楽太郎です。
このところ急激な世の流れについて、なかなか扱う機会がありませんが、近日中にはしっかりテーマにするつもりなので、しばらくお待ち頂きたいと思います。
というのも、最近は「日月神示」の解読が進み、かなり深淵に近い部分に踏み込んできた印象があるので、行けるところまでは行きたいという感じです。
今の世を見回してみて、天之日月神様が「一分一厘違わんではないか」と仰るのも、わかる状況になってきていると思います。
一つひとつ「あれはこうじゃないか」と解説することもできるのですが、日月神示を読まれておられる方なら当然共感する部分があるでしょうし、あえて詳細に言い当てる必要もないかもしれません。
ただ一つ言えるのは「神と学との戦い」と神示にある事象が、現在かなり具現化されてきているのを感じます。
ここまで実地を目の当たりにすると、どうも神示を否定する方が難しくなってきているかもしれません。
「神と学」の対立において、「神」とは「信心」であり、宗教的な信仰というよりは「目に見えないもの」を感じ取り、それを大事にできるかということです。
逆に「学」とは「科学的思考」だけではなく、肩書きや権力、マスコミの流布するデマも含めて、人間社会の「方便」そのものと言えます。
今、世を席巻する「成功法則」や「技術革新」「世界的権威」なども、言ってみれば「学」の世界にあるものです。
それは「目に見える世界」のロジックであって、その媒体となっているのが「金」や「力」「組織」というものでしょう。
人の作り出した仕組みが「目に見えない世界」を圧迫し、よしんば形あるものだけの世界にして、目に見えない事柄を「無きもの」にする世界にしてきたのです。
今、この世界に生きる人々が「目に見えないものがあるかどうか」を神々から問われ、「目に見えるものだけの世界」に生きるか「目に見えないものがある世界」に生きるか選択し、それぞれの住むべき世界へ向かって道を歩み始めているように思います。
それが「大峠」であり、日月神示では前者を「獣の道」、後者を「神の道」と言います。
これはどちらが良いか悪いか、ではないことを付け加えておきます。
そもそも「善か悪か」とは、神の御旨に沿うか沿わないかであり、人間にとっての価値判断が重要なのではありません。
そして、「獣」には獣の「弥栄」があり、それは自ら望んでなったということです。
神々は数年前から人々の身魂に対して個々に伺いを立てていましたし、何度も確認をなされた上で、各々の進む方向に口出しをなさらず、最後まで自らの選択を尊重なされたように見えます。
今回はそれを踏まえた上で、「神の道」を歩まない人々が決して「悪」ではないこと、そして新たに開かれる「神の道」とは何かについて書こうと思います。
そもそも「神の道」を塞ぐ「岩戸」とは何でしょうか。
「梅の巻・第十一帖」に、こうあります。
「日本の上に立つ者に外国の教えを伝えて、外国魂にしたのは今に始まった事ではないぞ、外国の性根入れたのが岩戸閉めであるぞ、五度だぞ、分かったか、それを元に戻すのであるから、今度の御用中々であるぞ」
この「外国魂」とは、弥生時代に「稲作」や「機織り」の技術を伝えた渡来人や、飛鳥時代以降に我が国に「仏教」や外来文化を伝えた渡来系氏族について、特に言及しているわけではないように感じます。
そういう一面もあるのでしょうが、どうも本質的な部分はそこではないようです。
「磐戸の巻・第八帖」に、こうあります。
「神の国の昔からの生神いきがみの声は、世に出ている守護人の耳には入らんぞ、世に出ている守護人は、九分九分九厘まで外国魂だから聞こえんのだぞ」
魂の状態が「◉」であることが「神の道」を歩む生き方とされます。
ここで言う「外国」とは「◯」であり、かつて神国に住まう日本人は身魂に「◉」の性質がありましたが、五度の「岩戸閉め」によって中の「・」が抜かれてしまったということでしょう。
つまり、日本人が外来の価値観や新しい文化に触れることで「神の道」のプラティック(習慣的実践)が滞り、衰退することで「◯(外国)」同様になってしまった、と仰りたいのだと思います。
