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2026.01.17

「奥山」について

「奥山」について
2026.01.17

楽太郎です。

 

前回「十柱の神について」という記事を投稿しましたが、読み返してみて面白いことに気がつきました。

最近、日月神示関連の投稿が多くなり、全く時事を追えていませんが、今月「新月」と今回の記事に絡めた本題は中盤以降に入っていこうと思います。

ご了承の上、お付き合い下さると幸いです。

 

さて、その「気づいたこと」というのは「空の巻・第三帖」から引用した「あめつち御中の神」に係ることです。

「ひふみ四十九柱、五十九柱、神代の元だ
ぞ、あめつち御中ムしの神、あめつち御中
ムしの神、あめつちの御中ムしの神、あめ
つち御中ウしの神、あめつち御中ウしの
神、あめつち御中あめつち御中ウしの神、
あめつち御中あめつち御中ウしの神、あめつ
ち御中ウしの神、あめつち御中ウしの神、あ
めつち御中あめつち御中天地御中ヌしの神、天地のはじめ」

 

この「あめつち御中ウしの神」は二回登場し、「高神産日神・神産日神」と「伊弉諾命・伊奘冉命」に対比した段で、同じ記述に当たっているようです。

 

 

これが興味深いのは「あめつち御中ウしの神」という御神格は「天御中主神」視点で言えば「高神産日神・神産日神」と「伊弉諾命・伊奘冉命」が「同格」の扱いになっているからです。

そして「伊弉諾命・伊奘冉命」の上位存在と考えられる「新しく生まれ出でる神々」の「国常立大神・尊」と「豊雲野大神・尊」が「あめつち御中あめつち御中ウしの神」であり、「伊弉諾命・伊奘冉命」に内包される形になっています。

 

また二柱の御子神であられる「撞賢木向津姫命」は、「あめつち御中あめつち御中天地御中ヌしの神」であり、「新しく生まれ出でる神々(国常立大神・豊雲野大神)」の直下、それも「伊弉諾命・伊奘冉命」の「中」に置かれた形になるということです。

 

これは「伊弉諾命・伊奘冉命」の「元の生き神」としての御身体のまま、実質的に「高神産日神・神産日神」の次元まで戻られるということではないでしょうか。

そうでなくては「元の元の元の大神」を自らの御魂に内包することはできません。

そう考えると「伊弉諾命・伊奘冉命」が「大日月地大神」として大統一神に大出世する構図が、かなり明瞭に読み取れます。

 

この状態において私たちの住む「天地」と撞賢木向津姫命を「主」とする八百万の神々が「国常立大神」と「豊雲野大神」という「元の元の元の神」の直接統治下に置かれることとなり、かなり強力な体制に変わることがわかります。

これまでは地上で「悪神」と対等に渡り合ってきた伊弉諾命が、その次元から少なくとも二段階上昇することを意味するわけで、そこまで「格」が違えば「悪」もそれは可愛く見えて来るのではないでしょうか。

 

「善の神」がここまで強大な実権を握る世界が、闇の居場所が1ミリもないような、光の差す世になるのも納得できる気がします。

それこそ「悪の御用」が完全に「善」のために使役され、用が済んだらさっさと退場させられる世界が、未来永劫「弥栄える」のも当然かもしれません。

 

言葉で粗筋だけ聞いていても、何となく「ミロクの世」の感触が掴めてしまうのは私だけでしょうか。

三千年もの間、神々を封じ込め、人類史を金と戦争で染め上げてきた「悪神」の支配する時代が、ここまで完膚なきまでに塗り替えられるとしたら、確かにどんな手を使ってでも神を「無きもの」にしようとする理由もわかる気がします。

 

私たち現代人は、史跡や博物館で見たり知ったりする歴史以上に「闇のない時代」を推しはかることはできません。

なぜなら「文字」が日本で使われるより前、気の遠くなるような御先祖様に遡っても「闇の世」だったからです。

ゆえに、私たちがいくら「日月神示」を間に受けたとしても、神々が支配する「光の世」を想像できないのも無理からぬ話ではないでしょうか。

 

