楽太郎です。
先日、「禍事」に関する記事を書きました。
今、日本に大量に外国人が移住している事態を眺めていることしかできず、米は値上がりを続け、その原因も特定されてるのに手の打ちようがないこと、物価は上がり不況は進むのになす術がないこと。
それは嘆いているだけでな何ともならず、さりとて犯人を探しても意味はなく、真の解決はこの状況を真っ直ぐ見つめ、そこから学び行動を起こしていくことにこそあると思います。
禍事とは、本来の仕組みが「曲がる」から起こることです。
真っ直ぐだったものが曲がるのは、曲がるのを悪が助けるから起こり、ただ悪がやらなくても自然に曲がってしまうものだと思います。
悪はその気づきを与える役目を担っているだけであり、実は悪そのものはこの世に必要な働きなのです。
人間は生きていれば生き物を殺し糧を得て、誰かに多少迷惑もかけながら生きています。
その過程で「罪穢れ」は自然と負うものであり、それを拒否して生きることはできません。
どの道人間は、汚れなくては生きていけないものだからです。
だからこそ、私たちは生きているだけで物事を自然に曲げていってしまいます。
自分が真っ直ぐだと思うことも、曲がっていることを気づかせるには外からの注意が必要で、その役目を「悪」と呼びます。
ずっと真っ直ぐであり続けることが不可能である以上、私たち自身の中にも悪が潜み、その悪によってこの世界の歪みに気づくのです。
それこそが一つになって善悪であり、どちらか一方では成立せず、その全てを一つとして認識するからこそ善のあり方も悪のあり方も理解できるのではないでしょうか。
そして、起こる禍事から罪穢れを祓い清める、その浄化は善悪すら洗い流し、本来の純粋なあるべき姿に戻していくことが重要なのだと思います。
その作業を助けてくださるのが神様であり、神様と共に世の中を祓い清めていくことが「神道」です。
今、日本人に必要なのは政党政治に首を突っ込むことでも悪人を探し出して叩き潰すことでもなく、神様の声に耳を傾けることなのではないでしょうか。
「今の日本はおかしい」と、誰もが感じます。
しかし、本当に日本がおかしくなったのは最近でしょうか?
コロナの流行が、と言いますがそれ以前は正常だったのでしょうか?
私たちが知らずのうちにやっていた習慣や、信じてやっていた行動が積み重なって今の現状を作り出しているとしたら?
よく考えてみたいと思います。
今の日本が外国人頼りになったのは、日本人が少子化によって経済が縮小していったからです。
なぜ少子化になったかと言えば、バブル崩壊の皺寄せが現在の中年以下の世代に集中したからです。
戦後、団塊の世代が作り上げた経済至上主義は、この国に物質的な豊かさをもたらした一方、肥大した金融市場のマネーゲームによってバブル崩壊を引き起こしました。
日本がそうして拝金主義の国家となったのは、第二次世界大戦によって国全体が焦土となり、復興するためには「モノづくり」を始めなければならなかったからです。
そして経済成長によって日本は豊かさを取り戻す一方、実態の伴わない金融市場を肥大化させてしまったのです。
日本全土を焼き尽くした第二次世界大戦が起きたのは、世界恐慌や政府内の派閥争いに端を発する社会不安からです。
昭和ならず明治時代から日本があらゆる対外戦争に突入したのは、国家の拡張政策と西欧列強に対する挑戦がありました。
なぜ日本が西欧化し始めたかを思い起こせば、諸外国の脅威があったのも事実ですが、江戸幕府が財政と政治で腐敗しきっていたからこそ時代を変える必要があったのです。
その江戸幕府はたびたび政策や経済の不完全さで飢饉や社会不安を引き起こしながらも約300年間、国家の安寧をもたらしました。
その江戸幕府が誕生したのは、長らく戦乱の時代が続いたからです。
日本に戦国時代が訪れたのは、天皇と幕府を中心とした政治的闘争、そして各国大名の縄張り争いです。
なぜそういった戦乱が起きたかと言えば、国土には農地があり、そこに暮らす農民が働くことで税を国に納め、税が国の力となったからです。
富の所有が権力に変換されると、その力を奪うことが富の拡大に繋がります。
領地の拡大は富の拡大であり、力の拡大を意味します。
田畑の耕作は、日本人の生命を長い間繋いできました。しかし農地の所有は富と比例し、その収穫量が権力となっていきました。
古代に各地方を支配した豪族は、その権力で人々をまとめ守る一方、領地を巡ってたびたび各地に争いを引き起こしました。
その元となった田畑は、日本人がこの国土で安定した暮らしをするために、定住し耕作を続けることで豊かさをもたらしてきました。
日本人の祖先がこの国土で稲作を始めたのは、縄文時代から続く自然に翻弄される生き方ではなく、安定して暮らせる環境に変わっていったからです。
こうして「政治」と日本人のあり方を辿っていけば、「富と所有」が全ての争いの根本にあることに気づきます。
しかし、その富も人々が風見鶏のように自然に翻弄される生活を改め、定住し生活環境を整えていく過程で蓄積されたものであり、富があるから不安定な時代も生きていくことができました。
その中で権力者は、各地方や集落を取りまとめ、治安を司り対外交渉を担う責任者でもあり、社会にとっては必要な存在です。
領地の拡大を志すのも一概に権力欲や富への執着とも言い切れず、暴君なだけでは成立しなかったはずです。
この一連の流れを見て、はっきり「どこが悪かった」と言えるでしょうか?
