汝、隣人を愛せ

楽太郎です。

本日7日満月、私は先日のブログで「7日が光と闇の相剋にとっての天王山になる」と書きました。
7日満月のジャストタイムはお昼の12時48分なのですが、占星術的には6日午後には実質的な「満月」が始まっています。

なるほど「天王山」とはよく言ったもので、最近あまりないような頭痛に見舞われています。
具合が悪かったので横になっていたのですが、寝苦しくて目を覚ますと、あたかも頭上で「光と闇」がぶつかっているような印象を抱きました。

「天王山」とは、1582年に織田信長を討った明智光秀に対し、「中国大返し」を行った羽柴秀吉が摂津の山崎で挑んだ戦いを指します。
「天王山を先取した方が勝つ」という逸話は歴史小説の「太閤記」が出所のようです。
史実としては天王山と男山の狭隘のある裾野は当時沼地で、軍が通行できる箇所はそこしかないため、先に布陣を張った明智軍を羽柴軍が「どう切り崩すか」の戦いでした。

つまり、現実では「三日天下」を治めた明智光秀が天王山含め、山崎一帯に先に陣を張っていたのです。
明智軍を「悪役」みたいに説明するのは、歴史好きとして少々気が引けるのですが、これまで「闇の勢力」が支配していたフィールドに知略で挑んだ「光の勢力」という構図は、まさにそっくりです。

とは言え「天王山」の用例に従えば、「天王山」を先取した羽柴軍が「下剋上」を果たして天下統一を成し遂げたことに準えると、その戦いを制した「光の勢力」は逆転勝利を決するはずです。

話を現代に戻すと、自民党総裁に「高市早苗」氏が選出されました。
自民党というのは、中小企業経営者の支持が多いとされますが、近年問題になっている「金満体質」を見ればわかるように、財学民官との既得権益と癒着が甚だしいからこそ、あらゆる問題を抱えています。

高市総裁は、むしろそう言った「金の流れ」に関して厳しい態度を貫き、政治家として潔癖すぎるからこそ、安倍内閣退陣後になかなかチャンスが回って来ない状態が続きました。
某首相経験者二代目のような、既得権益を正しく継承してくれそうな政治家の方が、往年の自民党支持者にとって様々な利得はあるでしょう。

その辺、私は意外な番狂せだったと正直思っています。
おそらく、自民党支持勢力の中でも重工長大製造系の企業群が、左翼丸出しの外交担当に任せているとトランプ関税で頼りない戦果を持ち込まれ、傷口が広がる懸念があったのではないかと思います。

このまま「高市内閣誕生」まで行くと思いますが、高市総理の評価に関しては組閣まで待とうと思います。
ただ、個人的にこのタイミングで保守系人気の高い高市さんになったのは、面白い兆候だなという印象です。

私の「日月神示解説」では、現段階を「三四五(みよいづ)」の「三」、現時点で「6号目」としており、「地獄の三段目」の中間地点にあると考えています。
つまり、私の読み方だとあと一枚か二枚、底があると思います。

これから考えられる「一番底」というのは、災害でない限りは「米国株大暴落」です。
それを見越して保守系の総理にタイミングを合わせたとしたら、かなり興味深い流れです。
混迷するEU、もはや瀕死の中国、戦争で疲弊しきるロシア、この国際状況で米国経済崩壊が加われば、見えるのは「世界恐慌」でしょう。

そうした世紀の大事件が起こる気配が強まる中、内向きの力を持った政治家が国家代表になるというのはどういう意味を持つのか、気になります。
私は個人的に、自称「保守」の「アメリカ贔屓」が高市さん激推しだったにも関わらず、そのオファーを水面下で蹴り続けていたのを目の当たりにしているので、ちょっと一味違う展開を期待しています。

とは言え、アメリカを見てもわかるように経済崩壊のタイミングに合わせて、自分たちで大ピンチを作り出しながら「やっぱ無理だわ」とトランプ政権に丸投げした米国民主党の例もあるので、対抗勢力の「見せしめ」に合わないことを祈ります。

