連日、「アメリカン・ドリーム」「多様性のウソ」と、救いのないような話ばかりをしてきました。
いや、「救いがない」というのは語弊があります。
むしろ「救われる」ために状況はより破滅的になり、ドン詰まりから基礎的な崩壊が起こりつつあるからです。
私は未だに、20世紀初頭のベルギー領コンゴで、ゴム採取のノルマを果たせなかったせいで両手両足を切り落とされた5歳の女の子と、その家族の運命について考えると、とても居た堪れない気持ちになります。
それも100年以上前の話ですから、現代に至るまでにゴム農園よりも酷い環境なんてのはザラにあったのが、「世界」の現実です。
私は、弱者を虐げる権力者が私腹を肥やし、権力に比例して報いも咎めも受けない仕組みに対して、長いこと納得がいかないのです。
今、写真と記事があるからようやく知れるようなことも、出来事を伝える手段を失ったために闇に葬られたことなど山ほどあったでしょう。
ただ、このコンゴの凄惨な写真、この画角で写真を撮るにはあまりにタイミングが良すぎる印象があり、詳細はわからないのですが何となく腑に落ちない部分もあります。
歴史的事実というのは、裏の裏を探ればさらにエゲツない事実が浮き彫りになることもありがちな話です。
ましてや、こういった不条理は現代だから解決している事実は全くないわけで、今でも世界中で起こる戦乱の下だけでなく、我が国の企業ですら「儲けを出せない社員は死んでも構わない」という意識で使役されている労働者もいるでしょう。
「従業員はハサミか鉛筆程度のモノ」という思考の職場に私はいたことがあるので、そういった状況も組織の体質も酷く理解はしているのですが、とりあえずここでは置いておきます。
現代と言えど、コンゴのゴム農園やアメリカ奴隷市場のような凄惨な状況は、形は変えて同じような現象が世界中に溢れています。
この「支配」と「搾取」の構造を強化する「権力」と「差別」の仕組みは、やはり「富める者」と「貧しき者」の差、つまり「お金」という存在が中心にあります。
「お金」を持っていれば人望が集まり、賛同は「集団」となり、数は「力」となり、物理的に「武力」となり、言葉は「発言力」となり、全てにおいて弱者を凌駕します。
そこで権力者に囚われた人々は、逃げられなければ権力者の好き放題になるわけですが、その虐待を咎める更なる「力」が存在しなければ、永久に彼らは罰を受けることはないでしょう。
現在においてもその構造は健在で、「罰を受ける仕組みを逸脱した」権力者が、告発を抑圧し罪から逃れ、何食わぬ顔で権威の座に居座っているのがまさに今の世界です。
「勧善懲悪」を打ち出して今季大統領になったトランプ氏は、数々の「闇」を暴くヒーローとして甦ったはずですが、今のところ児童買春の「エプスタイン問題」についてはダンマリ、政府の予算削減は殆どならず、中国のコロナウイルス起源の追求も有耶無耶、それどころか勝負所の「報復関税」すらなし崩しのまま、「TikTok」が欲しくて国家元首の顔色を伺う始末です。
トランプ氏を大統領にするために「ハシゴ」を掛けた人々が大統領自らにハシゴを蹴り落とされ、共和党支持者は一体どんな顔をして暮らしているのでしょうか。
多くの米国民は、自分たちで「大統領」を選出したと思っているかもしれませんが、純然たる「民主主義」がきちんと機能するならば、大統領候補擁立の時点で民衆から選ばれた「聖人」のような政治家を「誰を選ぼうか悩む」くらいのはずで、それが「どっちのジョーカーを選べばマシか」という「ババしかないババ抜き」にはならないはずです。
まあ、これは我が国も他人事ではない案件で、政界の腐敗度で言えばトントンかもしれないのですが、こういった「民主制選挙制度の欠陥」は、現在の世界中に見られる光景です。
そこにおいて、民意と政治のズレの間には「利権」という深い溝があり、現行民主主義制度ではこの溝を埋める手段がほぼ存在しないのではないでしょうか。
国家は歴史的に見て、強権的であればあるほど民衆にとって害となる反面、制度として確立していなければ外来の国家から民族や国土を防衛できない、という厄介な性質があります。
つまり「軍事力」という面では国家権力は必要悪なのだけれど、政治の面から見ればむしろ害悪になるケースの方が多いのです。
これらの「統治」に関する議論を始めればキリがないので止めておきますが、国家的権威に近づけば近づくほど利権は増大し、巨大な既得権益を有する財閥や富裕層が政界に影響力を及ぼすことで「我田引水」の仕組みを作るというのは、まさに構造的宿命と言ってもいいのではないでしょうか。
