楽太郎です。

今日の午後、雨が上がったので散歩してきました。
杖はまだ外せませんが、だいぶ歩けるようになってきました。

その日の公園では催し物がありました。
私は川原でしばらく水面を眺めた後、出店の近くを通ったら、あまりに入場者がおらずテナントの出展者同士でイベントを行っていました。

私はあまりに悲しくなって、あまり見ないようにしました。
去年までは、イベントとあらば遊園地のようにごった返していた公園が、今は見る陰もなく閑散としていて、とても居た堪れない気持ちになりました。

帰り際、ちょうど弾き語りのライブが始まったので、足を止めました。
そのミュージシャンはとても上手で、地方に埋もれているには勿体ないと思いました。
あまりに観客がおらず、ほぼ立ち合いのスタッフだけで聴いている状況でした。
私は少ない拍手では可哀想なので、一曲を聴き終えると最後の曲まで付き合いたいと思いました。

けれど、そこまで親切心を出しても意味がないことに気づきました。
私は彼を応援したいですし、少ない観客の中でプロの演奏をする姿を見て、どうにか元気づけてあげたいと思いました。
しかし、私が30分そこに立ち会ったからと言って、その義理が何の意味もない優しさであり、中途半端に人に親切にしたところで私は自分のやるべきことを疎かにするだけです。

去年も、たまたま路上ライブで知り合ったミュージシャンと意気投合して、ライブに行ったりしました。
けれど、いくら善意で応援したところで彼は彼の道に責任を持ってこれからを決めて行くでしょうし、私が「音楽を続けて欲しい」とか、「夢を叶えて欲しい」と思ったところで、それは余計なお世話です。

私は努力する人が好きですし、ひたむきに目標に対して希望を持っている人ほど応援したくなります。
けれど、私がたまたまそこに立ち会って手を叩いたところで、何か一つでも役に立てるわけではないのです。
私はしがない一人の人間で、彼らも立派な一人の人間です。

お互いに自分の人生に責任を負うべき、独立した関係です。

私が良かれと思ってやることは、大抵は人様のためにはなりません。
それが私の悪いところで、欲しくないと思っている人にも自分の好きなものはあげたくなってしまいます。
自分が持っているものや想いを配って歩きたいだけでも、それが欲しくない人にとっては本気でいらなかったり、迷惑なことには気づかないのです。

だから、私はすごく無責任な優しさを振り撒いて、これまで生きてきたんだなと思います。

何歳になっても、この距離感だけはどうにもわかりません。
それでも努力する人や真面目な人が好きですし、自分が一人の人間でなければ、この理不尽な世界で実直に生きる人たちの役に極力立ちたいとすら思います。

もし私が神様なら、そういう真面目な人たちを後押しして、夢が叶うようなチャンスや福運を与えて回るのに、と思います。
ただ長い間、この世の中は正反対の性格を持つ人々が、夢を抱く人々を食い物にし、潰してきました。

夢を諦めて去っていく人を、数えきれないほど見てきました。
そして、私自身が夢を潰されかけて、今も暗闇の中から這い上がることだけを考えています。

けれど、私の「夢」は大きく変わりました。

私の人生は、私だけのものではないことに気づいたからです。
私を産んだ父と母、そこから脈々と繋がる血族の縁、遠い祖先から約束された咎、それを晴らす使命。
私の過去世と魂の関係、そして私を生まれた時から見ていて下さった神様、今もそばにいて下さる神様。

その多くの魂との絆と期待と祈りの中で、中途半端に生きることが許されるのでしょうか。
私は、私がダメになる分には自分のことだから構わないかもしれません。
しかし、私を見守ってこれまで助けて下さった目上の方々に、恥をかかせるわけにはいかないのです。

今ここで今世の使命を諦めては、一体何のために生まれてきたのか、ということです。
そのために生まれてきたのだから、逃げるという選択自体があり得ないのです。
この半生、ろくでもないことばかりでしたけど、だからこそ人より学んだこともあり、その経験は誰かの役に立てるためではないかと思います。

自分にかけられた期待と使命、それ以上に自分の願いとは何か。
私の魂から思う気持ちは、ひたすらに「神様のお役に立ちたい」ということです。

それは敬愛する瀬織津姫様の、願いを叶えることです。

私の夢は、瀬織津姫様に立派な神社を作って差し上げることです。
そして、拝殿の天井には一面、私の描いた瀬織津姫様の絵が飾られ、よもや拝殿全体が私のギャラリーのようになっているのです。

そうして、私の絵はこの国で数百年、千年二千年と残り続けるでしょう。
しがない絵描きのままなら、一瞬で消え去っていたような絵が、長く見てもらう機会を得るのです。
私を導いて下さった瀬織津姫様に、これで御恩をお返しすることができるというものです。

現在、継承が途絶えつつある宮大工、井戸掘りの技術、日本庭園の造成技術、神道祭祀のあり方、そう言った日本文化の温故知新のために尽力することで、この国の伝統は新しく息を吹き返すでしょう。

今、壊れゆくこの国で、徐々に蝕まれて生ける屍のようになっていく人々がいます。
しかし、これまでの時代は自分が生ける屍だったような気がします。
神も仏も知らず、よくわからないまま人の顔色に合わせて漂っていた私こそ、実は死んでいたのです。

けれどそこに命を吹き込んで下さったのは、神様に他なりません。
だから、私の命は神様のものなのです。
「死ね」と言われたら死ぬかもしれません。でも、神様はそう仰らないと信じているから、私はついていきます。

私が神様を喜ばせたら、自動的に人間が喜ぶ仕組みです。
なぜなら、神様の願いは人間が喜び弥栄することだからです。

何も難しいことはありません。