さて、話は変わるのですが、前回の記事で「撞賢木向津姫命は天御中主神に比定可能である」という話をしました。

これに関しては「暴論」と受け止められかねないと承知していますし、せっかくなので補足説明をしたいと思います。

 

参考として「白銀の巻・第二帖」に、以下の文言があります。

「よく見て下されよ、愛はそのまま愛でないぞ、真はそのまま真でないぞ、善はナマでは善でないぞ、智はナマでは智でないぞ、・を入れて結んで解けてヨロコビとなるのぞ」

 

神示にある他の記述を合わせると、「愛・善」は「ナミの神(日)」、「真・智」は「ナギの神(月)」の性質があるとされます。

これは「高神産日神・神産日神」と「伊奘冉命・伊弉諾命」にも当てはまり、二柱の間には「・(キ)」が挟まることで両円環の結合が果たされます。

 

これは前回の図で示した「国常立大神」の「サ」の段、「ス」の柱と「豊雲野大神」を示す「ナ〜ノ」の和合と関連しています。

この「ス」を考える上で、岡本天明氏による「日月神示解説」が参考になります。

「地震の巻・第十九帖」から、少し長いのですが引用します。

 

「三人が元となり、その中心の一人は「・」 によって現わされ、他の二人は「⦿」によって現わされる。「⦿」は、左右上下二つの動きのを為すところの立体からなっている。

統治者の心奥の・は、さらに高度にしてさらに内奥に位する・の中の・によって統治され、立体をなしている。

天国ではこの・をスの神と敬称し歓喜の根元をなしている。

スの神は、アの神と現われ給いオとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給うのである。

これが総体の統治神である。三神であり、二神である。

ア・オ・ウは愛であり、エ・イは真である」

 

「アとはアイウエオぞ(地つ巻)」とあり、また「アイウエオからアオウエイの世に移って来るぞ、用意は良いか、アオウエイの世が天国じゃ(春の巻・第十七帖)」とあり、「神々の序列」を意味する縦軸の「アイウエオ」が変化すると書かれています。

「天国」への変化とは「真・智」である「イ・エ」が下位となり「愛・善」である「ウ・オ」が上位になるのがわかります。

 

ここで印象的なのは、「地(智)の神」であられる伊弉諾命が「天日月大神」として君臨する世界においては、「愛」という「日」のポジションに就かれることです。

本当に「智・真」の「月の司宰神」が「天照大御神」を襲名するであろう兆候が読み取れ、感慨深いのは私だけでしょうか。

 

ここで「スの神」が二柱ならず統一の象徴であることがわかりましたが、図にすると以下のようになります。

 

 

どうも「スの神」とは「ア」の系統にあるらしく、「ア・ヤ・ワ」の図式で見ると「天御中主神」と繋がりがあるように思えます。

そして「ア」の対極にあるのが「御三体の大神」で対偶関係と思しき「撞賢木向津姫命」の「ラ」となります。

 

こうして見ると先述の「白銀の巻」にある「」の六芒星が「天の御三体」と「地の御三体」に対応していると言えるでしょう。

そして六芒星の中の「・」が「スの神」であり、そこを起点にして上下のトライアングルを形成しています。

この六芒星の上下の頂点が「天御中主神」と「撞賢木向津姫命」とすれば、二柱が「表裏一体」であることもわかります。

 

「ヤ・ワ」は「火垂り(ひだり)の臣」と「水極り(みぎり)の臣」で対極の「渦巻」を成していることから、それぞれの回転の向きで「ウム(無から有へ)」「ナル(有から無へ)」の循環となります。

この解説に関しては「岩戸開きの真相」に詳しく書いています。

 

「黄金の巻・第四十七帖」には「ナルとはこと、自分が大きく成ることぞ、自分の中に自分つくり、内に生きることぞ、ウムとは自分の中に自分つくり、外におくことぞ」とあることから、「スの神」が「ナル」の極で自らを「成長させる」時には「天御中主神」という相、「ウム」の極では「撞賢木向津姫命」の相と考えれば、かの御神格が同一神でありながら「表と裏」の関係にあることが伺えます。

 

