この歳になると、親からも「子供」扱いされなくなり、「大人」として相応の立場を求められるものです。
まあそれは当然なのですが、私を「子供」と思わない母からは、聞きたくもない家族の秘密を聞かされることもあります。
私の母が10代の若かりし頃、初恋の男性と良い感じだったにも関わらず、父が母につきまとってストーキングした挙句、カッターを出してきたので怖くなって仕方なく付き合ったという、とても聞きたくない事実を知った日には、夕焼けがやけに滲んだものです。
そういった父の性癖には私自身、心当たりがないわけではないので、血は争えないと思ってしまいます。
18歳の母は、「これだけ強引なら、その分愛情も強いのだろう」と思って、なぜかそのまま付き合って結婚し、兄と私が生まれました。
母は「今まで良いことなんて何もなかった」と呟くこともありますが、なぜか我が家に限っては「因縁」というものを差し置いて説明できない気がします。
もし母が初恋の人と結婚していたら、話を聞く限りは紳士的で誠実な人だったので、父と結ばれるよりも幸せになれたかもしれません。
けれど人生において「もしも」というのは、考えても大した意味はありません。
母が微妙に不幸な結婚生活を選んでくれたおかげで私と兄が生まれ、私のおかしな人生があり、兄の子供もこの世に生があるのです。
人生というのはなぜか皮肉にも、人間の考えるありがちな「幸福」に必ずしも辿り着くとは限りません。
犯した過ちは取り返しがつきませんし、アクシデントも人生の落とし穴もたくさんあります。
そして「幸福」を追求するがゆえに、返って間違った道に進むことすらあります。
人間の考える「幸福」は、この社会が作り上げた理想であって、そのビジョンを追求することは、必ずしも神が人間にお与えになられた「人生の目的」と同じではないのだとしたら。
もしかすると私たち人間は、そもそも人間の考える「幸福」のためだけに生きるべき存在ではない、ということかもしれません。
では、神がお与えになられた「人生」の意味とは何でしょうか。
もし人間が絵に描いた「幸福」に最短で辿り着くのが人生の目的なら、その人生に必要なのは「幸運」でしょう。
しかし、「幸運」は自分に備わった性質ではないため、くじ引きやビンゴゲームのような偶然に任せた幸福には、大した意味があるとは思えません。
しかし、生まれ持っての「賢さ」や「性格の良さ」など、自分を取り巻く初期ステータスもやはりランダム性を持ちます。
大事なのは無条件に振り分けられた、ハンデもありメリットもある「自分」という存在を通して、それぞれの人生の目的を追求していくことにあるのではないでしょうか。
けれども、往々にして世の中には罠が多く、大抵の場合はどこかで躓いては失敗して、しかも完全なリカバーも難しいのです。
そういった「取り返しのつかなさ」というのが人生における最大の特徴であり、この部分を甘く見るほど痛い目に遭った時のダメージは計り知れません。
だから、人生は「やったことは取り返しがつかないから、よく気をつけて生きていこう」と考えて、慎重に生きていくに越したことはないのです。
「取り返しがつかない」ゆえに、その経験から得た知見は「教訓」となり、過ちを避ける教訓が「知恵」となって自分以外の人々をも助けるでしょう。
ゆえに、人生において大切なのは、自身の「幸福」よりも「学び」にあるのではないでしょうか。
幸福とは、一度手にしてたところで、条件が変わればすぐに消えてしまうものです。
最高の伴侶との生活も、いつかその人がこの世から去ってしまえば終わってしまうでしょう。
お金も名誉も、容易く失われる性質のものであり、それがどれほど大きくても無くならないわけではありません。
無くならないのは、自分に命ある限り「不幸」を回避しうる「知恵」だけです。
成功のスキームもいつかは役に立たなくなりますが、「失敗しないためのスキーム」には汎用性があり、いつどこでも役に立つはずです。
実は成功するよりも「失敗しない」ことの方が人生を効率よく進めるには大切であり、それは一絡げに「幸福」だけを追求すれば、見えなくなってしまう部分でもあります。
一度幸せになっても、いつかどこかでその幸福を失った時、同じ状態を完全に取り戻すことは大抵叶わず、幸福を失っても人生は続きます。
間違ったからと言って、どこかでリセットしてやり直すこともできず、失敗する前のポイントにロードすることもできません。
そして大抵の場合、「どこかで間違った人生」を誰しも歩み続けなければなりません。
これが人生の妙味であり、失敗や欠陥のある人生を「何とか良くしよう」として生きていくことが人生の本質なのかもしれません。
だから人生は「幸福」という刹那的な状態になることがテーマなのではなく、むしろ「幸福ではない状態をどう生きるか」に掛かっているのです。
「取り返しがつかない」ということは、ある意味「一度きり」のものであり、言い方は悪いですが「使い捨て」ということです。
いつまでも自分は若く元気で綺麗で、世の中にはチャンスはいくらでも転がっていると思っていても、人間などたかだか数年で容姿も境遇も変わる儚い存在です。
そして歳を取り、身体が衰え容姿も変わり、世の中の時流に合わなくなっても簡単に死ぬわけにはいかないからこそ、「次の人生はもっと頑張ろう」と思い、死んでまた生まれ変わって、生き直そうとする仕組みが「輪廻転生」なのかもしれません。
