神統試論・序

楽太郎です。

私が日本の神様の絵を描かせて頂くに当たって、一つの課題がありました。
それは、「同一視される神格を全て別々に考えたとしても、同定可能な神格も個別にするべきなのか?」という点です。

つまり、ある神様を描かせて頂く時には神名の数だけ違う神様として描くことはできます。
ただ、神名は異なるけれど由縁や背景を紐解くと、ほぼ同一の神格を指し示していることもあります。

神様の数だけたくさんの神様をお描きするのも一つの道だと思うのですが、下手すると神様の背景を掘り下げず、適当にお描きしてしまうことにも繋がります。
ある神様のプロフィールを辿っていくと、縁や由来があるからこそ深い理解にも繋がりますし、「こちらの神様とこちらの神様は同じ神格を示している」と結論づけることも可能になります。

例えば、私の崇敬する瀬織津姫命様は、「市杵島姫命・湍津姫命」「天照大御神荒御魂・向津姫命」「罔象女神」「高龗神」と、比定される御神格がいくつも存在します。
ただ、私自身は瀬織津姫命とされる御神格に対し、自然神、産土神としての「淡水を司る女神」であると認識しているため、安易に異なる御神格と同一視することには抵抗があります。

神道を考える上で、「自然神」「文化神」という観点を抜きにして、神様を理解することはできません。

「自然神」とは、私の解釈では「記紀」の天地開闢から天照大御神と素戔嗚命の誓約までの「自然の形象を神格化した神々」を指します。
「文化神」とは、日本に有史以来お祀りされてきた「祖霊神や氏神など、人格に由来する神々」を念頭にしています。

我が国ではその区別がなくても問題なく信仰されてきましたし、私自身も必要な分類だとは思いません。
「自然神」は形象それ自体でもあるので由来をそれ以上辿ることはできず、「文化神」は歴史的事実を把握すれば特定できる神様であります。
神として大まかに捉えて問題はなくとも、由緒を考えると混同することが必ずしも合理的であるわけではないのです。

信仰とは本来多様なものですから、私自身が瀬織津姫様を弁財天様や龍神様と同一視されることに異論があるわけではありません。
「瀬織津姫命は自然神である」という観念は私独自のものなので、例えば「市杵島姫命」様を私がお描きする機会があれば、別の御神格として表現するでしょう。
その表現に違和感のある方がおられるとは思いますが、それが私の神道解釈ですし、信仰に基づいた表現は曲げる必要はありません。

とは言え、現代の宗教法人制度における神道は、地域の伝承や伝統に裏づけされてはいますが、明治政府の神仏分離政策や飛鳥時代の大宝律令の成立と「記紀」の影響などにより、御神格は政治的な意図を持って祭祀形態を変更されてきたのも事実です。

例えば、愛知県豊田市にある「猿投神社」は、社名の「猿投」とは出雲族の信仰対象であった銅鐸を「サナギ」と呼んでいたことに由来する説があります。

ただ、同社は「大碓命」を主祭神とされていますし、社の西側には「大碓命墓」とされる「猿投塚古墳」が存在します。
「大碓命」は、景行天皇の子である双子の兄で、弟の「小碓命」は後の倭建命であると言います。
しかし、考古学的に猿投塚古墳の被葬者は解明されておらず、大碓命の墳墓は岐阜県にある昼飯大塚古墳が有力とされています。

「猿投」が「サナギ=銅鐸」であるとするなら、猿投山一帯は出雲族の銅鐸祭祀の名残がある土地です。
しかし、同社は主祭神を景行天皇の子息である「大碓命」としており、主祭神とされたのも近世以降で、実は古くから猿投山の神をお祀りしていたのではないか、と言われています。
つまり、出雲族の信仰は物部系氏族の伝承に塗り替えられており、ここには政治的な意図を感じざるを得ません。

神社と歴史、歴史と政治は密接な繋がりがあり、それらを切り離して日本人の信仰を考えることはできません。
神社に代々伝わる社伝も、時の人の解釈や作為が働いて創作されることもままあったはずです。

特に日本の神道史を考える上で、大和朝廷誕生後の宗教政策や、推古天皇の律令制度改革に始まり「日本書紀」の成立による氏族への影響などを無視することはできません。
そもそも、国家神道を考える上で肝となる「記紀」ですが、その成立の背景には飛鳥時代の白村江の敗戦、律令制の普及に伴う地方豪族との軋轢などもありました。

朝廷としては、律令制を確立して中央集権化を推し進めたいわけですが、時の天智天皇も頭を悩ませたことでしょう。
そして、地方豪族を取りまとめるために、天皇の血筋を堅固なものとしながら、全国の氏族の正統性を認め、派閥を取りまとめる必要があったはずです。

「日本書紀」は百済や新羅などの諸外国に提示する外交文書である以上、その内容は折紙付きとなります。
そのため、国内の豪族はそれを認めざるを得ず、結果的に各氏族は氏神・祖神信仰の形を変えねばならなかったとも考えられるのです。

ちなみに、「記紀」は日本という国家の成立、天照大御神を中心とした国家神道のあり方を定義したものと考えられています。
しかし、「日本書紀」が正史として文武天皇に献上されたのは公式記録にありますが、「古事記」にはないそうです。

