神統試論【一】邪馬台国論・前編

楽太郎です。

これから数回に渡り、神名の系統を紐解くための論考を書いていきたいと思います。
前置きとして、「神統試論・序」では日本の神社の伝承の礎となった「日本書紀」「古事記」は、飛鳥時代の政治的混乱を背景に天皇家を中心として、各豪族を取りまとめるために氏族の祖神を神話に組み込む事業を行ったのではないか、という説を取り上げました。

「記紀」は「日本書紀」と「古事記」では微妙に違う内容のことも書かれていたり、私情に近い偏った表現が加えられていたり、神道的書物や歴史書としては不自然な部分もあります。
特徴的なのは、似た図式と意味合いを持った神格が何度も違う状況で登場し、それぞれに同じ解釈をしようとすると矛盾が生じる点です。
そして、記紀の記述と歴史的事実を照らし合わせると、わざと言及を避けられている部分があります。

その例として、「記紀」には東日本の記述が極端に少ないことが挙げられます。
日本最大の山岳である「富士山」に関する記述が記紀には見られず、またかつて「蝦夷」と呼ばれた東北地方に関する記述はほとんどありません。

ただ東北地方において記述が少ないのは当然で、日本書紀の成立は奈良時代の養老4年(西暦720年)ですが、朝廷が東北制定のために大野東人が多賀城を置いたのは神亀元年(724年)です。
言ってみれば、日本書紀が書かれた時点では日本列島が完全に朝廷の統制下には置かれていなかったのです。

つまり奈良時代には地方豪族の勢力が依然強く、大和朝廷はその軋轢の渦中にいたのでしょう。
そのため、政治的な思惑から単に歴史的事実と正論だけを列挙するわけには行かず、様々な配慮と緻密な計算の上に書かれた書物であると言っても過言ではありません。
ただ、これらの書物の記述には不自然な点があるにしても、事実をボカしながらも事実はきちんと記載しているように思えてなりません。

「神統試論」を書くに当たり、神社伝承の礎となったであろう「記紀」の記述は各地方氏族の祖神信仰に基づいていることに着目しました。
伊勢神宮の主祭神「天照大御神」を最高神とする国家神道は、歴史において重要な意味のあった信仰神、または日本の建国に貢献した先祖を神として祀る宗教文化に根差しているように思います。

各地方豪族の氏神が神話体系に影響していることは、建国神話に関わる古代の「国造」が史実であり、ゆえに歴史的事実が神話化していると考えます。

記紀において、天皇系図の構図は繰り返しに近い類似性があり、時代考証において矛盾することも国学の時代から議論が続けられてきました。

「欠史八代」の実在性に対する疑問視や、「神武天皇・応神天皇・崇神天皇」の同一人物説も、その一部です。

第十二代景行天皇までの十一代は、モデルとなった皇族がある程度脚色されつつ役割分担をしていると私は考えています。

つまり、原型となる実在の大王や皇族関係者がモデルとなり、共通の出来事を元にして意味づけにバリエーションを与え、その文脈が皇族の権威に豪族の血統を紐付け、正統性を再分配する機能を果たしていたのではないか、とする仮説です。

「日本書紀」において、神代記から巻九の垂仁記の間に、系統図でもはっきり読み取れる構図がいくつかあります。

多少ニュアンスは異なりますが、その類似性を大まかに列挙してみたいと思います。

【兄弟共闘】…同一の父を持つ兄弟がそれぞれに役割を持ち、二大勢力として共闘する構図。
・饒速日命と瓊瓊杵命
・海幸彦(火照命)と山幸彦(火遠理命)
・五十瓊敷命と大足彦
・大碓彦と小碓彦 など。

【姉妹同婚】…姉妹が同一男性に嫁ぐが、どちらかの姉妹が後妻になるケースが多い。
・豊玉姫命と玉依姫命
・宗像三女神(市杵島姫命と田心姫命)
・石長姫命と木之花咲耶姫命
・神大市姫命と櫛名田比売姫命 など。

【英雄的討伐】…皇族の系統にある者が地方に遠征して対抗勢力の頭目と戦う話。
・武甕槌神と建御名方命
・熊曾建と倭建命
・長脛彦と神武天皇
・八岐大蛇と素戔嗚命 など。

