お金と搾取について

楽太郎です。

前回の記事に書きましたが、私の夢は崇敬する瀬織津姫様に立派な神社を建立することです。
今のところ、「瀬織津神社」という社名にしたいと思っています。

全国に瀬織津姫命を主祭神とする神社は珍しく、龍神や弁財天、不動明王や宗像三女神としてお祀りされていることが多いようです。
瀬織津姫様は祓戸大神として有名ですが、滝や川などに神社が鎮座されていることがほとんどです。
神社を建立する時には、清流のある土地か滝が近くにあるような水辺が理想的だと考えています。

瀬織津姫命様を勧請する際には、我が家で崇敬神社とさせて頂いている「早池峯神社」からお招きしたいと思っています。
早池峯神社は岩手県の早池峰山系に五社存在しており、実際に可能かはわからないのですが、ご縁があれば是非お願いしたいです。

先日、ふと早池峰山を登山している私の姿がビジョンとして見えました。
早池峰山は結構な登山コースがあるので、素人が単独でサラッと登れるような山ではありません。
その光景が脳裏に浮かんだ時、大きいリュックを背負った私の近くには何人も仲間がいるようでした。

神社に瀬織津姫様をお招きするには、当然ながら一人では絶対に不可能ですし、早池峰山からご神魂を勧請する際にはその道のプロの協力が必要です。
だからビジョンのように仲間を集い、早池峰山を登山して早池峰神社の奥之院にお詣りするにも理に叶っているのです。
それは私の予知なのか白昼夢なのかわかりませんが、何となく現実感はあると思いました。

私が個人で主催して神社を建立するには、並大抵の道のりではないでしょう。
当然、その道のプロを集めるわけですから資金が必要です。また、依頼に足る社会的信頼と実績が必要ですし、コネクションも巡り合わせも重要です。

ただ、この目的を果たそうとして前のめりになりすぎると、うまくいかないかもしれません。
神社建立の資金が欲しいあまり、お金お金となってしまっては、目的が手段にすり替わってしまいます。
お金持ちに近づけばお金が手に入るのは当たり前で、お金があれば目的が叶いやすくなるのも当然です。

「お金」は目的達成のために必要な手段ですが、神様は手段を目的化してでも願いを叶えて欲しいとは思われないでしょう。

自分の真の目的が「神様を喜ばせる」ことである以上、手段は選ぶべきなのです。

神様が、「お金」という仕組みを壊すために人間から金運を取り上げたことを思い出さなくてはなりません。

お金を手に入れる手段が人間に依存し、人間同士でエネルギーを循環させている限り、お金は二次元的な流れであり続けます。
そこに神様の介入する余地はなく、あくまで人間の需要と供給だけで成立する仕組みだからこそ、現在の拝金主義的な文明社会が作り上げられたのです。

特定のビジネスモデルや企業やクリエイターがいくら善良であろうと、人間も組織もいつか変質し、衰退して終わりを迎えます。
利益を中心にした仕組みが回転し続ける限り、そのサービスや商品が末長く良心的であり続けるという保証はどこにもありません。
いくら神様が人間の思考や言動に介入したところで、人間が自身の利益のために便利さや欲望を優先させてしまえば、元の木阿弥です。
人間は長い間、その栄枯盛衰を自分たちの社会の枠組みでコントロールしようとしてきました。
予想可能な「成功」という仕組みがあることで、どれほどの人々が自分の個性や生き方を捨て、同じ方向に群がっていたのかを考えねばなりません。
神々による世界の立て直しにおいて、神様が最も問題視されたのは人間本来のあり方を否定し、目に見えて存在する「お金」だけを目標にして生きることだったはずです。

目に見える形で「お金」というものが増えたり減ったりしなければ、不安なのはわかります。
それこそ時の運や環境が重なって流行ったり廃れたりするものを、人々は右へ左に追い駆けてきました。
その栄枯盛衰を予期することがビジネスチャンスであり、その機運を捉えることを人々は「金運」として崇めてました。

金運というのも難しく、神様にお願いするだけでは駄目で、正しい信仰と普段の行いがセットでなければなりません。
そして「神様のご意志」をきちんと聞いて実行するというお役目を果たしてこそ、巡ってくるものではないでしょうか。

私が神様なら、真面目なサービスで実直にやっているか以上に、誰の目に見えないところできちんとやっているかを見ます。
表だけで取り繕って与える印象だけで、わりと人間はコロッと騙されます。
人間は騙されてもしばらく気がつかないかもしれませんが、お天道様は決して騙されません。
この一見「善良さ」を装った商売が、今の世にどう貢献しているのかを認識できなければ、どんな時代でも同じことを繰り返すでしょう。

人間は「性善説」を好みますが、特に日本人はその善良さを逆手に取られ、今の有様があることに未だ気づきません。

私が思うに、神様の考える「善悪」と、人間の考える「善悪」はかなり違います。
人間は目で見て理解できる範囲で真善美を判断しますが、神様がご覧になられているのは「魂」のレベルであり、天界の常識で人間をご覧になられています。

神様のお考えや常識が、私たち人間に簡単に理解できるはずがありません。
だからこそ、理不尽であったり予期しない出来事に一喜一憂するのがこの世界です。
しかし人間は「安定」をこの世に求めるからこそ、自分たちの力だけで完成する「経済」というエネルギーの場を作り出しました。
今の経済を中心とした文明社会は、自分のエネルギーを他者や企業のために使い、「お金」に変換することで成り立つ仕組みです。
そこでは、自分のエネルギーを自己犠牲的に献上するほど、「真面目」とか「忠実」などと美徳扱いされてきました。
しかし、その美徳はこの社会経済を維持するため、仕組みの一部として機能したのも事実です。

