「神代」のルール

楽太郎です。

今は、「待つのが仕事」だと思っています。
春分明けでエネルギーが高まり、新しいことも始めたのですが、ガクッと動けなくなって久しいです。

おそらくこれは、4月13日の満月を境にまたガラッと変わると思います。
見たところ、このエネルギーの変化は様々な障害や抵抗として顕在化しているようです。
その正体は邪気だったり好転反応だったり色々するようですが、その人それぞれに浄化すべきテーマとして現れているのかもしれません。

私は、過去のトラウマとか後悔の念なんかがブワッと出てくることがあり、強烈なエネルギーが身体を巡ることもあれば、完全にエネルギーが停止して息が詰まったり、不安定な状態にあります。
さすがに病気も疑うのですが、こういう謎の愁訴感はだいたい霊的なものなので、一種の変容が来ているのだと思います。

こう言ったエネルギーの切り替えに起こる不調は、去年の冬至から事あるごとに来てはしばらく身動きが取れない、というのを繰り返してきました。
よく考えれば、この半年くらいはほぼ浄化と好転反応に専念してきたと言えるくらい、魂の変容を優先しています。

その行程はまさに修行と呼ぶに相応しく、自分の人間的な部分を削ぎ落としては新しい自分に変わっていくプロセスそのものでした。
周りから見れば、どんどんダメになっていくように見えてると思いますが、なぜか私は磨きがかけられている実感しかない、という不可思議な状況です。

おそらく、時代はもう「神代」が到来しているので、これまでの人間のルールと神様の世界でのルールにおける、推奨すべき生き方が違うからだと思います。

これまでの人世では、人に使われたり人を使う立場に徹することで対価を得て、それが成功の道でした。
しかし、神様が君臨する治世では、神の求めに応じられる者、魂の輝きで才能を発揮する者が恵みを得るというシステムなのだと思います。

これから、現在の「マネー」がどれほど価値を持ち続けるのかは不明です。
しかし、円やドルの通貨価値がどうなろうと、商業取引に用いられる貨幣が例え「貝殻」や「クーポン」であっても、実質的に価値のあるものと交換できれば経済は成立します。
要は、「実質的に価値のあるもの」が確実にトレードできればビジネスは成立するので、本質的に価値のある商品が手に入る方が遥かに重要です。

今の世の中でも良いのですが、謳い文句や印象だけで「価値がある」と思われているモノは限りなくあります。
それらは世界にモノが溢れ、基本的需要が満たされているからこそ付加価値で持て囃されてきました。
しかし、人々が困窮し、食うに困るとか生活すらままならなくなるならば、付加価値がなく安く基本的機能を満たせるものを求めるでしょう。

その上で、「本物」とはやはり粗製乱造できない、しっかりと精巧に作られたモノであり、長持ちする良品であることが多いのです。
それを作るのは熟練された技術だったり、ノウハウに裏打ちされた才能であったりするわけです。
「本物」は小手先のアイデアでは再現できないからこそ、貨幣自体に価値がない時代には遥かに重要な性質になってくるでしょう。

神の治世では、その才能こそ一人ひとりに与えられた「分身霊(ワケミタマ)」の発露であり、その能力は神の力であるからこそ、人の役に立てるものです。
「分身霊」は今、私たち全ての人の魂に存在します。だからこそ、誰もがきちんと魂を磨けば、才能という神の力を発揮することができるのです。

しかし、これまでの物質中心の時代は、わざと「魂など存在しない」ということにしなければなりませんでした。
魂が存在する、ということは霊的な現象の先に「神」の存在を認めるということです。
「神」が存在すれば、人間が神のように振る舞い、人間界の頂点にいることは許されません。

人間界の頂点にいる者は、思いつきや欲望ひとつで下の人間たちを思うように使うことができました。
下々に命じてある人種を迫害したり、戦争を起こしたり、人間のエネルギーを一極に集めて自分のものにすることもできたのです。

しかし、神が存在すれば、その行動は神に仇なすことになります。
ゆえに必死で「神など存在しない」と証明する必要がありました。目に見えない存在を迷信化し、全ての宗教を眉唾物として扱い、人間の感覚そのものを即物的なものに結びつけてきました。

