人たち」というのは、心の奥底に純粋さがあるからこそ、深く傷つき闇を抱えてしまった人が多かったように思います。
そして、いくら「光の側」でも世に揉まれては魂を曇らせ、ケチョンケチョンにいじめ倒されたら「闇堕ち」もしてしまうかもしれません。

また、「天の記憶を引き継いでいる」ということは、自覚していなくても潜在的な霊能力をそれなりに持っていたりするのです。
私は芸術畑にいたのでよくわかりますが、感性が鋭く感受性が豊かな人ほど、天の性質を引き出している人が多いように見受けられます。

芸術家肌の人が病みやすい理由は、ここにあると思います。
潜在的な霊能力が発露しているということは、相応に人の念や邪気を受けやすいというだけでなく、この社会の仕組みと本来の霊的あり方、そして自分の天命とはズレた行動を取ることの矛盾を感じやすくなります。
その「矛盾」こそ表現のモチベーションにもなり得るのですが、実のところその純粋さには「魔」が巣食いやすいのです。

ゆえに、天から役割を与えられて地上に降りてきた人は、だいたい「やりづらさ」を大なり小なり抱えながら生きてこられたはずです。
その苦しみはなかなか人に言って理解されることはなく、ただ「不器用だ」と思われていたし、自身もそう思い込んでおられるかもしれません。

難しいのは、「魂と肉体にズレがある」という原因になかなか気づくことができない世の中であり、「目に見えない世界」を徹底的に否定する社会であったからこそ、誰しも容易に辿り着くことができる答えではなかったのです。

ここで私の話をするなら、このブログでも何度か書いているように、常に「他人をガラス越しに見ている感覚」が生まれつきありました。
どうやっても人より冷めている部分があり、「その程度のこと」ではしゃいで夢中になれる同年代を遠目で見ながら、それでもその輪の中に入りたかったし、ずっと彼らのようになりたかったのです。

だから思春期の頃は、あえて「絵」を捨てて、音楽に走ってみたり演劇に夢中になったり、色々してみました。
今思えば、それも「魂と肉体のズレ」を埋めようとするだけでなく、「自分と他人のズレ」を埋めようとする努力だったのかもしれません。

しかし、どうもこの溝を埋めるのは「自信」をつけたり能力を身につけるというより、「自分の魂」そのものと向き合い、そのズレの正体を知ることを抜きにしては解決できないことに、私は気づいたのです。

その解決方法とは、「自分の魂」と「肉体」のズレを知るだけでなく、「目に見えない性質の何か」で魂と肉体の波長差を埋め合わせ、調和を図ることです。
その「目に見えない何か」は、人それぞれ違うかもしれません。
私の場合、それは「信仰」という形でしたが、人によっては「愛情」であったり「自信」であったり、様々でしょう。

そこには、自らの魂の性質やバックボーンだけでなく、自分の魂に与えられた「天命」に関わるテーマがあるはずです。
それゆえ、十把一絡げに「降誕人はこうすべきである」と言うことはできません。
それは自分自身と深く向き合い、常識や先入観を捨てきった先に見えてくるものです。

神示に出てくる「身魂(みたま)磨き」というのは、自らの「富士の山」を開くことを意味しますが、それは唯一無二の自分自身に気づき、それを「山」である自分の肉体に落とし込むことです。
そのプロセスは人それぞれであり、テーマの数ほど違うのですから、絶対的なマニュアルは存在しません。

誰もが一人一人の世界の「神」であり、その世界を補完し司るのは「自分自身」である以上、外側にある横並びの「神」に依存しきるのは間違っています。
そして、その真髄へと向かっていく道こそ「神の道」であり、人が「自分自身」である限り本来通るべき道、生き方なのだと思います。

ただ、これまでの時代はそれが難しい環境であったのは、やはり否めません。
何かと誘惑も多かったですし、わざと道を踏み外すようなトラップも多く、それどころか意図的に「潰してやろう」と思って歩み寄る連中も多かったはずです。

「降誕人」とはそもそも純粋で、素直かつ善良な人が殆どでしょうから、そう言った悪意に気づかず騙され、まんまとハマってしまうのは仕方ないことです。
これまでの世の中は「お人好し」につけ込んで、他人を餌食にする人間ほど成功しやすい環境だったのです。

けれども、やたら長文のこの文章を最後まで読み切る根性のある方は、それを乗り切ってこられた強者でしょう。
だから、そういう人はこれから人の上に立ち、人々を導いていく器がしっかりできた人だと思います。

神様は、わざとイジメ倒すために、天から地上に子供たちを遣わせたわけではないはずです。
むしろ、そうやって人一倍苦労したからこそ、見えるもの、できることがあるはずです。

その知識や能力を無駄にせずに活かしきることに、これまでの苦労の意味があるではないでしょうか。
そう言った人は、むしろ幸いなのかもしれません。

なぜなら、苦労を重ねた実力者に最も有利な時代が、すぐそこまで来ているからです。