「記紀」において特に多重が見受けられる構図は以上の三点と思われます。
先に挙げた「欠史八代」などの古代天皇の例だけでなく、これらの図式は元は一つであり、叙述の仕方が異なるだけなのではないか、と私は考えています。
そのニュアンスの差異は各氏族の祖先の系統に割り振られ、豪族の権威を再定義する意味があったのではないでしょうか。

これらの仮説に関しては、後に詳述する機会を設けるつもりです。
このように「記紀」には日本建国にまつわる歴史と皇族の系統が暗喩的に組み込まれており、文脈をそのまま鵜呑みにすると見えてこない部分があります。
それを紐解く時、「日本書紀」以前にまとめられた国史、実際の出来事の伝承が浮かび上がってくるのではないか、と考えています。

記紀以前の日本古代史を考える上で参考になる歴史書が、3世紀末に西晋に遺された「魏志倭人伝」です。
この書物は三国時代の官僚だった陳寿が、魏に残っていた書物や倭人からの聞き取りを元にまとめられたとされています。

未だに古代日本史を巡る「邪馬台国論争」に決着がつかないのは、一重に当時の歴史資料が乏しいからです。
3世紀には日本に文書を取りまとめる術がなく、その後中国大陸の動乱もあって「空白の150年」を挟み、漢字文化の浸透は飛鳥時代を待たなくてはなりません。

「記紀」の歴史書としての信頼性を語る上で、どうしても避けて通れないのは考古学、文化人類学からの古代史へのアプローチであり、また「魏志倭人伝」の文脈的解釈です。
「邪馬台国論争」において、結論が未だにつかない理由として、あらゆる解釈をしたところで文字通りの状況は存立し得ない結果になるからです。
その議論で常に悩みの種となる記述が、以下の三つです。

南至投馬國水行二十日 (南、投馬国に至る。水行して二十日である。)
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 (南、邪馬台国に至る。女王のいる都である。水行して十日、陸路で一月である。)
自郡至女王國 萬二千餘里 (郡より女王国に至るは、一万二千余里である。)

この文脈を素直に日本列島に当てはめると、南国に邪馬台国があったことになってしまいます。
魏志倭人伝の中に「侏儒国」という国の記載があり、これはどうやら沖縄らしいことがわかっています。
ゆえに、侏儒国より南に邪馬台国があるという解釈は成り立ちません。
だからこそ、「南至」の記載を変えたり、里数の記述を変更することで北九州や畿内に邪馬台国があったという説に繋げてきたのです。

つまり魏志倭人伝は、文脈通りに読むと100%どこかに矛盾が生じます。
しかし、これまでの解釈では一つの説を成り立たせるために特定の場所を「誤り」とし、それ以外の部分は「正しい」としてきました。
そこで、「なぜその部分だけ間違えたのか」という部分は完全に憶測の域を出ず、従って水掛け論になってしまう部分でした。

私としても、どこかの部分を訂正しなくては論が成立しないと思います。
ただ通常の文法解釈で100%矛盾が生じるとしたら、全体的には80%ほど全ての記述が誤謬である可能性として考えた方がいいのではないでしょうか。

その上で、私は最も文章校正を行わずに邪馬台国を比定する方法はないかと考え、「日本列島回転説」に行きつきました。

13世紀、奈良時代に書かれた日本最古の列島地図である「日本扶桑国之図」は、日本列島が東を南にし、逆さまに書かれています。
15世紀、李朝に書かれた「混一疆理図」という朝鮮の日本地図も、東を南として書かれています。
この地図上の日本列島の形は、「地図の書き方をわざと変えたのだろう」と言われてきましたが、日本語の原型となる日琉祖語と古代琉球語の系統を鑑みると、「日の出る方角(東)を南」に、「日の沈む方角(西)を北」として捉えていたのではないか、という説から再解釈するのが、俗に言う「邪馬台国90度回転説」です。

古代琉球語において、方角の意味合いは以下となります。
北→西
・西→南
・南→東
・東→北

この説では、「南至」を「東に行く」と読み変えますが、その他の記述はほぼ文脈通りに解釈することができます。
議論の要になりがちな「南至投馬國水行二十日」は、不弥国から見て東に海路を取ることになります。
不弥国は現在の福岡市から宗像市あたりが有力とされています。

当時は帆船ではなかったため手漕ぎ船で日本海沿いを航行すれば、九州邪馬台国説ではやや冗長すぎる二十日という距離感も妥当になるはずです。
その場合、宗像の響灘から出航し、日本海沿岸を通った船が当時最大の交易都市であった「出雲」に至るには、二十日という日程は理に叶っていると言えます。
従って、この説を取れば投馬国は「出雲」ということになります。

