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2025.04.22

「瀬織津姫」と云ふ神

「瀬織津姫」と云ふ神
2025.04.22

楽太郎です。

今、神統試論を書くために調べ物をしていたところ、気になることを発見しました。
福岡県福岡市と佐賀県神埼市の境に山脈があり、「脊振山(せぶりさん)」という山があります。
この山は断崖地形のため急峻かつ渓谷となっており、滝なども多いと言います。

この山は古くから霊山として知られており、山頂に建つ奥宮は「弁財天」を祀るそうです。
私はこれを知って、少し違和感を覚えました。
弁財天は、厳島・宗像社の系列では海辺や川など水のある所で祀られていることがほとんどです。
しかし、山頂には自衛隊基地と米軍のレーダードームもあり、弁財天を祀るには相応しい場所とは言えない気がしました。

そこでハッとしたのですが、この「脊振(せぶり)」というのは、「瀬降り(せぶり)」なのではないか、と思いました。
この山地に始まる河川こそ「瀬」であり、頂上から流れ出る様は「降る」ようにも見えます。
ここで思い浮かぶのは、「瀬織津姫命」です。

「瀬織津」という言葉は、以前「瀬におりし」という意味ではないか、と記事に書きました。
これは「瀬に降(お)りし」と書き、脊振が「瀬降(ぶ)り」だとすると、この山と瀬織津姫命は関係あるのかもしれません。
奇しくも、瀬織津姫命は「市杵島姫命=弁財天」と同一視されることが多く、この山に弁財天社が祀られていることにも関係があるように思えます。

一説には、この脊振山の由来は古代朝鮮語の「ソウル(大きな村)」の意だと言われています。
ただ、山地に対して「村」と呼ぶのは違和感があり、どちらかと言うと太古から人が居住していた麓の筑紫平野に由来を残すと思うのですが、付近の河川周辺にも古代朝鮮語を連想させる地名はないように思います。
なお、渡来系の呼称が日本の地名に根差すことは十分考えられますが、この説に関して首を傾げずにはいられせん。

とにかく現時点で結論を出しようがないので、ひとまず置いて調べていたところ、「瀬降り(せぶり)物語」という80年代に作られた邦画の存在を知りました。
この「瀬降り物語」は、脊振山とは関係がないようですが、「山窩(さんか)」の若者たちの青春を描いた作品だそうです。

山窩とは、山から採れた川魚や蓑や箒などを売り、その修理などしながら山里付近を流浪していた人々のことであると言います。
彼らが河原に天幕(テント)を張ることを「瀬降り」と言い、山窩にはそうして暮らす「せぶりけんた」などがいたそうです。

私はこの話を知って、「瀬織津姫命」とは「瀬降り(山窩)の祀る神」なのではないかと考え、山窩について調べてみることにしました。

結論から言えば、どうやら民俗学的に「山窩」という民族は存在せず、江戸時代末期から「流浪する貧困層≒犯罪者予備軍」として政府や警察機関などから警戒される人々を指した可能性が高いようです。

明治の戸籍制度が進むにつれ、流浪していた人々にも国家政策として定住が促されるようになりました。
そして戦後しばらくを境に、「山窩」の対象となる人々は身分が特定されるようになったため、社会制度の上で「流浪民」は存立できなくなったようなのです。

山窩研究では民俗学者の柳田國男氏が有名ですが、同世代の歴史学者、喜田貞吉氏が「山窩」にまつわる興味深い論考を残していたので、それを青空文庫で読むことができました。

サンカ者名義考-サンカモノは坂の者

彼によれば、山窩という言葉はかつて「穢多非人」と呼ばれた人々を指す「三家」から転訛したと言います。
それは「坂の者=境の人々」という意味であり、聖俗の境界に暮らす職業を指したとされます。

「かく地方によって種々の名称があるにしても、結局は同情すべき社会の落伍者等が、都邑附近の空閑の地に住みついて、種々の賤業にその生活を求めたものであって、特に京都では坂の者・河原者の名で知られ、それが通じてはエタとも、非人とも呼ばれていたものであったのである。

(中略)
 
しかるに後世では次第にその分業の色彩が濃厚となって、河原者の名がその実河原住まいならぬ俳優のみの称呼となったが様に、坂の者の名がサンカモノと訛って、特に漂泊的賤者の名として用いられることになったのであろう。」

これを捕捉する事柄として、奈良時代の役所である兵部省で鷹などを飼育していた主鷹司(たかつかさ)の雑用係である「餌取り(えとり)」という役職が「エタ→穢多」と訛り、河原者を指すどころか牛馬の解体処理業者までも差別する言葉となったと書かれています。