「黄金の巻・第八十三帖」からです。
「この世は神の国の写しであるのに、幽界から移って来たものの自由にさせられて今の体裁、この世は幽界同様になっているぞ、地くには九ニくにのやり方せねば治まらん、早く気づいた人民から救いの舟を出して下されよ」
「神の国」とは「神界」を意味し、おそらく日本から見て「外国」は「幽界」同然の状態にあり、日本の国土が「国常立尊の肉体の影」であるがゆえに、特に「神の道」に反してはいけないのでしょう。
しかし、神の恩恵を受けつつ神国に住まう生粋の日本人であっても、魂は「外国魂」になり「生き神の声」が聞こえず、そのため「神の道」が閉ざされているということです。
これが「神の道」を塞ぐ「岩戸」なのです。
以前「五つの岩戸閉め」という記事では、「神の道」を塞ぐ「五枚の岩戸」を考えた時に、以下の本質があるとしました。
- 人が神を都合よく祀るようになった
- 神よりも人間を崇めるようになった
- 神ではない存在を祀るようになった
この精神文化の浸透により、本来の「神道」も形式重視となり、まして宗教界はあらゆる「ワヤ化」が進行したと考えられます。
これが「神の道」を阻害する価値観になっているということは、逆を言えば「岩戸」が開かれた後の世界では、この問題が解消されなければなりません。
ただ、この問題解決を「岩戸開き」そのものと考えると、その普及や実現には時間が掛かりすぎる気がします。
つまり「十分十厘」まで徹底しなければ成しえないような「岩戸開き」は、「一厘の仕組み」には当て嵌まらないと言えます。
ゆえに「神の道」の立て直し自体は「岩戸開き」の後と考えられますが、そこに至るために起こす何らかのアクションが「地の岩戸開き」に繋がるのではないでしょうか。
そして、この神国の「◉」から「・」を抜き取り、「◯」にする計画を立てたのが「悪神」と考えられます。
「日本の人民を餌食にしてやり通すと、悪神が申している声が人民には聞こえんのか(風の巻・第十二帖)」
日本人が外来の価値観や外国の文化を取り入れてきた歴史は、私たちにとっては文明の「発展」という一般認識があります。
それは「◯(外国)」の良いものを取り込んだ結果ですが、それが却って「悪神」の思惑通りとなり、日本人が九分九厘「外国魂」になってしまったと神示には語られています。
これは「功罪」の一つと考えられ、どうも「善悪」では片づけられないように感じますが、それについては後ほど詳述します。
この「悪神」と真正面から対峙してきたのが、この度「天日月大神」となられ、神示を降ろされた「伊弉諾命」御自身でしょう。
ただ元は宇宙創生、神産みの皇祖神であられる「大神」ですから、「悪神」の出自も手管も熟知なされているはずであり、対等に渡り合うには格が違うようにも感じます。
「この方、悪が可愛いのじゃ(空の巻・第十帖)」とあるように、天之日月神様からすると「悪神」を完全に手のひらで転がしておられる印象すらあります。
では、伊弉諾命から見て「悪神」とはどういう存在なのでしょうか。
「梅の巻・第二十六帖」に、こうあります。
「金では治まらん、悪神の悪では治まらん、ここまで申してもまだ分からんか、金では治まらんぞ、悪の総大将もその事知っていて、金で世を潰す計画ぞ、分かっている守護神殿、早く改心結構ぞ、元の大神様に御無礼しているから、病神に魅入られているのじゃぞ、洗濯すれば治るぞ、病神は恐ろしくて入って来られんのじゃぞ、家も国も洗濯すれば入って来れんのじゃ」
ここで日本に入ってきて「金で世を潰す計画」の悪神が「病神」と言い換えられているように受け取れます。
「光の巻・第五帖」からです。
「病神がそこら一面にはびこって、隙さえあれば人民の肉体に飛び込んでしまう計画であるから、よほど気付けて居って下されよ」
どうも現代においても、世を荒らす原因はこの「病神」であり、この「神」が人間に憑依することで人が「悪事」を起こすようにも読めるのです。