当のアメリカと言えば、10月1日から政府の一部閉鎖状態に陥っています。
これは民主党と共和党の対立が大きすぎて予算が通らないという機能不全を象徴していますが、こんなギスギスした状態で経済が「ソフトランディング」しても、また離陸しそうな気配すらします。

結局のところ、アメリカ財政に関して連邦準備制度もトランプ政権も無策であり、外国を脅して「タダ同然」でカネをせびるか、「関税」という名のみかじめ料をせびるか、「第二次ハイテクバブル」というアトラクションの観覧料をせびり取るかの3点を、ひたすらゴリ押しするしかありません。

だから私は以前からの見立てを全く崩していませんし、むしろ「言った通りになってる」とすら思っています。
だから、たぶんこれから起こることも筋書き通りになるかもしれません。

マグニフィセント7をフロントにするITロビー業界も、製薬資本を苗床とするWEF主催のビル・ゲイツの権威失墜により、「ラスト1マイル」のAmazonを筆頭に、世界最大の個人データ集積企業Alphabet(Google)、軍事用生成AI開発企業パランティア社を柱とした、軍産複合派ITロビーが台頭してきて、その縄張り争いを始めています。

実はハイテク大手連合は、「グローバリスト」として思考原理は同じでも「俺が一番になってやる」という敵愾心を全員持っているので、足を引っ張れるならすかさず引っ張るという間柄に過ぎません。

その中で、いつでも粉飾決算を暴露されかねないNVIDIAや政府補助金を打ち切られたテスラのイーロン・マスクは、もはや「選手交代」を迫られ、最近まで気配すらなかったオラクル、インテル、AMDやデル、コアウィーブなどの有象無象がその後釜に待ち構えています。
「IT独占状態」にしかイニシアティブがないアメリカ株式市場で、こんな同士討ちが起こればいよいよ時間の問題ではないでしょうか。

日月神示に「金は世を潰す元ぞ」とありますが、 「雨の巻・第十帖」にも興味深い一節があります。

「理屈は悪と申してあろうが、悪の終わりは共食いじゃ、共食いして共倒れ、理屈が理屈と、悪が悪と、共倒れになるのが神の仕組みじゃと分かっていながら、何にもならん事に今に世界がなって来るのぞ」

今のアメリカを見ると、まさにこの状況ではないかと思います。
最近知って驚いたのですが、アメリカ国民の7割がカトリックとプロテスタントに属し、「信仰は必要である」と考えているそうです。

「汝、隣人を愛せよ」という言葉を聞いて、なぜ黒人などへの人種差別が未だ横行し、利権が貧富の差を増大させ、欺瞞と暴力的服従と搾取が堂々とまかり通る世の中になるのか、私には全く理解できません。
この国において「宗教」というのが正しく機能しているのか、私は甚だ疑問です。

しばらくこの矛盾について考えていたのですが、先日あるヒントを見つけました。

西暦711年、イスラムのウマイヤ朝がイベリア半島に侵攻し、ジブラルタル始め地中海一帯を制圧しました。
ゲルマン民族の侵入以来、混沌とした状況にあったヨーロッパは、東方との貿易による輸入品に頼っていましたが、イスラム勢力に地中海を抑えられたことで物資に事欠くようになります。

8世紀に外征を繰り返し、一世代で西ヨーロッパを平定した「ヨーロッパの父」こと神聖ローマ帝国のカール一世は、11世紀まで地中海の掌握をイスラム勢力に許すものの、国内の経済基盤の確立にも辣腕を振います。
その時、「カロリング・ルネサンス」という文化的事業を起こしており、ゲルマン人侵攻以降は聖職者のみの言語となっていた「ラテン語」を「聖なる言語」として教会管理下に置き、そのため聖職者(知識階級)のみ用いる「学術用語」として定着させました。
修道会を筆頭に、その知的財産は「権威」を保証し、技術は経済や軍事の特権を持ち続けたのです。