「火垂りの臣」を「豊雲野大神」、「水極りの臣」を「国常立大神」と考えると、「スの神」を中心とした大円環を「素戔嗚大神」と比定することができます。

「龍音の巻・第十九帖」に書かれた「祓い」の詞では「国常立大神」と「大日月地大神」と共に「素戔嗚大神」も列記されており、ここで述べられる三大大神は、ほぼ同じ御神能を有すると考えられます。

 

この三大大神を総称して「大国常立大神」となり、かの大神は「国常立大神」と「豊雲野大神」の二柱を主体に「スの神」を中心とした「一神にして二神、現れとして三神」という説明の通りになります。

ただ、これはあくまで「概念」であり、仕組み上はこうなっていることを知っていても、実際の神界や神様にどう当てはめて考えることができるかは未知数です。

 

さて、ここまでが前回の「十柱の神々」の補足になります。

なかなか時事関連の記事を書くタイミングがないのですが、今は「経綸」の上で重要な時期にあるらしく、神様はできるだけ「一二三」の解説を進めて欲しいのだと思います。

 

それでは、ようやくここで本題に入ります。

明後日19日は新月となりますが、かねてから私が言及していた、地球意識に根づいた新しい集合意識の気場、「精神界」が一般開放されるようです。

 

この「精神界」という気場は去年の夏至に完成して、これまで特定の人々、いわゆるアーリーアダプターにのみアクセスが許可されている状態でした。

私は去年5月の満月あたりで「人世に戻された人たちがいるようだ」という話をしていますが、どうも精神界のアーリーアクセス権を取得できなかった人々に対する言及だったように思えます。

 

この集合意識の気場は「我良し」の性質の魂は入って来れない仕組みになっています。

それはこの「霊団」が神々の直下にあるからであり、従来の集合意識が置かれている「霊気層」、私がそう呼ぶ低波長の領域は「幽界」の干渉が強く、逆に精神界の波長域は「神界」と強い結びつきがあります。

 

これまでアーリーアクセス以外を制限してきたのは、この気場がしっかり安定するまでノイズとなる周波数を持ち込まないためです。

ただ後に述べるように、この気場が次のステージに移行する準備が整ったため、一月新月を期に「一般開放」されることになったらしいのです。

 

12月新月あたりから「神々が人の心に火をつけて回っておられる」という話をしていますが、そろそろ「個の大峠」も佳境を迎えている人がゾロゾロ出てきたということかもしれません。

「個の大峠」は、早い人では2020年頃には始まっている方もおられると思います。

 

その年には「コロナ・パンデミック」が始まり、長年かけて積み上げてきた大切なものを失い、人生を1からやり直さざるを得なかった方もおられるのではないでしょうか。

かく言う私も2021年には大概のことに嫌気が差していたので、体感的に「個の岩戸開き」までの所要期間は三年から七年くらいだと思いますし、やはりそろそろ「個の大峠」を終える方が出てきても時期的におかしくありません。

 

私は12月末に「十の扉」を開いたとブログに書きましたが、あれは「冬至」がきっかけかもしれない、と後で気づきました。

まさかとは思いますが、冬至が「十至(とうじ)」であり、2025年12月22日を以て人が「十」の道に入ることが許された、なんて事があるとしたら奇遇すぎないでしょうか。

 

だから一月新月は、タイミング的に「精神界」の扉が広く開かれるのも全く脈絡のない話ではありません。

ところで、この「精神界」が日月神示において、それっぽく示唆されている文言が所々にあります。

 

「星座の巻・第十一帖」に、こうあります。

「新しき人民の住むところ、霊界と現界の両面をもつ所、この岩戸ひらいて二度と無い光透ことでひらく仕組み」

 

私は以前、どこかの記事で「幽界の消滅(縮小)が、地球の次元上昇に関与しているのではないか」と仮説を述べたことがあります。

この領域が「精神界」であり、この気場を生成するために「中界」や「幽界」の一部が削り取られ、この「区画整理」の憂き目に遭った不浄霊が地上に降りてきている、と当時からボンヤリ考えていたのですが、今思えば大して間違っていなかったように思えます。

 

私の神示解説でも「中界・幽界」を挟んで「天地の岩戸」があると説明しているので、話としては筋が通ります。

どうもこの「精神界」という「霊的領域」が、日月神示では「奥山」と呼ばれる場所ではないかと考えています。

 

