楽太郎です。
前回の記事を投稿した後、本格的にダウンしてしまい久しぶりに寝込みました。
恒例の「満月予想」は過ぎてしまったので結果論になってしまうのですが、後ほど改めて取り上げたいと思います。
前回の記事「大神心」の内容について、神様方から大変お喜び頂けたようで、かなり珍しい方がお見えになられました。
おそらく今回の不調はそれと関係があると思うのですが、とにかく私事のため言及はこれくらいにしておきます。
本日2月2日、天体としては朝7時頃に「満月」を迎えましたが、この1か月の本ブログの内容は、もしかするとこのタイミングに合わせていたのかもしれません。
「日月神示」の「真髄」に近い部分のベールを剥がすたびに、「神に仇なす者たち」との緊張関係が高まっていくのを如実に感じていました。
それは彼らが、人間の霊的無知や無知蒙昧さを意図的に作り出してきたからであり、「目覚め」の可能性が一つでも生じることを彼らは恐れたのでしょう。
ゆえに、「霊的覚醒」に繋がる知識が地上に降ろされることは、彼ら「闇の者」としては許されざる行為なのです。
反して前回の記事で神様が大喜びなされていたほどですから、「神に仇なす」勢力としては超激おこぷんぷん丸に違いありません。
そして本日の満月、世の情勢と不思議と矛盾しない事態になっているのですが、「怒りの勢力」にまさに冷水を浴びせるような「浄化」となっており、様相としては「火の群衆」と「水の群衆」の応戦という感じです。
ここで神々は「高みの見物」という印象で、おそらく「二大勢力のガス抜き」という側面が大きい気がします。
ここで熱りが冷めた頃合いで、2月17日新月に至るのではないでしょうか。
世では2月8日の衆院選投開票が「日本の分岐点」みたいに捉えている方も多いと思いますが、結果としては自民維新圧勝でも、まだまだ政治的には一悶着も二悶着も続くのではないかと私は思います。
時事関連については、予告通り近日中にしっかりやりたいと考えています。
蛇足ながら、どうも2月満月は昨年10月7日「天王山」の余波ではないでしょうか。
あの時「神に仇なす者たち」の「天下分け目の敗北」が決定したと私は見ており、本陣が崩れた後の「闇の勢力」はゲリラ戦に興じたり再び団結したり、色々と知略を巡らせていた印象があります。
ただ今回の「節目感」は、12月新月から神々が「人の心に火をつけて回る」ことを始められ、それに触発された人々が力をつけてきた結果と取ることもできます。
順当に考えれば、いつかは「大阪夏の陣」が訪れることになるのでしょうが、そうならず「大政奉還」に至り穏便に終われば良いと思います。
ただ、そう考えても順序として次に起こるのは「戊辰戦争」でしょうし、本当に人の世は争いと無縁になることはないものです。
日月神示にある「怒りは慢心である」という言葉について、私はしばしば考えます。
自分が怒りたくもないけれど、嫌いなもの、不快なものが目に入ると「イラッ」としますし、気を逸らそうにも実際に消えてなくなるわけではありません。
だからいずれは「何とかならないのか」という静かな怒りが、腹の底で滾り続けます。
そこに「正義感」という「善の心」があるからであり、全く世の変化に無関心であるよりは遥かにマシでしょう。
ただ「自分本位」だから、他人のやり方が許せなくなるというのも事実です。
要するに「慢心」なのがいけないのであって、「慢心」とは他人を見下げ、自分を高みに置く考えのことです。
そこで「自分はその者よりも正しい存在である」という思い込みがあるから、「怒り」という感情が出てくるのです。
「我良し」とは悪であり、「悪を憎む」のも悪なのですが、「善」を軸にすれば「正義感」は必ずしも「悪ではない」のです。
しかし「自分が正しい存在である」という思い上がりが表に出てしまう時、それが「悪」になってしまうのです。
だからこそ、神示では頻繁に「頭を引くなされよ」「赤子の心になれよ」と口酸っぱく述べられるのだと思います。
私はこの数週間の投稿の中で、平面で見た「善悪」は拮抗し、二項対立の状態にあるけれども、立体として見れば「善悪」は要素に過ぎず、対立軸にはなり得ないと重ねて説明してきました。