古事記の研究によると、古事記が広く認知されたのは江戸時代、その立役者は国学者の本居宣長であると言われています。
古事記の前文には数々の批判があり、その文体から平安時代後期の可能性が高いそうです。
古事記自体は偽書ではないとしても、少なくとも「日本書紀」の原本などから編纂されているのは事実らしく、日本書記の方が正確な記述は多いそうです。

これらの書物は地方豪族の系統を取りまとめる目的もあったと考えていますが、やはり氏族には氏神信仰があり、それぞれ自らの祖神は絶対であり、簡単に御神名や由来を変えることなどできない、と思ったには違いありません。
だからこそ、記紀には似た構図の話が時代と人物を変えて何度も現れ、似たような境遇の神々が多数存在することになったのだと思います。

その全てが事実と違うということではなく、原型となるような経緯があり、その解釈や伝わり方で各豪族の心象も変わり、また権力差や立場で表現される物語も変わったはずです。
特に日本書紀を編纂したのは藤原不比等とされており、時の持統天皇や政治のゴタゴタも多分にあったでしょう。

その影響を踏まえても、やはり事実に基づくというか、そうではなくても共通認識となる筋道はあって、そこに登場する人物や神格、立場や背景が一致する原型があるように思えてなりません。
この歴史研究の試みは、「書紀を歴史的に紐解き、御神名を整理して神統を詳らかにする」というものです。 
 
これは、神格の混同を避けることにも繋がり、神様のプロフィールをより詳細にするということです。

例えば、和歌山田辺市にある「熊野本宮大社」の主祭神は「家津美御子(けつみみこ)神=櫛御気野(くしみけぬの)命」とされています。
ちなみに、神武天皇の諱は「若御毛沼(わけみけぬの)命」「豊御毛沼命」です。
熊野の社名でわかるように、社は「素戔嗚命」をお祀りしているはずです。
素直に解釈すると、「神武天皇が素戔嗚命である」ということになります。

そんなことがあるのでしょうか?

もう一つ例を挙げると、神武天皇の父である「鸕鶿草葺不合(うがやふきあえず)命」の妃は「玉依姫命」であり、玉依姫の姉の「豊玉姫命」は、鸕鶿草葺不合命の母であるとされます。

鸕鶿草葺不合命の父である彦火火出見命、山幸彦またの名を火遠理とされています。
釣り針を無くして海辺で途方に暮れていたところ、塩椎神に誘われて竜宮に赴き、豊玉姫と恋に落ち子を儲けました。
豊玉姫には龍女の伝説があり、父は綿津見神であるとされます。
火遠理と豊玉姫の子の鸕鶿草葺不合は叔母にあたる玉依姫に育てられ、後に結婚します。

「海幸彦と山幸彦」という話では、山幸彦(火遠理命)は兄から借りた釣り針を海に落としてしまい、途方に暮れますが、自分の剣である「十拳の剣」から千本の針を作って海幸彦(火照命)に渡そうとします。

「十拳の剣」を持つ神と言えば、素戔嗚命でしょう。
素戔嗚命は八岐大蛇を退治する時、十拳の剣で戦い刃が折れてしまいますが、八岐大蛇の尾から「草薙の剣」を見つけ、これを宝とします。

ということは、神武天皇は素戔嗚命であり、祖父の彦火火出見命も素戔嗚命であるとも言えるのです。

しかし、素戔嗚命は天照大御神と同時にお産まれになった三貴子であり、世代が全く違います。
しかし、実在の神社の由来、地域の伝承を加味して記紀の設定を照らし合わせると、奇妙な一致と不合点も明らかになってきます。

こういった複雑に絡まった系統を解していく、繊細な作業になっていくと思います。
こういった事象が起こるのは、書紀編纂時に各氏族の都合を整合性よりも優先した結果ではないでしょうか。

興味深いのは、鸕鶿草葺不合命の妃である「玉依姫命」には、いくつも似た名前の神様がおられることです。
「鴨玉依姫」「櫛玉依姫」「活玉依姫」、姉の豊玉姫も似た名前ですが、「豊」が氏族の「豊氏」の系統を指すのだとしたら、「鴨玉依姫」は「賀茂氏」と繋がりがある可能性もあります。

また、神道には「四魂」という考え方があり、それは「幸魂、奇魂、和魂、荒魂」とされています。
この「幸魂」は「豊」、「奇魂」は「櫛」と表記されるそうで、つまり玉依姫命の神名のバリエーションは、「神魂の現れ方」を表しているのかもしれません。

ということは、一見文脈としては別々の神様のように語られていたとしても、実は同一の神様を別の角度から説明していた、という記述も多分にあるのではないでしょうか。
ゆえに、「鴨玉依姫命」「櫛玉依姫命」「活玉依姫命」を個別の神として表現するのは慎重にならなければなりません。

この試みは、断定するのが難しいことを扱うことになりますが、独断と偏見で強引にやっていこうと思います。
これには、考古学的歴史だけでなく地政学や民俗学、神社の成り立ちなども考慮に入れながら多角的に調べていきます。

これから神道の歴史を辿るにあたり、「日本書紀」の記述を軸にしたいと思います。
両書には神名の表記揺れがあり、その辺を混同すると私自身が混乱するのもあるからです。

なかなか素人には難しい試みですが、無学者なりに大胆なアプローチをしていきたいと思います。
私としても、意外な結論になっていきそうでワクワクしています。