だから、人生というのは予め失敗を前提にしたものなのではないでしょうか。
ただ人間にとって「自分」という人生は一度きりだから、このターンで全てを成功させて完璧な人生を送りたいと思うでしょう。
そして、自分以外の成功者はそんな生き方ができていると錯覚し、同じように最短ルートで最適解の人生を目指したがるのです。
実はそこに「落とし穴」があり、絵に描いたような成功には「虚飾」や「見栄」がつきまとい、自身を「成功者」に見せたい者ほど華麗なデコレーションを施すものです。
世の中も「学歴」や「経歴」の一貫性を「無傷」と評価し、そういった固定観念に最適化された人生を、社会は人々に強要します。
人間は「失敗したくない」生き物ですから、誰もが環境から用意された「最短ルート」の道を歩もうとするでしょう。
しかしその選択肢は、自分が用意したものではないために不一致感を覚え、その感覚を押し殺しながら生きる中で「人並みの幸福」を掴もうとします。
ただそれも、自分の性質や真の願望とは離れたところにあるので、どこかで不安や違和感を埋め合わせ、自身の半生を正当化する根拠を探します。
ややすると、その不満が「ステータス自慢」であったり、職権を振り翳して利益を得たり、誰かを組み従えて満悦する、そういったところに別の捌け口を求めるのかもしれません。
そして、人々はそれを「成功」と称し、経済的成功者を「幸福に違いない」と錯覚し、世にある幻想の一つに過ぎないものに、一度きりの人生を費やそうとするのではないでしょうか。
ただ、それもやはり人間社会に作られたもので、幻想に近い「幸福像」を中心にこの宇宙が回っているわけではないことは明らかでしょう。
だからこそ、宇宙から見れば人間の幸福は人間に作られた幻想にはなく、まして人生の真の目的はそこにないと言えるのではないでしょうか。
そして、それぞれの人生にはそれぞれの「テーマ」があり、その主題は自分の生まれが設定された時から始まっているのだと思います。
「幸福」は自分に与えられた「テーマ」の延長にしか存在せず、それゆえ人間の考えた「幸福像」の追求が重要ではないとしたら、むしろ自分の幸福は自分の人生の中にしかないことになります。
そしてそれを「学ぶ」ために人生があり、よしんば自分なりの幸福を追求するためにあるのだとしたら、一度失えば終わるような幻想に人生の主軸があるのではない、そう考えて良いのかもしれません。
特に今の私たちは、この社会情勢の中で「これで良かったのか」と顧みて、「あの頃は良かった」と浸ることもあるでしょう。
「過去」に囚われ、過去と地続きの「今」を疑いながら生きる時、そこに充実感はなく、幸福に対する前向きさもありません。
やはり、過ぎ去ったものが再び同じ形で戻ってくることはないのです。
「取り返しがつかない」のは全てに当てはまることだからこそ、失ったものにいつまでもしがみついているべきではありません。
もし「今」が不幸でどうしようもなく、過去の後悔や未来への不安に囚われているのだとしたら、その苦しみの根本には「自信の喪失」があります。
仮に今が最高に上手くいっていたら、過去に何があっても現在の自分を正当化し、評価することができるはずです。
しかしそれができないのだとしたら、「今」の自分に納得がいかず、「過去」の自分を否定し、その時系列が切り離された感覚を、「過ち」であると感じるのではないでしょうか。
つまりは、「過去の自分」と「今の自分」、そして「未来の自分」が全てバラバラだから、「現在」というものに自信を持つことができないのです。
その時、「過去の経験」を「今の自分」に畳み込み、「未来への希望」を現在に畳み込めば、「自分」という時系列は一貫性を持つはずです。
そして、「過去の経験」を「未来への希望」に繋げる時、「今の自分」は最適なものとなるでしょう。
過去から今、今から未来に至る自分に芯を持つことで自信を取り戻し、自らの人生に対する後悔や不安は消えるはずです。
これまでの世は、あたかも「人生のマニュアル」があるかのように、「良い学校へ行き、良い企業に就職し、良い家庭を築く」という人生のルートを最適解にしてきました。
その教科書通りの人生を外れる恐怖が世に蔓延していたからこそ、誰もが失敗を恐れ、自分の性質や人生の目的を二の次にして、同じような価値観で全ての人が生きようとしてきたのではないでしょうか。
ただ、そこに誰しも辿り着ける「幸福」はなく、繰り返せば良いだけの日常には、人生の「学び」も存在しなかったでしょう。
「失敗」の経験が「学び」になり、その「知恵」が人生にとって遥かに大切であることは、これまでの世の中では見過ごされてきたのです。
これまでの世の中に大きく間違っていた部分があるとしたら、人間が生きる上での「失敗」を許さない社会にしてきたことです。
しかし人生とは、人間が想像する「幸福」のために全てを費やすことではなく、「学び」の中でより良い人生を歩むことにあります。
従って、どんな「失敗」も、本来ならむしろ歓迎するべきものです。
人生の全てが「取り返しがつかない」からこそ、そこで得た経験は貴重であるはずです。
もし良い世の中があるとすれば、それこそ誰もが、失敗を笑い合える余裕のある社会なのではないでしょうか。