私たちから見て「悪霊」や「悪人」は、悪意マシマシで近づいてくる危険な存在ですが、高い次元から見て「天の意志」に従った「悪」と捉えると、何となく不思議な感じがしてきます。
「西遊記」の序盤で、孫悟空が釈迦如来に悪態をつき、地の果てまで飛んだと思いきや如来の手の平をぐるりと回っただけだった、という話が思い浮かびます。
私たちから見て「悪」の「小我」は悪態をつき傍若無人に振る舞うのですが、「大我」は凡そ神の御心がわかっていて、その御心に素直に従い「悪行」を行うのだとしたら、やはり「悪」も「善」の一部なのでしょう。
これを「悪の御用」と呼ぶならば、この世には「善」という「浄化」を請け負う者がいて、逆に世の「穢れ」を請け負う者が「悪」なのだとしたら、やはり通常の定義での「善悪」という概念ではなくなります。
「悪」が自らの身に「穢れ」をまとい、宿すことで「禍事」をもたらすのだとしたら、この世の摂理にとって必要な悪役「汚れ役」であり、舞台役者ということです。
「悪の御用」とは、自ら汚れ役を買うからこそ、反対報酬として一時的に「良い思い」が得られるかもしれません。
ただ、その代償は大きく「自分がしたことは必ず自分に還ってくる」という業、「巡り」からは逃れることができない以上、やはり「悪の御役」もトータルで言えば「損」な役回りなのでしょう。
「悪の御役」と言えど、次々と背負い込む「借銭」の滞納が溜まり、支払う利子が多くなるほど後は辛いわけで、数十年そこら良い思いをしたところで死後に負う「カルマの返済」の重さに比べると、正直言って全く割に合わない取引だと思います。
これは「個の大峠」で半生のカルマを清算したから言える私の見解なのですが、本当に「業」というものはあるし、神様はきっちり全ての言動を帳面に記しておられるので、下手なことはしないに限ると思います。
まず「悪を許す」ことが「悪を抱き参らせる」には大切事となるのですが、ここに日本語の難しさがあります。
「許す」と言うと、条件として「罪」や「罰」があるかのようなニュアンスになってしまいますが、この「許す」というのは言葉として「受容」に近いのです。
しかし「受け容れる」にしても、「肯定」というニュアンスは必ずしも含みません。
「肯定」というほど積極的な印象ではなく、むしろ「否定」にも持っていけるような、ニュートラルな意味での「受容」なのです。
厳密に言い当てられる語彙が存在しないのは、おそらく人類がこうした考え方をあまりしてこなかった現れかもしれません。
「悪」という存在は、一旦は受け入れなければならず、そして「悪意」もまた一応は受け切ってみなければ「抱き参らせる」段階まで行かないのだと思います。
「抱く」には、「悪を抱擁」するだけの「大きさ」が自分になければなりません。
ゆえに「悪」の攻撃を受け切るまで「抱く」までのフェーズは終わらないことを意味しているのではないでしょうか。
だからこそ、「天日月大神」として今日でも天地を構われる伊弉諾命が、悪を「一手」で潰すことができるにも関わらず、「九分九分九厘」まで地上を好き放題に荒されることをお許しになられていると言えます。
私はかねてから、「愛」の存在である神々がこの地上を見て悲しみに沈むことなく、常に喜び、前向きであられるのはどこかに理由があるはずだ、と考えていました。
今となっては、神々が「時間と空間」の概念が地上と異なる永遠の世界に住まわれ、未来の出来事も全ての事象の意味も「お見通し」であるからこそ、悲しみに沈む理由がないこともわかっています。
「悲劇」とは、途中までどれだけ良くても結局は酷い終わり方をするから「悲しい話」になります。
しかし予め「ハッピーエンド」だとわかっていれば、その間に挟む悲しいシーンもドラマを盛り上げるためのスパイスなのです。
逆に考えれば、神々は「ハッピーエンド」になる物語だとわかっておられるから、悲しみに沈んでしまわれることがないと言えるのかもしれません。
というか、この「宇宙」を創造し人間をお造りになられた神が、わざわざダメなるものを御自身でお造りになられる理由はなく、それなりに素晴らしい仕上がりにはなる見込みなのではないでしょうか。
そして、「悪を抱き参らせる」のがクライマックスにおけるテーマであって、そこが一番の盛り上がりどころなのかもしれません。