つまり、本来は聖俗の境界にいる宗教的・呪術的な人々を指していた「坂の者」という言葉が習俗化し、社会経済の枠組みに嵌まらない人々を揶揄する表現に変わっていった、ということです。

だからこそ、幕末以降に「山窩」は山間部の軽犯罪集団のように扱われ、主に官憲の用語として用いられていたと言います。
従って、明治以降に社会基盤の整備が進み法制度が確立するにつれて、これらの層が社会に溶け込んで消滅していったと考えられます。

しかし、戦後に山窩を「民族化」し、彼らを文明社会のアンチテーゼとして扱うフィクションがトレンドとなり、大衆的に広まっていったようです。
その流れを汲んだのが、先の「瀬降り物語」であり、監督の中島貞夫氏はかなりの取材をしたようですが、その内容をそのまま映画化することはできず、エンタメ色の強い作品になってしまったとのことです。

先の論文では批判されている柳田國男氏の「サンカ論」ですが、氏の論文では青森県の恐山で有名な「イタコ(イタカ)」も、かつては流浪の人々であり、非定住の呪術者として差別の対象であったとされます。

「イタカ」及び「サンカ」

イタコは主に弱視や盲目の女性などが巫女として厳しい修行を行い、まじないや霊媒の能力を身につけた職業であるとされます。
「イタコ」の語源は「イツキ(斎)」とするのではないか、という説があります。
この「イタコ・イタカ」は全国に存在したとされ、古代祭祀に携わっていた巫女に由来するのではないかと言われています。

かつて、ヤマト王権が確立する頃まで、日本には呪術的祭祀と政治を切り離す統治システムがあり、「ヒコミコ制」「ヒコヒコ制」と呼ばれています。
そして、ヤマト王権によって地方豪族のシャーマン的指導者は、王権に従属しなければ「土蜘蛛」として討伐対象となりました。

土蜘蛛の古代巫女とイタコの直接的な結びつきは不明ですが、まじない的な仕事をする女性が「坂の者」とされ、聖俗の境界に坐す存在であったのは確かだと思います。

「山窩」がいわゆる「河原者」と呼ばれた役者や芸人、死牛馬処理業者などを差別する言葉であり、不定住者の人々まで一般化するようになると、山里付近で流浪して暮らす人々が特に「山窩」とされたようです。
この「山奥に暮らす人々」は、いつの時代も存在したはずで、縄文由来の生活文化を続けてきた人たち、あるいは「マタギ」のように、狩猟を生業としてきた人々もいたはずです。

マタギは広範囲の山々を「跨ぐ」から「マタギ」とする説があるくらい、山々を熟知した人々であったはずです。
マタギの伝承にあるかはわかりませんが、「瀬降り」という表現も山から川に降りてくる様子を示しており、河川に天幕を張って野営するのは自然なことかもしれません。

このマタギに関して、面白い話があったのを思い出しました。
オカルトや怪談のジャンルに「山怪」というのがありますが、文字の如く「山の怪談」のことです。
その中に、「山の白い女」という話があります。

この話は、誰もいないはずの山奥になぜか白い服を着た女性がおり、それを見て山に入った人が混乱する、と言うあらすじです。
その場合、白い女を見た人は大抵「白いオコジョを見間違えたのだ」と諭されます。
ただ、「山奥で白い影を見る」というのは、近代から始まった話ではないように思います。

秋田県の阿仁マタギの人々には、今も修験道に繋がる宗教的な慣習が伝わっているそうです。
マタギの人々は山の神を女神と信じ、その神様は大変醜いお姿であり、ゆえに山に女性が入ると女神様の嫉妬に会うため、猟に出る時などや入山に女性を関わらせないとされます。
これには、女性を山に連れて行かない現実的な理由はあるのでしょうが、興味深いのは山神を「女神」としている点です。

日本の神道において、山の神は「大山祇命」や「猿田彦大神」や山体固有の神名である場合が多いです。
その場合ほとんどが男性神であり、山を女神とする事例は早池峰山や白山や六甲山など、数えられるほどしかありません。
そして、この「早池峰山」こそ瀬織津姫命を主祭神とする「早池峰神社」が建立されています。
この早池峰山は、一説には猟師が山頂で三柱の女神を見て、祠を建てたことに始まるそうです。