「地つ巻・第十六帖」にも、こうあります。
「今に病神の仕組みにかかっている臣民、苦しむ時近づいたぞ、病流行はやるぞ、この病は見当取れん病ぞ、病になっていても人も分からねば我も分からん病ぞ、今に重くなって来ると分かって来るが、その時では間に合わん、手遅れぞ、この方の神示よく腹に入れて病追い出せよ、早くせねばフニャフニャ腰になって、四つん這いで這い廻らねばならん事になると申してあろうがな、神の入れものをワヤにしているぞ」
この「四つん這い」というのが「獣の道」に踏み入った人々と思われます。
そして、病名がつかない「病」こそ「悪神」の作り出した「仕組み」であり、それが「金で世を潰す計画」に繋がるのでしょう。
ここで気になるのが「悪神」の定義が「病神」に変わっているということです。
どうも「悪神=病神」という存在は、やはり元は「神」だったのではないでしょうか。
それも「善の神」であり、大神と同じ「◉」の存在であったのかもしれません。
しかし何らかの歪みが生じて「・」が抜け「◯」のみの身魂となってしまったからこそ、神として「三種の神宝」を失い「剣の御心(外に向かう力)」と「鏡の御心(内に向かう力)」のみの神能となり、「玉=・(キ)」を失った状態にあるのではないでしょうか。
この「玉の神宝」が神を神たらしめる「愛・善」や「真・智」を司る力と考えられ、これが「◉」であるはずの神から欠落すると、「病」の掛かった神「悪神」となるのかもしれません。
そう考えれば「善も悪もない」と神示に語られ、また大神ご自身がそうしたお考えを元にご計画を立てておられる説明もつきます。
神にとって「悪」とは「・(玉)」を喪失する「病」であって、本来なら「◉」であるはずの健康状態が損なわれ「◯」となった姿であり、そもそも「悪神」という種族が存在するのではなく、悪神とは「病気」になった「善の神」なのではないでしょうか。
だから「悪神」に対して必要なのは「成敗」ではなく「改心」であり、神として見れば「治癒」なのかもしれません。
そう考えると、「悪」について全体的な定義が変わってきます。
私たち一般市民から見て、犯罪を犯すような「悪人」は必ずしも「病気」とは思えませんし、同次元で見ると「敵」になります。
しかし神の目線から見ると、「悪」とは「魂の病」であり、厳密に言えば悪ではなく「健康状態」にすぎません。
つまり平面で考えるから「悪」が敵に見えてしまうのです。
誰かが不摂生な生活で病気になり、他人に病気を移したり、迷惑をかけたりすることを「悪行」と思う人は殆どいません。
仮に病んだ人が起こす犯罪は、大抵の場合法的に「情状酌量の余地あり」となります。
この「悪神」の罹患する病とは「穢れ」であり「・(キ)枯れ」なのかもしれません。
「穢れ」とは「キ(・)」が枯れることであるとよく言われますし、日月神示にもそういう言い回しが見られます。
これは語源としては正しくない可能性があるのですが、意味は合っていると思います。
「◯」とは「気枯れ」の状態であり、本来の形ではないからこその「病」でしょう。
もしかすると、神々から見て人間の「悪」同様に「悪神」の病も、「魂の状態」として見えるのかもしれません。
ただ悪の厄介なところは、自分が「病」だと認識することは殆どありえず、また自分の負の感情を「苦しみ」と思わず、その状態を治して欲しいとも一切思わないことです。
反面、悪神は「魂の病」が消えたら自分たち「闇の者」もいずれ消え去ることを知っている気配があります。
だからこそ、彼らは人間が「霊的無知」の状態にあり、無知蒙昧のまま「目に見える世界」に縛られ、欲望のまま自分たちの介入を受け続けて欲しいと願うのでしょう。
人間の「覚醒」を阻害する理由もそこにあり、自分たちのような「幽界」的存在が世に蔓延すれば、より「闇」の勢力は維持できるからです。
ただ、彼ら「闇=病み」の存在を大神が許し給い、それどころか彼らを「必要」と考えて生み出された事実を忘れてはいけません。