それでは、問題の「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」はどう読み解けばいいのでしょうか。
これは投馬国を起点とし、出雲から東に十日ほどで到着する日本海沿岸の港湾都市は若狭湾に臨する「丹後」です。
弥生時代後期から北九州一帯には鉄器が出土しますが、この出土分布図は出雲、丹波、越まで鉄の流通ルートが存在したことを示しています。
海路の終着点を丹後とするなら、徒歩で一月かかるのは近畿地方のどこかになるはずです。

若狭湾を起点にして伊吹山地、鈴鹿山脈、笠置山地、紀伊山地が縦断し、瀬戸内海方面には琵琶湖のある近江盆地と京都盆地、奈良盆地が存在します。
丹後から陸路を取るなら、必然的に氷上回廊を取って河内を経由し、熊野を迂回すると一月かかる先は京都・奈良方面です。
仮に丹後から河内方面に向かい、京都盆地から近江盆地に入れば、条件次第で陸路一月はかかるかもしれません。

弥生時代、人々の交通路は確立されていたにしても、道は整備されておらず獣道に近い山道を歩いたはずです。
江戸時代には東海道も整備されたため、飛脚が一日に100キロ走破したという話もありますが、この時代の交通事情とは訳が違うでしょう。
現代人でも5キロ歩くのは疲れますが、当時の旅人が荷物を持ちながら歩くにしても、一日がかりだったかもしれません。
若狭湾港の丹後から奈良盆地に行くには、最低でも200キロほどはあるでしょうし、一日10キロ換算でも20日はかかります。

このように、「日本列島回転説」に基づくなら、近畿地方は魏志倭人伝の距離感に符合するのです。
ただ、弥生時代後期(2世紀後半)は海抜が現在よりも高かったため、大阪平野の大部分は海でしたし、琵琶湖も若狭湾と繋がる部分も多かったのではないでしょうか。
そのため、古代の地形で往来を考える必要があると思いますが、多少の誤差はあれ「水行十日陸行一月」は畿内のどこかである可能性が高まります。

では、邪馬台国が近畿地方に存在したとして、そこはどこになるのでしょうか。
魏志倭人伝には、「奴国」が二万戸とあります。
現在発見されている遺跡の規模からして、北九州に「二万戸」の集落があったとするのも規模が大きすぎるのではないか、という話があります。

北九州の弥生時代の遺跡では、福岡県に所在する遺跡は糸島市周辺に集中します。この遺跡の中に魏志倭人伝の「伊都国」と比定できる遺構があるのは間違いないと思います。
奴国の「二万戸」に比定できる遺構があるとすれば、福岡県の平原遺跡、三雲南小路遺跡、板付遺跡、野方遺跡が有力候補として挙げられます。
佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」が当時としては最大集落であったとされますが、どちらかと言えば「不弥国」に当たるかもしれません。

魏志倭人伝において、「投馬国五万戸」「邪馬台国七万戸」とされていますが、奴国が福岡平野の遺跡郡一帯を指すとしても、それ以上の規模の集落は同時代の九州には存在しないのです。

従って、考古学的事実に基づいて奴国以上の集落を同時代に求めるならば、出雲や近畿地方に比定するのは理に叶っています。
鳥取県の荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の規模から推測すると、出雲に奴国以上の集落が存在するのは理に叶うように思います。

荒神谷遺跡からは358本の銅剣が同場所から発見されていますが、武人男性一人が銅剣を一本以上所有したとしても、人口比率から鑑みても相当の武装勢力が存在したはずです。
弥生時代後期の武人が200人程度であったとしても、非武装の民間人はその数倍いた計算になります。
仮に五万戸は多目に見積もられていたとしても、当時としては相当な規模と言えます。

古代史研究家の古田武彦氏によれば、ウラジオストクから出土した黒曜石の50%が出雲地方から産出されたものと目されるそうです。
そうではなくても、ロシアの極東地方からは縄文土器が発見されたり、少なくとも縄文時代に青森県の三内丸山遺跡を経由した日本海沿岸の交易ルートは確立されていた可能性が高いようです。