「天地の岩戸」が開かれ、伊弉諾命と伊奘冉命が再びご一緒になられてお姿を顕される時、御魂が「高神産日神・神産日神」の次元まで戻られた二柱によって「宇宙」は再び産み直され、「悪」は大神の胎内に戻ります。
神に「抱き参らされた」悪はこれまでのような暴虐は許されなくなりますが、この状態に至るまで伊弉諾命は悪行の限りを受け切らなければいけなかったのでしょう。
そう考えると、三千年の「闇の世」は人類、神々だけでなく「大神」ですらひたすら耐えるだけの時代だったのかもしれません。
その「試練」を乗り越えたからこそ、伊弉諾命は「天津日嗣皇尊」として「別の天御中主神」の地位まで登り詰めることができるのでしょう。
そして、この苦難を乗り越えた「人類」の身魂が、新たな地上の「天国」に住まうことができるのだと思います。
ここからは少し難しい話になるかもしれませんが、「古いものが新しいものに変わる時、古いものの一部が新しいものに活かされる」ことを哲学では「止揚・揚棄(アウフヘーベン)」と言います。
これは哲学者のヘーゲルが自身の「弁証法」を用いる時に使用した概念で、矛盾したり対立する要素をより高い次元で統一するために用いられたりします。
「大峠」とは「善悪のアウフヘーベンである」とどこかで述べたことがありますが、面白いのは日月神示では「逆のアウフヘーベン」とも言える論法で「止揚」を行っているのです。
少し横道に逸れますが、ここからは目から鱗が落ちるような話になると思います。
例えば、「A」のリンゴは「赤い」として、「B」のリンゴは「青い」としましょう。
ある人が「赤いリンゴ」しか見たことないのに、「青いリンゴ」を見た時に何かの間違いか、違う種類のリンゴかと考えるはずです。
ここで推論を経て「リンゴは段階を経て青から赤に変わる」という法則を知れば、この矛盾は解消されます。
これが弁証法の「アウフヘーベン」です。
では日月神示の論法で「逆アウフヘーベン」を行うとどんなロジックになるでしょうか。
まず最初に「何色のリンゴがあってもよい」と考えます。
そして「A」と「B」のリンゴを見比べて、「B」がそのうち「A」のようになるのだ、すなわち「青いリンゴがいずれ赤いリンゴに変わる」法則性に思い至るのです。
全く逆の順序なのに、最終的には同じ結論に到達してしまいました。
どういうことか、詳しく解説していきます。
物事は「◉」が完全体である、とする概念が日月神示には語られています。
「・」と「◯」に分け、それぞれ「A」と「B」のリンゴとして見たのが先の例です。
弁証法では、まず「・(A)」と「◯(B)」を分けて捉え、最終的に「◉(B→A)」という結論に至りました。
ところが神示の考え方では「◉(X)」から入り、「・(A)」と「◯(B)」を祓い清め、「B(◯)」はいずれ「A(・)」になるという結論に辿り着くのです。
ここで「祓い清め」というのが急に出てきて意味がわからなかったと思いますが、これが「逆弁証法」の考え方です。
ヘーゲルの弁証法は「否定の否定」と表現されることがあります。「否定してはいけない」がゆえに「両立」を目指すのですが、ここでは「B(青いリンゴ)」が青くなくなる理由があると考えるのです。
しかし逆弁証法はまず「◉」である「リンゴの総体」は何色であっても良いので、最初に「リンゴの色が違う」こと自体をテーマにしません。
そして「・(A)」と「◯(B)」を「区別する(祓う)」ことで特徴を見極め、「B」が時間経過に伴って「A」同様となる「気づき(和)」を得るのです。
逆に言えば「最初からアウフヘーベンされた視点」から論題に入ったと言えますが、これが私の言う「大神心」です。
「夏の巻・第二帖」には、かなり本質的なことが述べられています。
「「・」 がよろこびであるぞ、また・の・はムでもあるぞ、内から外に向かって行くのが⦿のやり方、外から内に向かって行くのが「がいこく」のやり方、〇から・に行くのは、マコトの逆であるからマコトのことは分からん、外から行く宗教や哲学や科学が、元を分からなくしているのじゃ、元分からんで生きのいのちの分かる筈ないぞ」
ここに来て、なぜ西欧哲学が全く日本に普及せず、アカデミズムでも窓際の存在となっているのか、何となくわかる気がします。