私たちが病気になる時、病の原因を「無くなって欲しい」とは思いますが、病気になること自体が「罪」とならないように、「悪」というのは状態に過ぎず、それゆえ同じ次元で「敵」として争ってはいけないのではないでしょうか。
私自身も経験がありますが、誰しも状況と状態によっては「悪」となります。
確かに「悪行」自体は罪となりますが、魂の状態で言えば「病」にすぎません。
誰でも知らずのうちに「◯」となり、物事を形骸化させ、それを傲慢にも「力」で押し切ろうとするでしょう。
それが顕著に現れるのが「幽界」であり、その干渉を我が国よりも強く受ける「外国」なのだと思います。
ただ、どんな国の人であっても同じ「神の子」であり、大神から遍く「分御魂(わけみたま)」を与えられた神の一柱です。
ゆえに、魂の性質として「◯」の状態でも、そこに「・」を入れれば、誰しも「神の臣民」となれるはずです。
この違いをまず頭に入れた上で、諸外国に対して差別せず、しかし「区別」を弁えた上で私たち日本人は、これからの地球を考えていかなければならないと思います。
おそらく日本以外の国は「神の道」とは遠い文化圏にあり、それゆえ「幽界」の影響を受けやすく、特に「悪神」の病に罹患しやすい風土と言え、「外国」が幽界的となるのは地理的に避けられなかったのかもしれません。
日本人が、かつて「◉」であり「神の臣民」であったのは言うまでもないでしょう。
しかし「闇の世」が三千年も続き、戦乱や圧政の歴史の中で、外国から入る文明の煽りも受けながら次第に「◯」偏重の時代となっていきました。
これは「◉」の身魂を持つ日本人がそっくり別の民族に入れ替わったわけではなく、「闇の世」に長く浸かるうちに「・」を喪失したことで、九分九厘まで「外国魂」に変わってしまったということだと思います。
つまり現代の日本人が罹患しているであろう「病」とは、悪神に掛かっているような「・」の喪失であり、これを解決するには「・(キ)」を「◯(ミ)」の中に入れ直すことでしょう。
これが「改心」であり、身魂の病の「治療」であり、そのための処方が「身魂磨き」なのではないでしょうか。
「三種の神宝」とは、「剣の御心」「鏡の御心」に加え「玉の御心」が中心点になるからこそ、円滑の働きが二つの力に加わり「ウム」と「ナル」という「🌀」の働きをもたらします。
この三つの作用によってモノが生まれ、育まれ成長し、いずれは完成するのです。
しかし「◯」に備わる内外の働きのみでは創造性が発揮できず、外的条件である「価値」や「権威性」や「壮麗さ」に比重が置かれ始めます。
これが「◯」偏重が「形だけ」のものになりがちな理由なのではないでしょうか。
それは私たちからすれば、「ルッキズム」として現れたり「肩書き」や「宣伝」に判断が偏るような消費文化に繋がっています。
20世紀、いや21世紀でも15年前くらいまでは、社会に対する利便性や合理性、また見た目の華やかさなどを追求するのも「文明」を切り拓く力があったでしょう。
外側に向かう力が世の「原動力」になっていた時代は、一定の期間は確かに上手く回っていたように見えますが、現代の行き詰まりは「◯」主体の仕組みが既に限界であることを示しているのではないでしょうか。
私たち日本人は、200年近く「文明」としての発展を志してきました。
神示でも、古い時代の日本人は「・のみになっていた」と述懐されています。
確かに、昭和までは「精神論」や「根性論」が根深く、その時代に学生だった方は、身を持って根性論の理不尽さをご記憶されていることでしょう。
既に「文明開花」した後に起こった「太平洋戦争」でも、末期には精神論だけで勝ち抜こうとしていた節さえあります。
逆に明治維新以降では、日本精神としての「・」に西欧文化の「◯」が加わり、明治大正の華やかな文化が隆盛しました。
太平洋戦争で敗戦した日本は、占領下であるアメリカに影響を受け、戦後日本の成長に拍車を掛けながら先進国に躍進しました。
どうも日本という国は「◉」の時代精神が完成した時に隆盛を迎えるという性質がある気がします。