つまり、神聖ローマ帝国誕生以降の西ヨーロッパは、「聖職者」という知識階級、エリートのみが権威ある知識を用いることができ、それ以外の大衆は貴族と言えど文字を学ぶことすら難しかったのです。
その象徴的権威が「ローマ法王」であり、その権力闘争が中世ヨーロッパの歴史の中心になったのは言うまでもありません。

どうも、神聖ローマ帝国を祖とするアングロサクソン系の国家に連綿と受け継がれる「エリート主義(選民思想)」は、ローマカトリックが統治権を掌握するヨーロッパの政治形態に根があるのでないでしょうか。
それがいわゆる「エリート専制主義」「テクノクラシー」「選民思想」として現代に現れている気がしてなりません。

よく考えれば、エルサレム奪還のために組織された第一回十字軍では、ムスリムだけでなくパレスチナ領内のキリスト教徒やユダヤ人も見境なく虐殺しています。
つまり、「キリスト教徒だから穏健である」という根拠を示す事実は、残念ながら歴史的には一切確認できません。

こう言うと宗教差別のように捉えかねないのですが、歴史的事実としてどうも否定できないように思います。
ゆえに、現アメリカ国民が聖書を深く読み、日曜礼拝に欠かさず行くにしても、「十字軍的行動を正当化しうる」のであれば、現在イスラエルがパレスチナ住民をジェノサイドしている現状を問題視しない理由も薄々わかってきます。

「汝、隣人を愛せよ」という言葉を実践するにしても、「ただし、対岸の向こうの連中は殺しても良い」という但し書きを頭の中でこじつけていたら、それも聖書通りの行動として正当化されるでしょう。
しかし、きちんと一字一句を聖書を読んで深く理解するなら、そんな言葉が書かれていないことはわかりますし、どこの国の人であろうと手を繋ぐべき「隣人」でしょう。

もし7割のアメリカ国民に「キリスト教」を深く理解する気があるなら、「中絶は良いか悪いか」という議論をする前に、自分たちの税金がパレスチナの虐殺に投じられていることをまず議論すべきなのではないでしょうか。
その事実に目を背けるなら、「キリスト教」を口実にして派閥争いをしているように見られても致し方ないと思います。

果たして、「宗教」の真の意味とは何でしょうか。

結局のところ、中世以降の西洋文明は「特権階級」が実権を握る口実に知識や技術を牛耳り、その恩恵に預かるために宗教という「権威」を用い、未だにそのシステムが世界の支配を意図しているように思います。
現アメリカ国民の信仰心を逆撫でするわけではないですが、宗教信奉者が根本的に抱くべき倫理観を人々が遵守していると言えるのか、甚だ疑問です。

人々が豊かに平和に暮らし、善く生きるために神が授けた知恵を、人間が歪曲し、勝手にネタにして戦争の口実にするのを、神はどうご覧になられるのでしょうか?

私はこれを見ると、かつてニーチェがキリスト教を「弱者のルサンチマン」であるとし、「神は死んだ」とツァラトゥストラに言わせたのを思い出します。
しかし、神は死んだわけではないし、キリスト教も聖書も死んではいないでしょう。
死んだのは、キリスト教の精神を遵守しようとする「心」そのものではないでしょうか。

今のアメリカ国民が民主主義の要である公正な投票制度を奪われ、どうにも世論を政治に反映できないもどかしさは、確かにあるかもしれません。
とは言え、「無関心」で済ませられるものではないことも、基本的な「善し悪し」の判断も、聖書を読めばわかるはずです。
そこで色眼鏡で見ずに、自分たちの国が、トップが何をしようとしているのか、きちんとした目で見つめて欲しいと思います。

今回はかなり挑発的な内容になってしまいましたが、今あらゆる状況で人々が「理屈」に囚われ、互いの善をぶつけながら「共食い」し合うのを見て、私はそれでいいのかと言いたかったのです。

キリスト教の精神である「隣人愛」は、隣の家の親族だけに当てはまることではありません。
だからこそ、形は違えど同じく「神」を信じる者として、声を上げずにはいられません。