ゆえに、弥生時代後期の鉄の流通ルートと合わせて考えれば、朝鮮半島から対馬、壱岐か宗像を経由して北九州に精錬された鉄が入り、日本海側を中心に鉄の交易拠点として出雲が栄えた可能性もあります。
しかし、古代史を「鉄による勢力図」で解明しようという試みに関しては、私は疑問視しています。
その理由は場を改めて述べますが、繁栄の理由が鉄ではないにしても、出雲地方が日本海交易の中心地であったことは間違いないでしょう。

では「邪馬台国七万戸」とするなら、畿内のどこに比定されるのでしょうか。
邪馬台国畿内説に基づくならば、その最有力となるのは「纏向遺跡」とされます。
しかし、纏向遺跡の規模だけではどう考えても七万戸に達する大都市にはなり得ません。

纏向遺跡のある奈良盆地は、当時盆地中央には湖があり、奈良盆地全てが都市化したとは考えられません。
大阪平野もかつては大部分が海であり、現在の河内は海岸沿いにあったと考えます。
丹後以南の盆地に複数の集落があり、その一帯を「邪馬台国」とするなら七万戸の規模に比定することも可能ですが、そう考えても良いのでしょうか?

そのヒントが、実は魏志倭人伝の中にあります。
その一文はこうです。

「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡」

この冒頭を訳すと、「女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。」とあります。
ここに列挙されている国々は、女王国の北にあると書かれています。またこの一文の締めくくりは、「ここは女王の境界尽きる所なり。」です。

日本列島回転説に基づくならば、女王国より北は「西」と言い換えます。
つまり、女王の統治が行き届く境界から西は、全て邪馬台国の権力が及ぶ範囲となります。
では境界から逆算してどんな国があるのか見てみましょう。

・斯馬国(しま=志摩(三重県))
・伊邪国(いや=伊予(愛媛県))
・不呼国(ふあ=不破(岐阜県))
・姐奴国(しぬ=信濃(長野県))
・蘇奴国(そぬ=讃岐(香川県))
・呼邑国(あお=近江(滋賀県))
・華奴蘇奴国(かのさの=加佐(丹後・京都にあった郡)
・為吾国(いご=伊賀(三重県))
・躬臣国(こし=越(福井県以北の三越地方))
・巴利国(はり=播磨(兵庫県))
・支惟国(きい=紀伊(和歌山県・三重県))
・烏奴国(うな=宇陀(奈良県))

これらは、独自に調べて比定可能だった地名です。
こうして見ると、九州に同定できる地名以外に、四国や中国、近畿から琵琶湖を挟んで東海付近に至るまでが「女王の治める地」と考えられます。
この不呼が不破関の辺りを示し、信濃までが女王の勢力範囲だとしたら畿内に最大勢力があったと考えても不思議ではありません。

不破関は岐阜県の関ヶ原町にあり、古くから鈴鹿関と共に東海道への入口とされ、以東を「関東」と呼ばれてきました。
つまり、三関を境にして西側に邪馬台国が存在したことはこれらの記述から明らかです。

それがどこかを考える時、上記の一文に「邪馬国」と「奴国」が存在している不思議さがあります。
この「邪馬国」を調べようにも、邪馬台国のことばかり出てきて埒が開きません。
では逆算して、近畿に「邪馬」に近い地名を探したところ、「山門」という小さい地名は数多くありますが、決定的なのは「大和」しかありません。
しかし、古墳時代のヤマト王権が奈良盆地南東にあったのは事実だとしても、魏志倭人伝の書かれた弥生時代後期に「大和」という地名が存在したのでしょうか。

「大和」の言葉の由来には、温和・平和な所を意味する「やわと」という説があります。
「敷(式)島」が大和の枕詞として知られており、「しきしま(磯城島)のやはと」が転訛して「やわと」となり、「大和(やまと)」という地名が残ったとされます。
ということは、「邪馬国」はそのまま「山の国(大和は山に囲まれた盆地)」という意味でも取れますが、邪馬国が「やわ=平和の国」という意味だとしたら、当時から近畿地方には「やわと=大和」が存在したことになります。

「大和」は「倭」と書いて「やまと」とも呼びますが「和」とは穏やかな協調を意味すると共に、その「平和=統治」の象徴こそ「大和」の当て字になったのかもしれません。
「やわ」という言葉は、「柔らか」と同源である可能性があり、大和は「山門(戸)」という意味ではなく、むしろ「柔処」だったのかもしれません。
それこそ、武力統治ではなく祭祀を中心とした平和的統治を行った邪馬台国の伝承に近いのではないでしょうか。

