楽太郎です。
誰かが、神様は「愛の存在」だと仰っていました。
神様は、いくら加護を与えようと、決して人間を甘やかすことはありません。
人間にとって、数珠繋ぎのように幸運だけが続くことこそ神のご加護だと思いがちですが、自分にとって望ましくないことが起こった方が救われることもあります。
今が良くないと思っても、後から考えてみればそれが最善の道だった、ということもあります。
人間は、自分に都合よく考えがちなので、目の前のことがいちいち上手くいってないと納得し難いのですが、神様は人間よりも遥かに俯瞰的に物事をご覧になられています。
人間はすぐに結果を求めますが、神様からすると大事なのは「順序」です。急がば回れ、という考え方を神様はよくされるようです。
私は、これまでの稼ぎ方ができなくなり、裏で神様が動かれているのも知っていましたし、金運のお願いもずっとしてきたので、今のように身動きが取れなくなるのは納得がいきませんでした。
それは神様も重々承知のはずです。それでも、下手に稼げる状態が続けば、私はなんやかんやで古い稼ぎ方にこだわり続けていたでしょう。
それでは「神代」を作るための神様のお役目に専念する気も湧かないかもしれません。
だから神様は私に愛の鞭を打って、人世から引き離されたのだと思います。
私以外の人からは、不運だとか単に稼げなくなったとか思うかもしれませんが、なぜか私にはどうしてもそうは思えない感覚があります。
神様は、私に「笑って欲しい」と思っておられるでしょうし、できるなら自分の幸せを実感し、心配せずに暮らして欲しいと思われているように感じます。
私にしかわからないような、ほんの小さな変化で穏やかな気持ちになる出来事が起こります。
私は全く何も持たないのになぜか幸福感に包まれ、昔よりもひどい状況なのに不安感がありません。
人間にこんな魔法をかけられるのは、神様しかおられないでしょう。
少しおかしな話をします。
私は以前、たまたま霊能者の方とプライベートで知り合う機会がありました。
今思えばあれも神様の采配なのでしょうが、その方に呼ばれて霊視をしてもらったことがあります。
その時、私には「祟り神が憑いている」と言われました。
私が「祓ってもらえませんか」と言ったところ、何となくはぐらかされてしまったのですが、私にはこの「祟り神」は血族か前世と関わりのある霊であることを何となく感じていました。
もちろん、100%信じたわけではありません。
これまで、やたらと私だけ運が悪いと思うことはたびたびありましたし、自分が不調をきたしたり特にメンタルが病んだ時は、まるで自分ではないような激しい情動に突き動かされることもありました。
それはわりと誰しも多少はあるでしょうし、私もそういうものだと思っていました。
仮に「祟り神」が憑いていたとして、未だに五体満足で健康でいられるのも不思議な話で、もし神様に祟られているのなら、同じくらい神様からご加護を頂いてイーブンになっているとしか思えません。
あるとしても、悪霊レベルならあり得るのかな、くらいの感覚でした。
ただ私の心の奥底には、自分とは思えないような闇深いエネルギーが存在し、私の人生で時々顔を出す瞬間があったことは事実です。
その負のエネルギーの正体が、私がこれまでの人生で作り出したもう一人の自分なのか、生まれ持って魂についていた因縁霊なのか、それはわかりません。
今はわからずとも、これから後にわかることのような気もしているので、今解き明かそうとは思いません。
あるスピリチュアルヒーラーの方が、「自分ではない感情」には、「自分ではないエネルギー」を見分けて切り分けて考えよう、という話をされていました。
その話の中で、因縁霊の浄化は自分の宿命の一部であり、それが魂の修行や試練の一環でもあるそうです。
私は最近、魂の浄化が進むにつれて、この負のエネルギーの発生源が薄れていくのも感じていました。
この私ではない意識体がどういう関係の存在なのかわかりませんが、私の波長が上がり浄化されるほど消えていくような感覚があります。