今回のテーマはそれなのですが、ここまで前置きが長くなり、申し訳ありません。

 

「黒鉄の巻・第八帖」には「天国のカタチ、ウツシが奥山ぞ」とあり、また「黄金の巻・第七十九帖」ではこうあります。

「心を入れ替え、奥山へ参って、その場で荷物を持たす様になるから、ミタマを十分磨いておいて下されよ、神が力添えするからどんな見事な御用でも出来るのであるぞ」

 

他の箇所では「十柱の神々を奥山に祀れ」と、「奥山」を「神の宮」となる人間の肉体と読み取れる文言が複数あります。

しかし上記では「神の御用」を承る場所とも考えられ、やはり「精神的(霊的)領域」と考えて間違いないでしょう。

またこの領域が「天国のウツシ」であることから、神界の気が強い空間と考えられます。

 

先の話に戻すと「精神界」が一般開放される一つの理由として「個の大峠を渡り終えた」人々がチラホラ出てきている中で「十の世界」に到達した人々が、今度は「大奥山」に集まり始めたからではないかと思います。

 

「月光の巻・第七帖」に「大奥山は、神人交流の道の場である」と書かれています。

また「同・第二十帖」では「大奥山と教会とを混ぜ交ぜこぜにしてはならん、教会やその他の集団は現われ、大奥山は隠れじゃ、大奥山はこの度の大御神業にゆかりのある神と人とを引き寄せて練り直し、御用に使う仕組み」と述べられています。

 

つまり、現時点で「大奥山」に「神人」が集まり始めた兆候なのかもしれません。

私は「地の岩戸開き」に必要な「神人」の数を「七人」と考えていますが、神々としては「奥山」に大勢いる「神気の通う人々」をインターン代わりにして「大奥山」に選抜部隊を結集させる、というご計画なのだとしたら、「七神人」は全く隙のない集団になるかもしれません。

 

ただ「大奥山は有って無き存在、大奥山だけに関係を持つ人もあるのじゃ、囚われてはならんぞ(同上・第二十帖)」ともあり、必ずしも互いを知り合うような「集団」を形成することは勧奨されていません。

おそらく、互いに見ず知らずだけれど「霊団」としては深い繋がりがある、そんな人々がそれぞれの環境で「御用」をする、それが「大奥山」の仕組みなのかもしれません。

 

私としては「いよいよ」という日が近いのかな、という印象です。

この「七神人」が大奥山に結集した時、霊的な活動において「地の岩戸開き」が成されるのだと思います。

それまで悠に三年はある見込みですが、その間に世の中もどう変わるのでしょうか。

 

最近、時事ネタを扱う機会がなく心苦しいのですが、先ほども述べた通り神々からすれば「経綸」を先に進めることの方が「お役目」としては重要なのでしょう。

日本の政治にしても、世界情勢を見ていても、私としては例え「実力行使」をしてでも、この世を何とかしたいという思いが出てきてしまいます。

 

しかし、人それぞれに「お役目」があり、その人にしかできない「神の御用」があるはずです。

神様からしてみれば、下手に「同レベル」の諍いに身をやつすより、神々の下で合理的に役割を果たしてもらいたいでしょう。

 

それが可能なのが「奥山」に入り、神々の御用に預かることだと思います。

そのためには「身魂」を磨き、まず「我良し」という考えを捨てなければなりませんが、そもそも「日月神示」を読んだり、死ぬほど長文の私のブログなんかをご覧になられるような方なら、大して難しくないのではないでしょうか。

 

この三千年に及ぶ「闇の世」を切り拓く七人の「神人」は、必ずしもキッチリ「七人」いれば良いという訳ではなく、何人候補がいても神様からすれば「より取り見取り」であった方が嬉しいでしょう。

 

神様のご計画とは言え、天の神々を喜ばせる人々が多ければ多いほど「弥栄の世」は早く訪れ、また明るい時代に繋がっていくのだと思います。

その時のためにも、私は自分にできることをするだけです。

前の記事「十柱の神」について次の記事 「天地の時」

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