「多様性」のウソ

楽太郎です。

今の世を見回して、喧々諤々に「世直し」に対する議論は、かつてないほど盛り上がっているように見えます。
しかし、現在は何をやっても閉塞感があり、不公平感や不条理感があるから、そういうムードに流されて考えるフリをしているだけの人はいないでしょうか。

世が何となくまた景気が良くなれば、結局は不満もどこかに霧散して、また同じことをする世になってはいけないと思います。
人々は溜飲が下がれば問題は解決したと錯覚しがちですが、大事なのは真の「学び」であり、その教訓を後世に永続させることではないでしょうか。

私は、エコノミストであり文明評論家である増田悦佐さんのブログを読んで、しばし眠れなくなりました。

この記事は読み進めるほど凄惨な内容になり、途中から目を背けたくなる事実も語られています。
しかし、「現実」と実際の「歴史」を知るためには、見なかったことにはできないのです。

アメリカ合衆国の成り立ちを考える時、先住民の絶滅計画や奴隷制の推奨という事実を隠して語ることはできません。
また、西欧諸国が文明的に「先進国」とされるには、近代以降にヨーロッパを中心としたアフリカ、南アジア、南米、カリブ諸国、オーストラリアなどへの侵略と植民地化によって、財政的な恩恵があったことを無視する訳にもいかないのです。

私がこの記事で特に印象が強かったのは、20世紀初頭のベルギー領コンゴで、ゴムの樹液を採取するノルマを果たせなかった5歳の女の子が、罰として両手両足の先を切り落とされ、その一部を父親が眺めている写真です。

5歳の女の子に労働義務を課し、それが実行されなければ手首足首を切り落とされるほど、「利益」というのは雇い主にとって絶対的だったのかと思います。
いや、ベルギーの資本家にとっては、コンゴに住む人々は「家畜」以下で、人間として認識していないからこそ、樹液を採取するノルマを果たせなければ「死んでも惜しくない」存在だったのです。
まるで、「先住民」であることが「罪」であり、白人に従わなければ「罰」を受けるべき存在である、そういう価値観があるようにすら思えます。

私たち日本人は、生まれつき人種差別意識には疎い民族です。
しかし一旦外国に目を移してみると、日本人が思うほど世界には他民族を無条件に受け入れる精神風土がないと考えた方が、むしろリアルなのではないでしょうか。

今は「グローバリズム」や「多様性」と、「ノーボーダー」が尊いという価値観が世界的に広がっています。
しかし裏を返せば、「肥満体の黒人トランスジェンダー」を積極採用すればヨシとされる「ポリティカルコレクトネス」のような、歪な風潮にこそ顕著に見られます。

本来の「多様性」なら「適材適所」で構わないはずであり、「肥満体の黒人トランスジェンダー」がミスコンテストに引っ張り出される必要性は特にありません。
ああ言うルッキズムの世界は、どこまでも趣味嗜好を追求し、独断と偏見で「グラマラスな金髪白人美女」を選出して、仲間内で盛り上がっても別に罪にはならないでしょう。

「ルッキズム」の業界は「ルッキズム」が好きな人々の需要を満たせば良いのであって、それを「政治的正しさ」で評価しようとすれば、ミスコンテストの動機や理念そのものを歪めてしまうわけです。
ここで逆に「グラマラス金髪白人美女」がフィーチャーされないミスコンは、そういった特徴の女性たちの活躍の場を奪うという、逆の差別に繋がっているように思えます。

これはまるで、過剰なルッキズムで盛り上がる界隈の「集団的個性」を潰し、その意味での「多様性」を排除しているように見えます。
今の世の中は「ノーボーダー」と言いながら、「許される多様性」と「許されない多様性」が存在します。
本来なら「多様性」の世の中なら働かない40代男性がいても「人それぞれ」で良く、「子供部屋おじさん」とわざわざ揶揄しなくても、放っておけば良いでしょう。

しかし、それは「許されない多様性」であり、なぜか「特定の社会規範を逸脱した多様性は許されるべきではない」という結論が付随しています。
そして、その「特定の社会規範」を定義するのは、大抵の場合「多様性」を推進する側の人々であり、彼らは彼らなりに「許される多様性」として、マイノリティの人々を表舞台に引っ張り上げる職能を持つのです。

これは単に「多様性に対する寛容」を広めるのではなく、「多様性に対する選択肢」を提供しているに過ぎません。
だから「許されるべき多様性」は、彼らが推進する「マイノリティの社会的向上」という免罪符とセットであり、そこにむしろ「差別意識」が存在しないでしょうか。

だから私は、彼らグローバリストが言う「マイノリティ」とは、自分が基本的に特定の特徴を持つ人々を差別し、侮蔑の目を向けているからこそ、彼ら彼女らに高待遇を「施す」ことで、差別への罪悪感や実際の差別行為を「免罪」しているようにしか見えないのです。
だからこそ、「差別しても構わない」オタクの中年男性なんてのは、誰一人擁護する理由もなく、常に社会的にサンドバッグ代わりの扱いしかないのです。