確かに、明治維新から日本人が西欧的価値観に染まり始め、徐々に日本人らしさを失っていったのもあるでしょう。
しかし外国勢力の脅威があったのも事実であり、弱体化した幕府に日本は守れなかったであろうことも事実です。
それでは、弥生時代に日本人の祖先が稲作を始めなければ良かったのかと言うと、日本人が定住することで繁栄の礎とし、縄文時代のように自然に左右される時代では子孫も繁栄しなかったでしょう。
ただ不安定な生活であったとしても、縄文時代が1万6000年は続いたのも事実です。
稲作が始まって3000年足らずの日本で、ここまで争いや混乱が絶えない歴史が続いてきました。
しかし、その何倍もの悠久の時を「縄文時代」は刻んできたのです。
私たちは、何か大事なものを見落としてはいないでしょうか?
青森県の三内丸山遺跡からは、新潟県の糸魚川から採取された翡翠が出土しています。
他にも土器や装飾品は、中国の遼河文明の影響も見られるそうです。
ロシアのウラジオストクからは、出雲産の黒曜石が発掘されており、縄文時代には日本海沿岸が全て交易路だった可能性が高いのです。
その時代に通貨はおろか、文字も存在しなかったでしょう。
ではどうやってこれだけの流通が可能であったかと言うと、お互いに等価交換を行ってきたからです。
つまり、物々交換をする取引が行われ、そのレートは互いの必要度合いに応じて決まったでしょう。
その交換をより客観的に、公平なルールにするために持ち込んだ概念が「通貨」でした。
通貨、即ちお金はそれ自体は手段に過ぎず、主体は等価交換であって、要は欲しいものが手に入れば通貨は必要なプロセスではなかったはずです。
しかしいつしか「お金」という仕組みが一人歩きして、「富」と結びつくことで「力」となり、人々が資本や富裕層の権力によって使役されるようになりました。
私たちが本当に顧みなければならないのは、「お金」という手段に過ぎないものを目的化し、そのために自身の幸福や国家の安寧を犠牲にしてきたことではないでしょうか?
だからこそ、「犯人探し」なんてのは意味がないのです。
陰謀論的に、特定の少数集団が国家を裏で操り、金融と政治と戦争を牛耳って今の世界を作り出したことが事実だとしても、それを打倒するのが完全な解決ではないはずです。
少なくとも、「お金」というプロセスに人生の選択を委ねない、という決断は自分自身でできることです。
その主体性において、巨大権力に支配された「お金」もまた手段にしか過ぎないのです。
人間が「資本」に執着し始めたのも、近い将来に備えての「蓄え」が即ち「富」となり、その豊かさを持った人は安寧を得て幸福を得られたからです。
蓄えも富も、人間が「所有」を志すのは、生きる上で本質的な権利であり、誰も咎めることができないものです。
しかし、過剰に信仰される「資本」の背後には、あらゆる欲望を実現する「お金」の万能さに心奪われた人々が、その機能のために全てを目的化した結果、世界を「お金」と「暴力」の世界にしてしまったのです。
ただお金はやはり手段に過ぎず、目的があれば手段は選ぶことができるものです。
これまでの社会に起こった問題は、「お金」という概念を巡って引き起こされた問題であり、その認識が正しくなかったことにあります。
つまり、全ては私たち一人ひとりの思想であり価値観であり、生き方の問題だったのです。
それを無視して、世に原因を探して諸悪の根源を見つけ、叩き潰そうとしたところで何も変わらなかったのは当然と言えるのではないでしょうか。
私たちが今、安寧を取り戻し、この国に本来の「日本」を取り戻すには、まず行動よりも先に「お金」以外に目的を定め、自分の生き方を変えていくことなのだと思います。
人間は、世の中や環境が変われば自分も変われると錯覚しがちです。
しかし、自分が変わろうとしなければ環境や時代の変化は煩わしいだけであり、自分の意志が伴わなければ変化も受け入れられません。
ゆえに、私たちがまず最初に見直さなければならないのは「自分自身」です。
まずそこから始めなければ、何も変えることはできないでしょう。
日本を良くする前に自分が変わるところから始めなければ、日本を良くすることはできません。