人は儚い

楽太郎です。

桜の花が、散りました。

今年の地元の桜は、満開の時期が平日と重なりました。
週末に花見を期待していた方々は、雨に当たって予定が崩れたことと思います。
雨が続く日々が終わると、強風の日が重なって一気に花が散りました。

今年、桜の下でシートを広げている人をあまり見かけませんでした。
今年は天候に恵まれなかったのもあると思いますが、このご時世、そういう気分にはならなかったのかもしれません。

私は桜が一分咲いたあたりで、「今年の桜は元気がないな」と感じました。
たぶん、今年の桜はすぐ散ってしまうだろうと思いましたが、予想通りになりました。

木之花咲夜姫命は、桜の女神とされています。
桜の木は古来から日本人は「神の木」と呼んできました。桜の木を見て、昔の人は作物の吉凶を占ったそうです。
今年の桜を見てみると、何となくこれから良くないことになりそうな気がします。

物価高と不況が重なり、そこに凶作が加わることで見えてくるのは、「食糧難」です。

私はそれをひしひしと感じて動いていますが、全く何の不安も感じずに暮らしている人もいるのではないでしょうか。
もっと危機感を持て、とは言いませんが、この期に及んで「金さえあれば何とかなる」という頭でいるとしたら、あまりに能天気すぎると思います。

先日、私がすごく好きで毎年年末には必ず宿泊していた温泉旅館が、巨大リゾート企業に買収されました。

その旅館は歴史が古く、趣があってとても居心地が良かったのですが、大衆的にリフォームされるらしく、とても残念に思いました。
確かに、旅館から外に出ると食事できるような店すらないので、温泉地全体が立ち行かなくなってしまったのもわかります。

時代が変わり、これまでにあったものがなくなっていくのは考えれば当然なのですが、それは自分が好きだったものを手放さなくてはならない、ということを意味します。
当面は、というか二度と、あの良かった温泉旅館に泊まることはできません。本当に残念ですが、時代の流れだと思うしかありません。

最近、行き交う人々を眺めて、「人間は儚いな」と思います。

私の以前勤めていた会社も、10年そこらで跡形もなくなり、人々の記憶にすら残っていないでしょう。
昔よく通っていた店も場所も、消えてなくなり今は何の面影もありません。
あの頃は「またいつでも行ける」と思いましたが、今になるとあれが永遠の別れでした。

これまで様々な人と出会い、色々な考え方や生き方を見ていく中で、「どうしてそんなに生き急ぐのだろう?」と思う人がたくさんいました。

同世代の友人も、異性の気を引いたり立場を優位にするためには、本当に何でもやるような人たちばかりでした。
また、あまりに向こう見ずに行動するから、望まない形での就職や結婚をする人も多かったです。

ある知り合いは、未婚のまま子供が出来たことを「やらかした」と表現していました。
付き合っている段階から気が合わなくて喧嘩ばかりしていたのに、子供が出来て結婚する段になると、なぜか急に幸せアピールをし始めるのが不思議でなりませんでした。

彼らがそれで本当に幸せになれば、私が特に思うこともなかったでしょう。

しかし、彼らの多くが家族を養育するために望まない職に就き、夢を捨てて人生の舵を違う方向に切っていきました。
やはりそういう人たちほど生活の中で狂いが生じ、家族と離散していくのを目の当たりにしました。

若い頃は夢ばかり語っていた人たちも、気がつけば大言壮語を捨てて稼ぎとルーティンの生活に嵌っていきました。
堅実に生きる、彼らはそれが「大人になる」ことだと言っていました。
私はそれもそうだと思うのですが、社会の一員として立派であるために自分の人生を曲げるのが、果たして人間として正しいのかはわかりません。

人間にとって何が必要なのかわからないまま、急いで何かを手に取ることで、本当に必要なものを手にすることができない、ということもあるのかもしれません。

人間に大切なものはもっと普遍的で、長い年月をかけようと失いにくいはずなのに、人々はすぐに壊れるものばかり欲しがり、それが一番良いものだと信じてしまいます。
それはもう、今頑張って手に入れたとしてもすぐにとうの過ぎるもので、信じるがゆえにそれに気づかないのでしょう。

人々はそうやって長い間、刹那的なものを追い求め、刹那的なものが永遠に存在すると思い込み、刹那的なものに全てを賭けてきました。
けれど、それは「桜の花」のようにすぐに散ってしまうもので、あたかも凌霄花のように飽きるほど続くものだと錯覚します。
やはりそれも幻想なので、すぐに思い出の存在になってしまいます。

その悲しみを癒すために、また「同じもの」を心から求め始めます。
「あの頃にあった何か」を呼び戻そうと、楽しかった昔のものや思い出のシーンを再現し、過去を取り戻すことに執着してしまうのです。

その心理は、近年の「東京オリンピック」や「大阪万博」という現象に現れてはいないでしょうか。
その他にも、中年以降の大人にしかわからないような懐古主義、復刻ブームが盛り上がっているように見えます。

けれど、おそらくそれも一瞬のもので、その花が散るとまた寂しさを覚えてしまうのでしょう。

だから私たちに必要なのは、過ぎ去るものには潔く別れを告げ、大切な思い出として胸にしまって生きていくことではないでしょうか。
そして、時には振り返ってもいいかもしれませんが、今この時代だから必要なもの、人が本当に求めるものに目を向け、そのために新しい行動を起こしていくことだと思います。

「青春は取り戻せる」という人と、「青春は取り戻せない」と言う人がいます。

私はどちらも正解で、どちらも間違いだと思います。
青春はやはり、経験がないからこそ10代20代の瑞々しさはあるのです。
しかし、青春時代のようなキラキラした世界は、何歳であろうと心持ち次第で味わうことができます。

大切なのは「心」であって、形だけあるべき姿に合わせるから無様な形になってしまうのです。
そしてその「心」こそが普遍的で、長い時間をかけても色褪せないものだと思います。

色々なものが消えていくのは、時代が変わるのだからしょうがないのです。
けれど例え全てが変わるとしても、人間として変えてはならないものがあり、それこそが本当に大切なものだと思います。

感情に流されず、何がそうであるかを見極めていきたいものです。

新しい時代は何もなくて心細いかもしれませんが、昔のもの以上に良いものを見つけ、作っていけばいいだけです。
そして、これからはそう割り切っていくための時間がこの国に来るのだと思います。