そう言えば「◯」としての技術力や完成度だけでなく、内面も備える「◉」の才能を持つ人が、各時代に彗星の如く現れ一躍有名になった後は、そのレガシーが分野を一気に切り拓くという現象がよく見られます。
オタクの目線で恐縮ですが、古くは「手塚治虫」そこから「宮崎駿」「庵野秀明」と続き、サブカルの世界は「天才の数珠繋ぎ」でここまで栄えたと言えます。
ゆえに「◉」の性質を持つ人は今でこそ稀ですが、この魂の持ち主は時代を切り拓くパワーを持っている人が多いのかもしれません。
これだけの魂の性質を持ち、文化を牽引してきた天才であっても、人間ですから「寄る年波には勝てない」部分もあるでしょう。
一世を風靡した有名人であっても、人間関係や金のいざこざ、環境の変化によって才能がなし崩しになってしまう人も沢山います。
身魂として「◉」の完成度を持っていても、心身の状態と時の条件によっては「・」が抜け落ちて「◯」になってしまうのです。
つまり「魂のワヤ化」は簡単に起こり、「・(キ)」とはそれほど、すぐになくなったり枯れたりするのだと思います。
だからこそ常に身魂を磨き、「ケガレ」を祓い清めなければなりません。
それが本来の「神道」の目的であり、そのための「神の道」なのです。
神示には「一厘の仕組みとは、〇に神の国の・を入れる事ぞ(下つ巻・第二十一帖)」とあります。
「天地の岩戸」とは、神界・現界共に「・」が抜け落ちて神の道が閉ざされたことで生じたとされますが、「一厘の仕組み」は「七神人」で成就すると考えられます。
おそらく、神は「大奥山」に結集した七人の神人に対して、各々「御身(ミミ)」に知らせた上で「駒」を動かし、全てのピースが揃った瞬間に「地の岩戸開き」が発動するのだと思います。
このパズルが完成するまでは個々のピースの意味は大してわからず、全ての絵柄が揃うと皆そろってアハ体験するような仕組みなのではないでしょうか。
これが「天地がひっくり返る」ような「ビックリ箱」の仕掛けなのかもしれません。
「岩戸」が開けた後の世界には「神の道」が繋がり、人間が本来の姿である「◉」に徐々に立ち返っていくのでしょう。
その前に日本人が「神の国」の臣民として「元気」を取り戻し、まず日本という国を立て直して行かなければなりません。
本来の「神国」に戻った日本は「弥栄」の文明となり、国際的な地位を確固たるものにして世界に貢献していくことでしょう。
全人類がいずれ「神人」になるまで何百年、何千年かかるかわかりませんが、まず日本の「天の益人」が、全世界に「元気」を分けていく必要があります。
今の日本人の九分九厘が、この「気」を喪失し「形」を追い求めるだけの生き方になってしまっています。
我が国には「神道」が長らく継承されてきましたが、その伝統すら「神社で手を合わせる」程度のものとなり、真髄の部分は失われて久しいように感じます。
それは神を「祀る」という行為が「◯」となっているに等しく、本来の「神祀り」とは身魂を磨き、人間の身を「神の宮」とすることにあると、神示には語られています。
こう表現すると逆に構えられてしまいそうですが、単純に「神の声」を素直に聞けるような心であれば問題ないのでしょう。
「素直に生きる」というのが、この時代において一番難しいのかもしれません。
ただ「嘘をつかない」「見栄を張らない」というだけでも困難ですが、何より「我良し」という心が最もその妨げとなります。
ただひたすら「道徳心」を追求する、その心は「神の道」に繋がっています。
そして、その実践によって磨かれた心にこそ、神が宿ると言えるのです。
それが人の宮に「神を祀る」という行為であり、これが宗教や習俗を一切問わない、人類にとって普遍の「神の道」です。
それが地球上に満遍なく行き渡った世こそ、この地上に「天国」が作られる時なのではないでしょうか。
ゆえに「世界平和」とは悪を滅した後の時代に訪れるものではなく、「悪」という「病」を癒した後の、人類の正しい生き方によって実現するのだと思います。