まあ、アメリカのミスコンで「肥満体のトランスジェンダー中年アニメオタク」がいいところまで行けば、「そこまで覚悟が決まっているなら」と、私も評価を変えますが。

増田さんの「奴隷制」の記事の話に戻りますが、どうも西側諸国の人々には、未だに「有色人種」への偏見が残っており、近年はむしろ「ヨーロッパ的帝国主義」に対する「先祖返り」の兆候すらあるのではないかと思います。
昨年の「パリ五輪」ではマリーアントワネットの断首をユーモラスに表現して物議を醸しましたが、あれも「ポリコレ」風味がマシマシのイベントでした。

私はフランスの人々が、凡そ王政に対してどういう印象を持っているのがわかりませんが、フランス革命におけるジャコバン派への批判意識や王族への処刑に対する反省はあるのではないかと思っていたので、それを垣間見ることができなかったのは意外でした。

アメリカでは未だにマイノリティだけでなく、黒人に対してすら差別意識が残っており、国家的エリートたちには「白人至上主義」が蔓延っているようにも見えます。
ゲイツ財団の息のかかった「世界経済フォーラム」は、多国籍のエリートで寄り集まった印象がありますが、その構成メンバーは「富裕層」「エリート」「グローバリスト」という三拍子が揃っており、むしろ「有色人種」の人々ほどスポットライトが当てられます。

しかし、実際の組織としては白人富豪のメンバーが中心であり、組織母体のビル&メリンダ・ゲイツ財団は、イベルメクチン治療で事足りているアフリカなどの国々で、「避妊薬入りワクチン」を年端も行かない少女たちに接種させています。
ゲイツ財団なんてのはお金が有り余っているのですから、自国の貧困者にボランティアを施せば良いものを、なぜグローバリストの「人口抑制政策」をわざと「慈善事業」に見せかけ、阿漕なことをする必要があるのでしょうか。

この「先祖返り」というのは、「人種差別」「白人優越主義」だけでなく、イスラエルのガザ侵攻における「ユダヤ・キリスト教絶対主義」と「異教徒弾圧」にも見られます。
この「異教徒」というのはイスラエルが侵攻するパレスチナの住民だけでなく、一方的に挑発するイスラム圏の中東諸国、特にイランに対する風当たりにも現れています。

この流れはかつて東ローマ帝国とカトリック諸国が行った「十字軍」を彷彿とさせ、実際にイスラエルの軍事行為は十字軍を引き合いに出して正当化する言説も多く、現にSNSでは流布しています。
十字軍の行った蛮行はさておき、「異教徒」は排除の対象であり、特に「ムスリム」に対する弾圧は絶対的に肯定されるべき、という考えがそこには滲み出ています。

そして世界の富裕層で構成される、世界経済フォーラムなどを軸とした「グローバリズム」の普及は、「侵略」と「植民地化」を華麗なロジックで「近代化」という概念に置き換えた、ヨーロッパが植民地化に動き出した大航海時代と何が違うのでしょうか。
私には、各国の「地域性」や雑多な文化圏を一律平坦化することで、全て「西洋化」してきた近代の政治的プロセスを正確になぞっているように見えます。

これらの「文化的植民地政策」は、マスコミや知識人を通して華麗なフィルターをかけられ、「トレンド化」されることで実態が見えにくくなっています。
ただ結果的に地域的な特殊性、民族性をパージし、寡頭勢力の提案する「価値観の強制」が発動している以上、やはり「目に見えない侵略」なのです。
むしろ「多様性の推進」ならば、所々に放っておいてくれた方が多様性は育まれるのですが、一旦全部を一絡げに同じ土俵に上げておいて、なぜ「良い多様性」と「悪い多様性」に分ける必要があるのか、私には納得がいきません。

今、まさに世を覆うムードには、この「先祖返り」が垣間見える気がします。
その先祖返りが時流に合わない、むしろ情念的で伝統的なものだからこそ、珍妙な理屈をつけて正当化しなければ、現代では堂々と実行できない類のものなのではないでしょうか。
そう考えなければ、「差別意識」を剥き出しにしながら「差別は良くない」と言い張る、矛盾への違和感をすんなり説明することができません。

これらの根底にあるのは、やはり諸々の他民族に対する不寛容があり、排他的意識にあるのではないでしょうか。
ただ、その差別があまりアングロサクソン系の他民族に向かない傾向を鑑みると、やはり「有色人種」への差別があるのは否定しきれない気もします。

しかし「文明人」たる西側諸国の人々は、差別意識を自覚していてもいなくても、堂々と他民族に対する差別発言や排他的行為は「悪」であることはわかっているでしょう。
だからその「罪」の意識が「逆差別」に転嫁され、マイノリティの過剰な優遇に現れるとも考えられます。