何が言いたいかというと、「山奥で見る白い女性」とは人間が山奥で神秘に触れる時、本能的に知覚してしまうビジョンなのではないか、と考えられるのです。

私は若い頃、面白半分で道のない山を登ったことがありますが、木々とシダに覆われた森の静謐さや、神秘的な空気を忘れることができません。
山や森の奥にはせせらぎがあったり、水源となる泉があったりします。
人間はそこで神秘に触れる時、清純な「女神」の姿を見るのではないでしょうか。

「雪女」という昔話がありますが、あれも冬山で遭難した猟師が白い衣の女性に助けられます。
どうも、人間が山深くに入ると霊的な覚醒状態となり、神秘的なビジョンを見てしまうように思えてなりません。
先の脊振山についても、山地は河川を「振り分ける」姿を形容しているとは言えるものの、山に入る人々がそこに女神を見たとしたら、山頂へ瀬織津姫命に比定される弁財天を祀るのも理解できる気がします。

先の「サンカ論」で取り上げた柳田國男氏は、日本に伝わる妖怪を「零落せし(落ちこぼれの)神」と呼びました。
これは日本が近代化していく中で、信仰の対象にならずに迷信化していった神々が、後に「妖怪」として扱われていったのではないか、という説です。

瀬織津姫命は、「記紀」の記述から漏れた神であり、唯一その名を文書に残すのは「中臣祓詞(大祓詞)」のみです。
瀬織津姫命が「祓戸大神」として神道上で重要な役割とされていなければ、おそらくその名が後世に残ることは難しかったのではないでしょうか。

日本の神々の系譜において、その神名を残せなかった数多の神々がいたとするなら、「瀬降りつ姫」のように素朴な由来の神様も存在したでしょう。
それこそ、自然神だけでなく九十九神と言われる道具やモノに宿る神々は、神名を後世に残せなかったからこそ、怪異として人々の記憶に刻まれてきたのかもしれません。

この「神の零落」とは、人間が崇拝する対象を社会的に規定されてきた結果のはずです。
ただ、かつてのように神秘的なものを自由に知覚し、人々が目に見えないビジョンを共有する世界が広がるなら、「神々の復活」や「妖怪の蘇生」は夢物語ではないのかもしれません。

なぜ、私がこれほど「瀬織津姫命」に心酔するのかと言えば、瀬織津姫様がこれほど神として重大な役割であるにも関わらず、正式な伝承もなく半ば都市伝説的に語られることに対し、不遇さを感じてしまうのもあるかもしれません。
その境遇にシンパシーを感じるのは、私自身がこの現代社会から弾き出され、「河原者」のような立場に置かれているからでしょう。

現代社会に生きながら根無草の「山窩」のようであり、細々と「瀬振り」のように暮らす私には、瀬織津姫命を心の拠り所とするのは必然であり、運命だったような気がします。
だから私には、瀬織津姫様が高いところにおられる絶対的な権威ではなく、どこか自分の仕える「お姫様」のような、親愛の情を抱いてしまうのだと思います。

とは言え、神様は人間の想像を遥かに超えた存在ですから、私が瀬織津姫様に惹かれていく理由も、自分が思うようなものではないのかもしれません。
私としては、敬愛すべき女神様のために何ができるか、今でも何ができているかはわかりません。

ただ、もし私が神様のお役に立てるのなら、それはとても光栄なことだと思います。

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6 件のコメント

肥の国の住人 より:
2025.11.19 06:36

初めまして、肥の国の住人と申します。
瀬織津姫の謎について、ここで私見を述べさせて頂きます。

私も瀬織が瀬降(脊振)ではないかと気づきました。
そして更に瀬織津姫の津がすぐ近くに三津という地名であるのです。
どうも筑紫平野で三で始まる地名の先頭の三には御の意味があるようなのです。
なので、意味的には御津です。
つまり瀬降+津という地名が成立します。

もっと興味深い事にこの地の南にかつて三根郡がありました。
この三根から三を除くと根という一文字
大祓詞の根の国なのではないのか?
でも現在の地図を見ると田手川は三根を通っていません。
実は、流路が意図的に変更されているのです。
三根へと通じる井柳(いやなぎ)川が古代の川の流れなのです。
柳には邪気払いの意味があるのでその点でもこの川がふさわしいと思います。

古代井柳川は有明海に直接そそいでいたようなので底の国は有明海の干潟かも知れません。

rakutaro より:
2025.11.19 11:49

肥の国の住人さん、コメントありがとうございます。
三津、三根に関する情報、とても参考になります。私は九州地方に全く土地勘のない東北民なので、地図と睨めっこしてもわからないことばかりです。