日本人は「そもそも論」が好きな民族ですし、論理よりは印象だけで「本質」を見抜いてしまう部分があるため、思考回路として回りくどい言語処理を要さないからではないでしょうか。
だから「神心」を持つ日本人は、初見で本質を言い当てられるのだと言えます。
しかし、現代の日本人は欧米人とさほど変わらない考え方になっていますから、なかなか「神心」は理解できないのでしょう。
ここで「祓い=区別」とは「特徴を際立たせる」という性質を持ちます。
特徴だけでなく「重要なもの」や「必要なもの」を見極め、逆に「重要でないもの」や「不要なもの」を分類します。
次に、任意の要素だけを集めていけば物事の本質性が高まり「純」になるのですが、これが「清め」になるわけです。
「・」と「◯」の差異は浮き彫りとなり、取捨選択が完了します。
この「取捨選択」こそが最も「調和的」であり、それぞれの特徴を殺さず生かすゆえに「和」と呼ばれるのです。
「弁証法」のみならず大抵の人が「アウフヘーベン」と言ったら頭が痛くなりそうになるのは、この問題解決方法がどうも抽象的すぎるからではないでしょうか。
物事を「下(形而下)から上(形而上)」持っていくから話が複雑になり、うまく落とし込むことができないのです。
これを「上から下」に向かうものにしたら、最終的には「どうすればいいか」という具体的なレベルまで落とし込めるはずです。
こういう、そこはかとないところに「神の知恵」が隠されているのが、「日月神示」の侮り難いところではないでしょうか。
「平面」から「立体」に入るのは、段階を上げなくてはならないので複雑になり、ハードルが上がります。
しかし最初から「立体」から入れば「平面」は低次元なので、分かりやすくなります。
「結論から入る論法」それが「逆アウフヘーベン」なのです。
私は、神道の「祓い清め」の真髄は、心霊レベルでの儀式ではなく「考え方」にあるのではないか、と思います。
上の論法では、それぞれの「特徴」をあえて二極化した上で「区別」により結論を導いています。
神道では純粋に「要るものと要らないもの」に分け、「要るもの」を「気」、「要らないもの」を「穢れ」と呼んでいるのではないでしょうか。
私たちの生きる現代は、神々の道理とは「真逆」の世界だから、色々なことがチグハグになってしまっています。
今本来のものと「真逆」にある考え方を、基本に立ち戻すだけでもだいぶ違うのではないでしょうか。
仮に神様たちが「人間に任せてはおれん」と、奇跡の力で地上を改革しなくても、人々がこの考え方を身につけるだけで文明レベルの洗い出しは可能になるかもしれません。
だいたい、国家の根本がおかしいロジックから始まっている部分もあるため、そこを一つ直すだけでも、その上に建っているあらゆるものが変わる可能性すらあります。
だから私は口酸っぱく「神示を読め」と言っていきたいと思います。
「神を信じる」とは、この宇宙の全てを信じるということです。
例え目の前に地獄みたいな光景しか広がっていないとしても、悪魔のような人間ばかりに囲まれていたとしても、そこは「大神の腹の中」にある世界です。
目の前にある、全てを信じ切るということは「自分」を信じ切るということです。
自分を信じ、神を信じ、宇宙を信じる。
その時、私たちは宇宙と神と一つになり、本当の「自分」になれるのだと思います。
「月光の巻・第五十六帖」からの引用です。
「そなたはいつも孤独、そなたの不運は孤独からじゃ、友作れよ、友を作る事は己を作る事と申してあろが、友を作る事は新しき世界を作る事ぞ、一人の世界は知れたものぞ、一人では誠の道を生きては行かれんぞ、友と申しても人間ばかりでは無いぞ、山も友、川も友、動物も植物も皆友ぞ、大地も大空も皆友となるぞ、何もかも皆友じゃ、皆己じゃ、皆々己となれば己は無くなるぞ、己無くなれば永遠に生命する、無限の己となるのじゃ」
こうして「自分」が「宇宙」と一つになった時、自らの世界の中に「悪」を擁することになるはずです。
これが「悪を抱き参らせる」ことの真の意味なのではないでしょうか。
そして自分の「腹の中」にある「悪」は「敵」ではなく「友」であり「己」です。
そうして宇宙が「愛」に満ちる時、この世は何が起ころうと「天国」なのです。
私たちの目の前には、そこに至る「神の道」が通じています。