そこには、「お金」と「権力」というものが付随し、その利権を持ってすれば「法」ですらも人為的に捻じ曲げることが可能なのです。
そして「越権」と「脱法」が可能になった権力者は、その力を使って世の因果を好き放題に捻じ曲げることができるでしょう。
そうして固定化した権力構造が、今の世界情勢を形作っていると言っても過言ではありません。
こうなると、「人間」が「人間」を裁くことが出来なくなります。
その法の仕組みは権力者に握られているのですから、非力な民衆には簡単には翻すことができません。
それが平和的にはデモ、状況が激しくなるにつれて暴動やテロ、クーデターとエスカレートしていきます。
しかし武力で成立した政権が、穏健な政治に転換するという事象は酷く稀です。
大抵の場合、国家転覆時の抵抗勢力を抑え込む時点で発生した軋轢を引きずり、新政権樹立後も武力に訴えがちになるのです。
そうなると、その国は派閥と敵対の連鎖が連綿と続く歴史を歩まなければならなくなります。
この構造は、そもそも「悪辣な権力者」が誕生する構図を人類の統治技術では避ける方法がなく、その権力を裁く手段が未だこの世に存在しないことに、糸口の見えない問題があります。
これまでの国際社会では、「国連」がその役割を持つという「体」でしたが、常任理事国のロシアのおかげで、その機能が骨抜きであることが明らかとなりました。
今はその半分の役割をNATOが担っていますが、今日の弱体化した西側諸国の団結力では、元も子もないでしょう。
つまり「人治」の世界における限界が、ここにあります。
権力者の「罪」は、それ以上の力を持つ「権力者」がいなければ裁くことができませんが、その権力者も公正さを失ってしまえば、その罪は誰も裁くことが出来なくなるわけです。
人間は、人間の世界での「因果律」を曲げることで裁きを逃れ、罰を受けることなく罪そのものから逃れることが可能になります。
これまでの人類史の凄惨な歴史も、この「支配者」が自然死することで出口に向かったケースが実に多いのです。
余談ですが、これがもしイーロン・マスクの追求する「電脳不老不死技術」で現代の権力者が永遠の命を手に入れたら、それこそハリウッド映画で見たディストピアに近い世の中になると思います。
この構図が、これまで「闇の世」を作り出してきた最たる仕組みと言っても過言ではありません。
人間が人間の世界で「因果律」を曲げることができると言っても、仏教では宇宙的法則とされる「因果応報」、「自因自果」「自業自得」という神々の因果は、どこへ行ったのでしょうか。
私たち人間は、どんな悪人であっても必ずしも報いを受けず、むしろ悪辣な行為をやり切ってから差し引きで優遇される光景すら目にします。
つまり「ヤリ得」であり、悪いことをすればするほど得た利益で力を持つので、どんどん悪行を重ねて成功していくという状況すらあります。
これに関して、真面目に誠実に生きていく大多数の人々は、「正直者はバカを見る」と内心思うのです。
人間から見ればそうですが、果たして神々から見ればどう映るのでしょうか。
人間にはこの「現世」しか目に見えませんし、わかりません。
この世で悪辣な行為を繰り返した人々が、死ぬ寸前まで大した反省もなく、好き放題に暴れ散らかして死んでいくのを目の当たりにしても、彼らが死後どうなるのか、またその魂が来世にどういう宿命を辿るのか、今を生きている人間たちには知りようがありません。
私はここに答えがあるのではないか、と思います。
「死後裁きに遭う」と宗教的に言われ、半ば負け惜しみのようにも捉えられてしまう死後の「因果応報」ですが、確かに「あいつは地獄に堕ちるに違いない」と思えば、少しは溜飲も下がるでしょう。
ただ、私たちにはその結果を知ることも叶いません。
だから精神的には、「悪いことをした人間は死んだ後に苦しんで欲しい」とだけ思うのです。
それは残念ながら願望であり、実際にそうなるかを確かめる手段は殆どありません。
しかし、果たして本当に「因果応報」とは存在しないのでしょうか。
むしろ、人間には「因果応報」という宇宙の真実がわざと認識できない形になっているとしたら、逆に死後に赴く「霊界」では現界と異なる意味を持つ可能性があるのです。
人間は輪廻転生を繰り返してこの世に生まれる時、過去世との因縁を持って誕生すると言われます。
私たちが日常的に遭遇する突拍子のない不幸も、目に見えない因果によるものだとしたら、人間の目で捉えた筋書きの出来事とは違う事実があるはずです。
例えば、不慮の交通事故に遭った人が、初対面のドライバーと賠償請求で揉めて、そのトラブルを何年も引きずるようになった時。