では「邪馬国」が奈良盆地に存在すると仮定して、「奴国」は北九州の奴国と同一であるのか、という問題が浮上します。
北九州の奴国に邪馬台国があるとしても、「次有奴国」は文脈として出てくるのは不自然です。すでに奴国は伊都国と不弥国に挟まれた国として登場しているので、同一国とするのもおかしい気がします。

これには現在も議論が続いていますが、ここでの「奴国」は九州にあった奴国とは同名の異なる国ではないでしょうか。
「日本書紀」において、神武東征の段において大和国を「中州」と呼称されています。
「な=中」であり、中心国としての意味合いを持った国名であった可能性があります。

では九州の奴国は何かと言えば、博多市に「那の津」と「中州」という地名があります。
那の津、那津は福岡市中心部の古い地名とされ、「奴国」に由来することはほぼ間違いないでしょう。
博多市の中州は那珂川と博多川に挟まれた中洲に築かれた都市ですが、江戸時代以前には「中島」という地名であり、「な=中」と呼ばれていた可能性があります。
博多市には「博多遺跡」が存在し、ここは日本最古級の貿易都市だった可能性があります。
ここも福岡市にあり、大和と同名の「奴国」であったのではないかと推察します。

従って「奴国」は倭国の首都であった「邪馬台国」を指し、だとしたら「邪馬国」とは別の場所に邪馬台国があることになります。
では、その邪馬台国はやはり北九州の奴国にあったのでしょうか。
結論から言えば、それも充分考えられます。
ただし、当時の邪馬台国は女王卑弥呼が一千人の従者を従える規模の都市にあり、そこは祭祀と政治を中心とした場所であると考えられ、必ずしも居住や交易を前提としなくても成立します。

漢字における「台=臺」には、「中央集権施設」を意味することもあります。
日本語で「臺」には「うてな」という当て字がつけられ、「高見の台」を意味します。
この漢字の語源を調べてみたところ、古代に祭祀を行う神聖な土地を指し、殷の紂王の「鹿臺」、楚の荘霊の「章華臺」などにもこの字が用いられています。

つまり、「邪馬台」とは「邪馬国の祭祀場」を指し、この祭祀都市から邪馬国を通じて西日本を統治していたのではないか、と考えられます。
その場合、邪馬台は邪馬国の付近にあるとするのが妥当です。

弥生時代後期の奈良盆地の中心に湖が存在したとされていますが、磯城島が盆地の中東部にあるとすれば、最大集落の纏向遺跡は南西になります。
ただ、纏向遺跡は時代的に考えると少し時代が下るため、弥生時代後期には奈良盆地の北側にある唐古・鍵遺や西側の秋津遺跡周辺が栄えていたと考えられます。

ではその頃にあった巨大な祭祀遺跡と言えば、琵琶湖沿岸の南東にある「伊勢遺跡」ではないでしょうか。
この伊勢遺跡は当時にして過去最大の祭祀跡でありながら、突如消滅したと同時期に纏向遺跡が始まります。

この「伊勢遺跡」こそが邪馬台であり、邪馬台を中心にした近江盆地・京都盆地・奈良盆地周辺にあった邪馬国を総称して七万戸の「邪馬台国」としたのではないでしょうか。
そう考えると、人口規模の面では説明がつきます。

この伊勢遺跡に卑弥呼がいたとするなら、卑弥呼が死に男王が立つが纏まらず、13歳の台与が女王となり再び統治が復活した故事も、伊勢遺跡を廃して新女王の政権樹立と同時に纏向に遷都したとも考えられます。
飛鳥時代以降、不吉なことがあるたび朝廷が遷宮した理由も、卑弥呼の死に前例があったからではないか、と仮定しても辻褄が合います。

私の結論としては、魏志倭人伝における邪馬台国は琵琶湖南東の伊勢遺跡であり、卑弥呼はそこにいて西日本を支配した、と考えられます。
しかし、考古学的に伊勢遺跡以南では鉄器系の武器がほぼ発見されておらず、戦争の跡が確認できません。

魏志倭人伝では邪馬台国は「狗奴国」と戦争をしており、伊勢遺跡が戦場の最前線基地とするなら、これ以上に割の合わない場所はないでしょう。
その点において解説するには、今回は長くなってしまいました。

次回は、地政学的に邪馬台国が伊勢遺跡にあることは可能なのか、「狗奴国」の所在も検討しながら、当時の戦争形態についても考えていこうと思います。