楽太郎です。
本日2月8日は「衆議院選挙」の投開票日となりますが、私は結果次第で世の中が大きく変わるという印象は持っていません。
仮に自民維新連合が勝利しても、中道改革連合が躍進しても、我が国の「良くなる部分」と「悪くなる部分」が別の形に変わるだけだと思うからです。
仮に「減税」が実現し、一時的に個人消費に余裕が生まれたところで、これまでに幾度も嵩上げされた「税」に占める「中抜き」の割合が減らなければ、逆に減税によって国庫に入るべき国富が少なくなるだけです。
この「税金の中抜き」に関して、1966年に制定された「公官需法」という、公官庁発注の案件、つまり公共事業に掛かる悪習が存在します。
これは公共事業の案件のうち20%は「中小企業」の受注に充てなければならないとされ、表向きは大企業優先の談合、寡占取引状態を回避する目的があります。
しかし大抵の場合、この案件を請け負う中小企業は「案件を請け負う」ためだけに存在し、肝心の案件業務は大手企業、建設業で言えば大手ゼネコンが請け負ったりします。
これを業界用語で「上請け」と言い、現在の中小企業の上請け率は60%に上ると言われています。
日本人がこの30年以上、努力や実力に見合わない報酬しか受け取れなかった理由の一つは、こうした「上前」をハネるシステムが所々で常態化していたからです。
また、米ドルを中心とした「円キャリー取引」の固定化により「円安・超低金利」を受け入れなければならなかった日銀主導の日本経済は、同時に「外為特会がウハウハ」の仕組みを維持してきたとも言えます。
この仕組みは「アメリカ政府」だけが悪いのではなく、我が国の中にかの政策を有り難がる勢力がいたから存続しえたわけです。
従って、目先の税金が少し抑えられたくらいでは、我が国の経済が根本的に良くなることはあり得ないでしょう。
大事なのは、国民がせっせと汲み上げて、水槽に貯まるはずの水が消えていく「中抜き」の構造を人々がより深く知り、その穴を塞いでいくことだと思います。
今回の選挙に「賭けている」方にとっては、初っ端から冷水を浴びせることになり心苦しいのですが、神様は今の日本の政治に関しては非常にドライに見ておられる、というのが私の印象です。
「日月神示」には、その御心を伺える文章が幾つかあるので、ご紹介します。
「星座の巻・第五帖」には、こうあります。
「悪の仕組み通り、悪平等、悪公平の選挙で選び出すのだから、出るものは悪に決まっているでないか、悪もよいなれど、悪も神の用はたらきであるなれど、悪が表に出ること相あい成らん」
天之日月神様がこう仰られると、曲がりなりにも「日本」を良くしようと尽くされ、若者からの支持も厚い高市さんを悪く言うようで心苦しい部分もあります。
しかし、そこで「忖度」しないのは、この世の「神様」だからできるとも言えます。
「月光の巻・第七帖」では、こうです。
「多数決が悪多数決となる訳が何故に分からんのじゃ、投票で代表を出すと殆どが悪人か狂人であるぞ、世界が狂い、悪となり人民も同様となっているから、その人民の多くが選べば選ぶ程、益々混乱して来るのであるぞ、それより他に人民の得心出来る道は無いと申しているが、道はいくらでもあるぞ、人民の申しているのは平面の道、平面のみでは乱れるばかり、立体に綾なせば弥栄えて真実の道が分かるのじゃ」
私としては「何とも言えない」としか表現しようがないのですが、話を進めます。
「多数決」というのが民主政治の基本ですし、この仕組みを否定すれば「国家統治」が儘ならないと私たちは知っています。
それどころか、立憲君主政における独裁体制こそ、統治の仕組みでも悪辣なものになりやすかったという歴史上の教訓があります。
だからこそ「デモクラシー」は人類の政治史における一つの到達点であり、それが現代では「最善」という認識があります。
ただアメリカ合衆国を見てわかるように、「選挙」になれば資本力と宣伝と謀略の応酬となり、「民意」が金で買われる状態にあるからこそ、あそこまで政治が腐敗を極めていると言えます。
今の「政治家」という存在も、選挙前だけは街頭で表に出て綺麗事を並べ、口では良いことを言いますが、いざ議会が始まれば何をしているのか一般市民には知り得ません。
おまけに、たまに「変な制度」ができる時より他は、目につく機会も特にありません。
私たちからすれば政治は「あってないようなもの」に見えるのですが、ここに多額の税金が遣われているのは見過ごせない事実です。