「根の国」が有明の干潟というのは、興味深い御見解です。
「井柳」という言葉で思い浮かぶのは、「いざなぎ」の転訛とも取れる部分もあり、興味深いです。

九州地方には「筑紫の阿波岐原」など禊祓いにゆかりの地が多くありますし、宮崎県には祓戸四神をお祀りする「速川神社」もあります。
そこでは瀬織津姫命が「速川」ですっ転んで亡くなられたという伝承もあり、北九州地方はどうも「祓戸・禊祓い発祥地域」のようにも感じます。

大変興味深いご指摘でしたので、今後の研究に活用させていただきたいと思います。

肥の国の住人 より:
2025.11.19 19:29

楽太郎様、早速の返信コメントありがとう御座います。
実は私、日本史が嫌いで高校は世界史を選択しました。
近畿絶対、本州中心主義が嫌で堪らなかったからです。
ですから、歴史の知識は世界史にかなり劣ります。
ただ、日本史の教科書的常識には縛られていません。
日本史に詳しい楽太郎様のアドバイスを頂けるとありがたいです。

ここで面白い話を一つ
筑紫野は月日野の言い換えではないか説です。
そうです三貴子は九州に実在していたのではということです。
筑前・筑後は月読尊が直接統治した月の国(夜之食国)
肥前は天照大神が統治した日の国と東西に並んで月日野と称していた説です。
その根拠として、天照大神が松、月読尊が竹をシンボルとしていたようなのです。
この松が転じて祀る、竹が転じて武・猛る・長けるの動詞が生まれたようなのです。
天照大神は肥国を統治したが、九州支配の実際の武力行使は弟の月読尊に任せて九州全体の統一を達成したというシナリオです。
だからこそ肥の文字に月読尊の月が有り、筑の字に月読尊のシンボルである武器の材料としても有用な竹があるのです。
そして、この月読尊の子孫こそが筑紫君(月日君)磐井だったのではないか。
この月の一族は磐井の乱後常陸の国へ移され更に北へ北へと移され、最終的には津軽が居所となった。
九州と東日本にはこんな繋がりがあるかも知れないのです。

御覧のように文章を書くのが非常に苦手ですのでプロット程度にご覧ください。

rakutaro より:
2025.11.20 07:29

肥の国の住人さん、今回もとても示唆に富むコメント、誠にありがとうございます。

「肥」に「月」が入っていること、「筑紫」が「月日」ではないかという御見解、かなり重要なご指摘であると感じました。
私の好きな「磐井の君」の話が出てしまうと、どうしても私のスイッチが入ってしまうので、少し返信が長文になること、ご容赦ください。

「筑紫」は国産みまで遡れば「九州」全般を示す「筑紫島」と言われます。
私は「肥の国」の「肥」は元々「日・火」の字が当てられていたのではないかと思っています。

というのも、北九州地方に神道発祥に関わる地域が多数確認できますが、「火の国」の由来は阿蘇黄土から生成される「ベンガラ」、いわゆる「朱」は古代から神社や祭祀で使われ、阿蘇黄土を採取できる西九州地域、厳密に言えば九州山地以西を「ヒ=緋の国」と呼んでいたのではないかと考えています。

「魏志倭人伝」の解釈では、私は畿内邪馬台国説を支持していますが、邪馬台国の「卑弥呼」とは言語学的に「姫王=日女王」のことであり、当時邪馬台国にいた日の巫女は「ヒの国」の出身か、ヒの国の一族から輩出された巫女だったのではないかと仮説を立てています。
(※追記:個人的には「伊都国」出身の巫女である可能性を考えています。)

卑弥呼の跡を継いだ「台与」とは、「豊国」の出身か豊国の豪族から出た巫女だったとすれば、当時の巫女の名は「出身国」の名を当てられていたのではないかと思います。

おそらく「日の国」は鳥居などに塗られる阿蘇黄土由来のベンガラが産出され、祭祀の伝統的権威性から、古代の中央政権ではかなり重要な地位を保っていたのではないでしょうか。
しかし、奈良盆地のヤマト王権の発展と丹生鉱山から発掘される水銀由来の「朱」の精製が渡来系技術で隆盛すると、「日の国」の権威性はむしろ中央政権から疎まれるようになったと考えられます。

「磐井の乱」も調べれば酷い話で、新羅と北九州の貿易で権勢を保っていた筑紫磐井の君が新羅の肩を持ったことへの、百済と懇ろだった大伴金村側のヤマト王権への服従化であり、磐井は新羅とは長年の友好関係だっただけに、百済から賄賂をもらって百済側優位に画策していた、王権側の大伴氏に対抗する十分な動機となりえます。