そうすることで、人々は「目に見える世界」だけが現実であり、その世界だけを信じるようになったのです。
目に見える物質的な世界は、一元的で「お金とモノさえあれば安心して生きられる」というシンプルな世界でした。
幸福も自由も、お金を得る条件さえ揃えれば実現し、人の心もその条件で何とでもなると人々は考えるようになりました。

ある程度は、それで満足して幸せを感じられた人も多かったでしょう。
しかし、目に見えないものを否定することで成立した世界観は、徐々に歪みを見せるようになってきました。

「心」という人間に備わる器官を軽視することで、精神的なものより物質を優先し、理不尽なほど合理的に求められる利益のために、人々は本来の「人間らしさ」を失っていったのです。

それでも、この世を支配する人間からすれば知ったことではないのです。
心を病もうが荒廃しようが、その混迷を利用して金儲けができるからです。
病気になれば薬が売れ病院が流行り、迷う人が増えれば詐欺や悪どい宗教が盛んになり、アルコールやドラッグが捌けます。
そして、戦争になれば気に食わない民族を合理的にジェノサイドし、武器や兵器は飛ぶように売れます。

それが、これまでの「人世」でした。
人間がシンプルに「お金やモノ」だけを信じて生きていれば、そのことだけを考えて暮らせた分、人々は楽に生きられたのです。
いくら頭を使って生きていても、根本的に「自分とは何か、何をして生きていくべきか」を顧みずにいられる以上、人間として本質的な問題を直視しなくて済むからです。

ただし、その時代はもうすでに終わりました。
これから、その物質的な世界は経済の崩壊という形を持って切り崩されていくでしょう。
新しい時代においては、人間の考えるルールよりも、天界のルールが優先されます。

天界のルールとは、因果をもたらすものが人間ではなく、神や霊的存在であるということです。

これまでは、有力者に気に入られるとか、有名大学の肩書きや大企業のコネなど、人間社会の道理が大きな力を持っていました。
力のある人間は、お金や暴力や、有利な条件を振りかざせば因果すら捻じ曲げることができました。

ただし、スピリチュアルな存在が因果を握ることは、人間の身勝手なロジックが通用しなくなることを意味します。
あくまで高次元の存在によって中身が審査され、その結果が現実に跳ね返ってくるということです。

このルールは、人間にとって信じがたいほど残酷なものに映るはずです。
自分が頭で考えて努力したとしても、その成否は上位の存在が決めるのですから全く勝手が違います。
だからこそ、多くの人々は無意識下でその計画に反対し、神代の実現を阻み続けてきたのです。

その感情は邪気となり、邪気は具現化して様々な災いをこの世界にもたらしています。
地震、火災、台風、異常気象、凶悪犯罪、社会の混乱、そう言った災禍は人間の邪気が物質的、霊的にもたらしてきた現象と言えます。

それでも、人間は目を逸らし続けていたのです。
人間を作ったのは神々であり、人間も神の一部であり、そうである以上は神々に逆らって勝利することはできません。
ゆえに、人世は終わっていくしかありません。

そして、その次には神が支配する時代が訪れます。

今の人々にとって、それは全く異質であり受け容れ難いものでしょう。
しかし、権力を持った歪な人間の意志に従う世は終わり、各個人が自立して自由を選択していく時代になっていきます。

因果は神が決めるので、「正直さ」だけが重要になります。
良い心持ちであれば良い結果に、悪い心持ちなら悪い結果になり、ゆえに各々が自分自身を見つめなければ何も進まないでしょう。
悪いところは反省し改善する、そうすることで神の承認を得て、良い循環に戻っていきます。

その世の中では、人を欺いたり搾取するような行為は、いずれ身を滅ぼすはずです。
だからこそ、神代は「弥栄の世」であり、好循環のもの以外は淘汰されていくでしょう。

その世界では、たかだか数百年で絶滅の危機にある人間の作った時代よりも、遥かに悠久の歴史を刻めるように思えます。
日本の縄文時代が1万6千年以上続き、絶えることがなかったのは人々が野蛮で未開だったからではありません。
自分の運命を神に預け、自然と共に生き、恵みを子々孫々まで継承してきたからです。

今こそ、私たち日本人はこの境地に立ち返る時です。
このまま、人間本来の意識を忘れたまま滅ぶべきではありません。