実際のところ、無くしてみたらどうなるのかは議会制民主主義の誕生以来、人類として本気で試したことがないかもしれません。
こう言うと「無政府主義者(アナーキスト)」として危険視されてしまうのですが、「黄金の巻・第五十六帖」には、こうあります。
「公平と言う声に騙されるなよ、数で決めるなと申してあろうがな、群衆心理とは一時的の邪霊の憑きものぞ、上から乱れるから下のしめしつかん、我よしのやり方では世は治まらん」
上記が日本ならず、地球を造り固められた「伊弉諾命」のお言葉であるとすれば、国造りをなされた神様であろうと「民主政治」に対する印象は良くないのかもしれません。
あくまで私の感覚なのですが、神様は現代・戦後のみならず、「明治新政府」の頃から日本の国家中枢機関には期待をなされていないように感じます。
実際に伊弉諾命が「金光教」や「大本教」を開かせたのは定かではありませんが、幕末から何度か起こった「国常立尊」を名乗る神霊の「神懸かり」は、歴史的事実として確認ができます。
明治後期、大本教の出口なお氏への神懸かりがあった後、1944年に岡本天明氏へ「日月神示」が降ろされるのですが、この間ずっと我が国は戦争の歴史を歩んでいました。
私の見立てでは「1945年」に「天の岩戸」が開かれ、それ以降の日本は「戦争」とは無縁の立場を貫いています。
この「天の岩戸開き」に岡本天明氏が一枚噛んでおられたのは否定できず、天明氏が最後まで神示を「ワヤ」になさることなく、しっかりお仕事を全うなされたから今日があると私は考えています。
ゆえに神々のシナリオとしては、国造りを行なった伊弉諾命を始めとして二柱の神、御三体の大神を包括する「天日月大神」の治世となれば、現在の「人治」はまた別の形になり変わる可能性があります。
それが「人間心」では全く想像だにしなくても、何より神様がそうなさるおつもりで世を動かしておられるのだとしたら、やはり「予告通り」にはなるのではないでしょうか。
日月神示にある「神裁の世」がどういった形態の統治体制になるか、少し予想してみたいと思います。
上記の「星座の巻・第五帖」には「悪が表に出ること相成らん」とありますが、「春の巻・第二十帖」には、こうあります。
「ものの順序わきまえねばならん、悪平等ならん、政治や経済は裏、二義的なもの」
現在の民主政治は、マスコミで知名度を上げた起業家やタレント、元々権力を持った政治家の二代目など、始めから「表」に出ている人ほど選挙では有利に働きます。
いや、まず「有名」でなければ民主制では票を集められないのだから当然なのですが、天之日月神様は政(まつりごと)を「表」でやるから狂人や悪人ばかり集まるのだ、と仰られているのかもしれません。
だとしたら政治家が「裏」となり、全く目立たない存在になれば「いろは」の揃った正しい政治になるのでしょうか。
いや、却って衆人環視から離れた「政治」こそ社会にとってリスクになりかねない可能性があるのですが、しかし「裏」というのは「優先順位が低い」という意味でもあるので、政治や経済は「必要悪」であったとしても、その実権が人々の自由や富の権利を縛るものでなければ問題ないのかもしれません。
つまり「政治」は、存在自体を無くすることはできない仕組みですが、これまでは何を考えているかわからない権力者が、密室で決めた事柄を国民全員が甘受しなければいけない状況からリスクが生じていたのです。
政治に対する連帯責任を国民が負っても、例えばパソコンもロクに触ったことがなく、コンビニで買い物を殆どすることがない、そんなセレブが考案した政策から生じる痛みは、社会の上層部、国家中枢にいればいるほどわからないものでしょう。
それほど国民の生活にとって「害悪」となる施策を行なっても、政策実現率から政党内では評価が上がり、組織の中ではますます重要な立場となり、「政治屋」として集まる政治資金も票も増えていってしまうのです。
これを制度上の「欠陥」と呼ばずして、どう形容すれば良いのでしょうか。
民衆としての印象や体感よりも、利益を誘導された側の「組織票」で選挙が動いてしまう仕組みになっているからこそ、ここまで民意とはかけ離れた政治になっているのだと思います。
「じゃあ、どうすれば良いんだ」と言えば、素直に神様に聞いてくださいと言うしかありませんが、この「悪い」仕組みを考案なされたのも神様だとしたら、新しい仕組みもまた神様は考えておられるはずです。