その乱の前後あたりから、「ヒの国」の「日・火」という字は意図的に「肥」に変えられ、「日」は「月」という「つぎ(ニ)」の性格を与えられたのではないかと思います。
つまり、宗教的先進国としての「日の国」を煙たがったヤマト王権によって、再征服の意図を持って進められたのが「熊襲討伐」だったのではないかと私は考えています。

「熊襲」とされる隼人族は、この説を元に考えると宗教的先進を司る氏族であり、隼人族が祀る神には「速」という神格が付与され、これが祓戸四神の「速秋津姫命」「速佐須良姫命」に見られる御神名に繋がっているのではないでしょうか。

だから筑紫、北九州が「祓戸・禊祓い発祥地域」であり、神道発祥に因む地域が多いのも、ヤマト王権から連綿と続く中央政権に対する「自己主張」の意味合いも強いのではないかと思います。
だからこそ、卜部氏と共に古代祭祀を司った中臣氏が「禊祓い祝詞」の中で、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で伊弉諾命が禊ぎ、三貴子がご誕生なされたと念を押す必要があったのかもしれません。

すみません、私は判官贔屓の性があるのでスイッチが入ってしまいました。
邪馬台国論も徐々にアップデートしているのですが、なかなかまとめて勉強する機会がなく、これからかなという分野です。

肥の国の住人 より:
2025.11.22 19:26

楽太郎様

こんばんは、肥の国の住人です。
肥の国の肥という文字についてもう一つ謎解きをしてみたいと思います。
先日は月について書きましたが、今回は巴について書いてみたいと思います。
世間一般では、巴紋の由来は謎とされていますが、私は三貴子のシンボルマークだと解釈しています。
現在は上に一つ下に二つの勾玉がデザインされていますが、これを上下逆さにすると
人の顔、右目(月読尊)左目(天照大神)鼻(素戔嗚尊)が現れます。
特に古いタイプの巴紋は尾が長く三つの渦感が強いです。
また現在の巴紋が倒立している事から現在の支配者の系譜も読み取れるように思います。
個人的には天照大神の墓所は宇佐神宮だと考えています。
理由として、古いタイプの巴紋が神社紋である事と、八幡神が女神を守護する形で祀られている事と、天岩戸伝説はある場所から台与の国への改葬と権力移譲の物語ではないかと思うからです。

rakutaro より:
2025.11.23 09:05

肥の国の住人さん、またまた興味深いコメントありがとうございます。
私も概ね同じ見解であり、よく「御」という尊称は「三」の意を持つことがあり、日本は元々「三」を聖数とすることから「三貴子」に繋がるのは最もであると考えています。

西洋では「三つ巴」という概念がなく、生成AIに「三つ巴」の絵を描かせても左右対称に描いてしまうそうです。
西洋的な思考様式は「善か悪か」「敵か味方か」という二元的なスキームを元にすることが多いですが、東洋には多元的・相互補完的な観点が根づいており、全く性質の異なる勢力が「和」という共存共栄を理想状態とする一つの現れではないかと思います。

その点で、ヤマト王権も各地の豪族を暴力的に支配した側面はありますが、実際の地元の伝承を調べてみると「話し合いで済ませられるところは穏便に済ませる」という事実もあったりします。
その場合、大抵は婚姻や縁組みによる氏族の連帯であり、むしろ武力よりもこれが「大和」の礎になったのだろうと思います。

反面、完全に民族を浄化して土地を乗っ取ることを繰り返してきた大陸的な侵略とは若干性質が異なる気がします。

「八幡神」の話が出たので一言申し添えておきますが、伊勢神宮に祀られる「撞賢木厳御魂天疎向津姫命」は、一説には「瀬織津姫命」とされます。
長野県にある筑摩神社には、宗像三女神に「狭依姫命」が祀られていますが、古来「サ」とは「稲の神」であり、また「神籬」に宿る神霊を指します。

ゆえに八幡神以外に「稲荷神」である「ウカノミタマ」も「豊受大神」も「保食の神」も、実は伊勢神宮「天照大御神」を分離祭祀した形ではないかと考えています。
だから、日本各地には全く違う形で「天照大御神」をお祀りしているのかもしれません。

あ、サイトの都合上、コメントツリーが長くなると読みづらいかもしれません(汗)
これからもコメントを是非お待ちしています。

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