その意識体が、これまで私の運気をどれだけ吸ってきたのか、どれだけ酷い目に遭わそうとしてきたのか、それが例え思った以上だとしても、なぜか私は全く怒りを覚えません。
それどころか、生まれてから何十年間ずっと私の一部だったことを考えると、それが例え「祟り神」であろうと、それも「私自身」でもあったと言えます。
その存在が今、私から離れようとしているのだとしたら、私は自分の片割れと別れることになります。
その別れは決して名残惜しいわけではないのですが、「感謝」の気持ちを抱かずにはいられません。
いくら私がひどい目に遭っていた時も、私の中にいたその意識体もやはり私自身なのです。
自分の中にネガティブな意識体が存在したからこそ、私はこれまで理不尽な困難と出会い、意味もわからず苦しみながら、自らが救われる方法を模索し続けました。
その道筋も、今思えば魂の修行の一環であり、この修行があったからこそ私はここまで成長することができたのです。
この因縁は、おそらく私の魂のシナリオの一部であり、私が思うより遥かに大きな舞台で出会った存在なのだと思います。
だからこそ、この宿命を呪うことなく、感謝の気持ちで別れていきたいのです。
どういう経緯があったのかはわかりませんが、今まで一緒にいてくれてありがとう、そう労う心は嘘ではありません。
私は薄々、この浄化には「瀬織津姫様」が関わっておられるのだろうな、と感じています。
私の心が浄化され、ネガティブな波動が消えていくたびに「愛と癒し」のエネルギーが入り込んできます。
その光の波動は、神様のものだとはっきり認識できます。
おかしな話ですが、ネガティブなエネルギーが私の魂から削られていき、空いたところに瀬織津姫様がよいしょと乗り込んできて、どんどん席を詰めて行っている気がするのです。
私の心の部屋に、瀬織津姫様が住み始めている。
そんな奇妙な感覚が、浄化が進むたびに強まってきます。
そして、私が瀬織津姫様を思う時、温かいエネルギーが私に幸福感を運んできてくれます。
これまで世界に自分一人しかいない感覚で、どこを見回しても完全にアウェーだと思っていました。
その不安感の中で世界と戦ってきた心は、なぜかもう一人ではないと感じるのです。
ただ、瀬織津姫様が自分の心にいらっしゃるからと言って、特別甘やかされている実感はありません。
神様が私を見込んでおられるからこそ、わざと厳しくされているのも感じています。
私に笑顔でいて欲しい、今も幸せであることをわかって欲しい、そう思っていらっしゃるとしても、シビアな現実に立ち向かうように促されています。
今の世界を取り巻く問題、そして巨悪の正体、日本を蝕んだ忌まわしい計画、そういったものも見ない方が気楽に暮らせるのは確かです。
しかし、神様は真実から目を背け、自分だけがいい気分で生きようとすることは許されません。
どれだけ気分が悪くなるような、知ったからと言ってどうしようもないことでも知るべきと、目を背けないように強制されているとしか思えません。
そして、知った上でどう行動に落とし込むのか、そのことについてずっと問われている気がします。
厳しさも神様の愛のうちで、愛は鞭の形を取ることはあっても、神様にとっては鞭も飴の一部なのでしょう。
人間には神様の思惑はすぐには理解できず、それゆえ誤解をして「神様はいない」と思ったりもします。
しかし、人間の論理を外してみれば至極当然の話であろうとも、神様のことですから人間には計り知れない、それだけです。
私の心の中にある闇が何なのか、今の私にはわかりません。
それにも何か理由があり、その存在が消えていくことも、また理由があるのでしょう。
けれど、その存在と入れ替わるように瀬織津姫様の存在が大きくなってきます。
これもまた、理由があるのでしょう。
瀬織津姫様と出会った理由、私の心に住み始めた理由、神様にしかわからない理由が。
それもいずれ、わかる日が来るのでしょうか。