しかし、イスラエルのガザ侵攻や地球危機説の話になると、抑圧していた他民族への排除意識が噴出し、露呈しては一貫性に矛盾が生じる原因となっているのかもしれません。
「地球温暖化によって食糧危機となれば、膨大に膨れ上がったアジアやアフリカの人口は問題である」などという、ありもしない言説に乗って、「アジアやアフリカの貧困国の人々は、世界の飢饉を防ぐために人口削減されるべきである」と、避妊薬入りの薬害ワクチンを強制接種させることですら「人類の義務」になってしまうような、何とも言えない傲慢さがあります。

現に、「地球温暖化による食糧危機」を既成事実化するために、各国に対する農地削減や農業政策の縮小、化石燃料削減によるエネルギー希少化を引き起こし、また家畜飼料や種苗を高騰させることで、インフレによる人々の飢餓・貧困化を政治的に招いているのではないでしょうか。
私が批判を恐れず「グローバリズム悪玉論」を語るのは、近年の政治的混乱の糸を辿れば、全てこの帝国主義的スキームに辿り着くからです。

現代の西側諸国が先導してきた「資本主義」は、「第三世界」への侵略と植民地化によって支えられ、肥大化してきたのです。
そして資本主義が行き詰まりを見せ始めた時、その経済的スキームが「先祖返り」を起こし、再び古きヨーロッパの世界に蔓延した「帝国主義」が息を吹き返したように思えます。
いや、むしろこれまで見えないくらいには虚飾されていたのか、「帝国主義」という本性は「資本主義経済」という蓑を被り、悠々と活動していたのかもしれません。

その文明史の影で、土地を追われ同胞が虐殺されたアメリカ先住民の人々や、先の記事にある奴隷労働、5歳の少女の手足を切り落とすような惨事が実際に日常的に起こっていた事実を忘れてはなりません。
彼ら「奴隷制」に組み敷かれる犠牲の上で、西側諸国の資本主義経済は発展してきたのです。

「資本主義」というのは、「まだ知らない」「まだ持っていない」という人々を探し、商品を持ちかけることで利益を生むシステムです。
それは「未開」である必要があり、「未開」であることはビジネスチャンスなだけでなく、「無知蒙昧」だから「啓蒙」し「先導」してあげねばならない、という「優越的」思考に結びつきます。

けれども元々いた人は、そこで何の不自由も大した疑問もなく暮らしていたのですから、わざわざ「外」から来た人に啓蒙される必要も、新商品を買わされる必要もないはずです。
「いや、それでは経済が成り立たない」と考えるところに、資本主義の限界があります。

そもそも経済というのは「需要と供給の均衡状態」が発生する限り、永久に存続するものです。
資本主義は「新規購入者」がいなくなるほど先細りますが、「リピーター」だけで成り立つ経済もあります。
現代の資本主義経済は、モノが末端まで行き渡り「新規購入者」が絶滅寸前であるがゆえの行き詰まりとも言えるわけです。

近代以前の各国の経済は、一つの国、一つの地方の自産自消で十分成立するものでした。
ただ、贅沢品や貴重な品々は外国からの貿易が有効な手段だったというだけです。
しかし、ヨーロッパは地続きのため戦乱が多く、痩せた土地が多いため歴史的に貿易が生命線であり、それが政治的に行き詰まると「未開の地」を求めて食指を伸ばす必要があったのです。

果たして、世界から見て日本はどうでしょうか?
江戸時代まで「鎖国」していたと言っても、実際に貿易は統制下で行われていたのは事実です。
しかし国の経済はほぼ自産自消で賄われており、外国産に頼る必要のあるものは嗜好品くらいでした。
経済的には、ITが普及する21世紀まで国内メーカーの質の良い製品でほぼ賄われていましたし、それに不満を持つ人々もいなかったでしょう。

それが90年代2000年代になり、日本企業が「世界」を意識し始めてから、国内産業の崩壊が始まったようにすら思えます。
東南アジアの台頭で工場が海外に移転したり、外資の流入によって国内メーカーが骨抜きにされたりしたのもありますが、「日本企業らしさ」を失ったのが一番大きいと思います。
今考えれば、ただでさえ「関税戦争」の起こる時代、「外国産」に依存すればするほどリスクの高い国際情勢になっていく、私にはそんな気がしてなりません。

日本人には、日本人の考える「多様性」があります。
日本の神社には、氏神、産土神と共に外来の神仏を祀るだけの懐の深い宗教観が根強く残っています。
その価値観は一神教を絶対とするキリスト教圏にはなく、「八百万」的な多様性を内包しない欧米の「選択的多様性」とは、全く性質の異なるものです。

そんな豊かな精神風土がありながら、海外から「多様性」という偏狭な考えを学ぶ必要があるでしょうか?
私は全くそうは思いません。歴史を学べば、全てが雄弁に物語っているように見えるからです。