逆に言えば「政治がサブ」になるということは、国家予算の管理や政策の立案、決定の大部分は国民がすることを意味するかもしれません。
どういう仕組みでそうなるかは不明ですが、現在の政治体制は「リスク分散機能」に著しく欠けることは言うまでもないでしょう。
もし新しい社会体制が「霊界のように」小規模コミュニティの乱立にあるとすれば、統治は必要最小限となり、コミュニティの自治権が全体決定に先立つのかもしれません。
1960年代から「日本列島改造論」と称し、都市部から山深い過疎地域まで一緒くたに開発を促し、十把一絡げに同じ街並みに作り変えられた国土も、現在では都市計画からして合理的ではなくなりつつあります。
地域の特色とか、歴史的背景や伝統文化もかなり忘れられてしまいましたが、コミュニティの個性が住む人々の心持ち次第で、地域を活気づける要素になりうるかもしれません。
今起きている「AIバブル」も、政治の暴走も大企業による寡占市場も、元を辿れば資本や権力の「集中」に本質があります。
人々は「寄らば大樹の陰」という考え方が好きですが、大資本が強固な仕組みを作るからこそ持続性があり「安心できる」という性質は確かにあります。
ただ「大樹」に対する信頼が過度な「依存」をもたらす時、そこに集中した「力」は環境のバランスを狂わせていきます。
例えば大資本が大規模な占有地を持ち、大量の資材や商品をかき集めて大規模な動員を掛ければ、中小事業者の経営が不利になるのは「規模の経済」として当然の話です。
そこで中小の事業者が「時代の流れに合わせられず、企業努力が足りずに淘汰された」と捉えるべきではないでしょう。
中小事業者が手間暇をかけて作るような商品を、大企業は似たようなレベルで安価に製造し、過剰に供給すれば消費者が廉価な大量生産品に流れるのは道理だからです。
「大きいことは良いことだ」と言っているうちに、大きいもの以外は通用しなくなり、小さいものが大きくなる流れすら壊れつつあるのが現代社会なのではないでしょうか。
それは経済だけでなく、政治でも芸能の世界でもメディア界でも、出版業界でも学術界でも同じだと思います。
とにかく大きいものが幅を取りすぎて、小さいものに立つ瀬がないのが問題なのです。
だからこそ、時代の「大岩」が取り除かれる「大峠」は文明としての問題だけではなく、個々の環境に塞がる問題であり、日月神示では「個のレベル」から業界における次元まで、それぞれあるのだと語られます。
この「大岩」は、かつて時代を築いた大御所である場合が多いのですが、ここまで大きくなると自分の意志では退きたくなくなるのが人間の心理なのではないでしょうか。
また「大御所」の腰巾着である限り、後進がおこぼれに預かることができるのも「就職先」として見れば非常に魅力的です。
こうなると「大峠」において「岩戸を閉じる」御役となってしまうのですが、彼らに必ずしも「悪意」があるわけではないのです。
むしろ、自分がいなければ「業界」は成り立たないと思っている節すらあるでしょう。
ただ、その「善意」が却って、新人や一般消費者からするとありがた迷惑なのです。
そこをどうやって解決するかに、おそらくそれぞれの「大峠」があるのでしょう。
この問題ばかりは、国家の枠組みなどと違って、これからを生きる人々が実地でやっていかなければならないことです。
だから「神様任せ」にして良いわけではなく、自分の手で岩戸を動かして、時代を切り拓いていく必要があります。
ただ、私はそれをしなければ、それぞれの業界に「未来がない」とは思いません。
自分がやらなければ、いずれ同じ立場の「誰か」がやるでしょうし、「岩戸を開く=時代を拓く」という偉業が、自分以外の人によって成し遂げられ、業績を譲ることになるだけでしょう。
それでも「やる」と決め、多少厳しい風当たりを受けたとしても、このチャンスをモノにする人こそ次の時代のリーダーになっていくのだと思います。
神様は、そこを特にご覧になられている気がしてなりません。
「我良し」の考えでいる限り、そんなリスクを取るような勇気は持てないはずです。
それでも真摯に果敢に挑む人には、きっと神様からも御加護があることでしょう。
神示にもあるように、神様は日本の臣民に「お陰」をやりたくて、与える口実が欲しくてウズウズしておられるように感じます。
神様から、こうして「チャンス」が与えられているのに、見て見ぬフリをしたままで果たして良いのでしょうか。