もし過去世を辿れるとしたら、どこかの過去世で加害者であるドライバーと被害者は出会っており、全く同じことを逆の立場でやっていた可能性は否定できないでしょう。
世にある「巡り」というのは実際こういうもので、過去世のカルマは未来的な転生の間に、「因果応報」という形で身に降りかかるのかもしれません。
それは今生を知らずに生きている人間からすると、理不尽かつ不条理な出来事に、突発的に遭遇したという印象です。
しかしそれは、過去世で自分が相手にしたことと全く同じことが返って来ているとしたら、不意を突かれた状況も過去世の相手にとっては同じだったかもしれないのです。
そしてその「罪」は、軽いものほど「カルマの返済」後の立ち上がりは早いのでしょうが、何度死に変わりをしても人間の命では返しきれないカルマも存在するでしょう。
実は、死後に地獄で苦しむよりも恐ろしいのは、むしろ現世で全く何も知らないのに「罰」が降りかかってくるということです。
この場合、「罰」というのは「迷惑料」のようなもので、閻魔様がいちいち裁きを与えるものではないかもしれません。
本人は全く借金したつもりはないのに、全く別人の請求書が送られてくるのですから、面食らいます。
しかしそれは人格として繋がっていなくても、魂の前の持ち主がした借金なので、今の借主が返さなければならないのも理不尽に感じられるでしょう。
どうも、ここにこの世の妙味がある気がします。
自分がした借金なら「仕方ない」と思える分、罰に対する反省や心構えがあります。
しかし全く身に覚えのない返済義務は、まず借金の存在を知るところから始まるので、より「罰」を受ける時の衝撃度は増します。
むしろ、この「タイミングの悪い請求書」ほど、借銭を滞納した分の利子と言え、その不幸感が「罰」の一部かもしれないのです。
だから、知らず知らずのうちに発生した借金の取り立ての方が、思いきって自己破産するよりも恐ろしいのではないでしょうか。
この「巡り」の全体を見れば、人間が一生のうち数十年というスパンで目視しうる因果応報は、実際は一部分に過ぎないのかもしれません。
私たちはそれを見て「そら見たことか」と言い、悪人がのうのうと天寿を全うするのを見ると、「地獄に堕ちればいいのに」とすら思います。
しかし神々から霊界を見下ろしたタイムスパンは遥かに長大で、何度転生を繰り返しても果たされない「カルマ」があるとすれば、そこには計り知れぬ恐ろしさがあります。
この「巡り」、「因果応報」があるかないかの認識があるだけで、今世での生き方と来世での運命が変わって来るとしたら、それが真実かはどうかわからなくても、とりあえず悪いことはやめておこうと思う方が賢明ではないでしょうか。
ここで刹那的に生きて、大した反省もなく逃げ切ったとして、人格としては一度死んでも、全く記憶がない状態で他人にした同じ目に遭うとしたら、自分は人格としては無関係でも、責任を果たすのは違う人格の自分という仕組みが、この宇宙なのかもしれません。
しかし、それは「どうせ俺じゃないから」と今は思っても、違う人生の自分が遭遇する運命は結局自分が経験することになり、記憶が丸ごと入れ替わっているだけで、人格的に連続性が「ない」とは言い切れないのも恐ろしい部分です。
だとしたら、誰もそんなことは教えず、マニュアルにもない宇宙の仕様に則って、平然と他人を傷つけることのリスクは計り知れません。
その法則を「わざと人間にわからないような形にしておく」神々の意図があるとしたら、それこそ底知れぬものがあります。
そう考えると、私はコンビニの店員さんにも愛想を振りまく人当たりの良さを発揮せずにはいられないのです。
しかし人間からは、この「巡り」が本当にあるかはわからないので、普通ならそこで地を出してしまうものですが、ここで宗教的な感性のある人なら少し違うはずです。
正味な話、この宇宙の因果法則や「巡り」があると思えるかは、目に見えない世界や「神」が存在するかを、どれほど信じられるかに比例するのではないでしょうか。
「目に見えないもの」を信じられない人は、この法則に気づかずに過ちを繰り返すでしょう。
そこに「巡り」があると思えるかは、神の存在を信じるか、人間の世界が全てと信じるか次第です。
私は「悪人」がのうのうと蔓延る現実を見た時、さすがに「この世に神はいないのか」と思う時もあります。
その時ほど「因果律」を疑い、不公平さを嘆く自分自身に、こう問いかけます。
「神の法則を信じるのか、人間の常識を信じるのか。さあ、どっちなんだい!」と。
(なかやまきんに君風に)