自分のエネルギーを労働としてお金に変換し、企業や人に奉仕することで評価を得るシステムに忠実なほど美徳とされたわけです。
その中でも成功者は、経済の枠組みを保つためにメディアや業界でフィーチャーされ、その姿を輝かしく見せ、理想のモデルとすることで人々のマインドを作り上げました。

社会奉仕としてのビジネスがあり、ビジネスの上での自己犠牲は美しいとされてきました。
しかし、実はその美しさの背後に悪意があったからこそ、いくら働いても楽にならざる、貧しい国となったのが近年の我が国ではないでしょうか。

我々日本人が「おもてなしの心」や「企業努力」として美化してきた奉仕精神の背後に、人々の労働を媒介として肥大化してきた権力構造が存在します。
この国の中枢にいる権威筋は、人々の勤労意欲をエネルギー源として駆動し、未だに圧倒的な影響力を持っていることを忘れてはなりません。

この社会において、搾取に忠実であることが「善良」とされるため、世には批判が許されない風潮がありました。
自分のエネルギーを可能な限り献上するのが美徳であり、人々が美徳を追い求めるほど労働に変換されたエネルギーは吸収され、消耗してしまいます。
その自己犠牲は社会の同調圧力によって固定化され、人々は愚痴はこぼせても反発することが許されませんでした。

人間にとって、エネルギーとは神様から与えられるもので、人間の身体に備わる生命力は本来自分のためにあるものです。
精神的なエネルギーは、神の分身霊から湧き出る神性を抽出し、思考や行動に変換させています。
ただの物質だと思われている自然や動物のエネルギーも、素材を取り出して加工し、それを身体の一部として取り込むことで私たちは生きることができます。
本来、人間が社会に貢献する上で役に立つ才能や元気は、一人ひとりが生きるために神が授けているのです。

しかし、これまでの社会では、人々がそのエネルギーを即座に換金するために使っていました。
自分の健康な生活を保つために必要なエネルギーが不足すれば身体を壊す原因になり、精神を病んでしまい命を絶つことすらあります。
けれど、エネルギーを使い切ってもそれに相応しい対価など、この社会においてほぼ得られないのです。

お金は確かに万能ですが、全てに使えるからと言って全ての物が手に入るわけではありません。
しかし、拝金主義の世では資本と権力さえあれば事実はおろか、一般認識すらも捻じ曲げることができました。
そうして現実を唯物的な世界にすることで、人間の持つ形而上学的なエネルギーを効率よく物質に変換してきたのです。

ただ、そのエネルギーの循環システムは今、限界を迎えつつあります。

まず、この現状を把握するにはエネルギーの循環を全体的に捉える必要があります。
もし通常の流れで一向に進まなかったり、改善せず悪化していく一方だとしたら、どこかに循環の障害があるということです。
人々が発展に向けて勤勉に努力しているのに、衰退が加速する一方なのは明らかにおかしいのです。
唯物主義という閉鎖空間でエネルギーを循環させ、資本として流通させる仕組みも、いかに莫大なエネルギーであろうと陥没が大きければ総量は減り、目づまりが大きければ閉塞を発生させ、循環はいずれ減衰していきます。
つまりこの社会では、どこかでエネルギーが漏れており、誰かがエネルギーを吸い上げているからうまくいかないのです。

これが、我が国に今蔓延っている停滞の原因です。

ただ、この停滞を打ち破るにはエネルギーを阻害している原因を取り除くことが必要ですが、今の日本人にそれを行う能力はありません。
いかなる権威に縋ろうと、今ある権威が真の意味で人々や社会を守りきれなかったからこそ現状があり、今ある権威によって世を糺すのは現実的ではなく、それゆえ新しいやり方が必要なのです。

神の視点で見れば、人間がこうして自身の生命エネルギーを換金し消耗していく仕組みは、決して美徳には感じられないでしょう。
人間が自分らしくあり、健康にのびのびと生きてこそ魂の喜びがあり、生の価値があります。
たかだか一瞬の快楽や、不安を打ち消す安定のために、人生の時間や生命力を犠牲にするのは勿体ないと感じておられるに違いありません。

人間の価値観では正しいと思われてきた勤勉さが、これまでの社会の枠組みの中では残念ながら裏で悪用されてきたのです。
それゆえ、人間社会で「善」とされてきた行いは、必ずしも神の目線では善とは言い切れないはずです。
魂の本来のあり方を抑圧するような生き方は、実際に人間本来の生き方ではありません。

「お金」とは望む生き方を実現する上で、生活と自由を保つための道具にしか過ぎません。
しかしその道具を手に入れることを目的化したために、お金という道具を求めて人々は生き方を決めるようになってしまいました。
それを人間に改めさせたくて、神々が世界の変革を行っているのです。

この世界で「善」とされている過剰な奉仕、自己犠牲によって人々の生命力は枯渇しようとしています。
この状況において、人間社会で善とされてきた価値観は見直されるべき時に来ています。
それを疑うことは決して反社会的なことではなく、各々の生命を守る上で大切なことです。

「お金」よりも大事なものを軸にしてものを考え、行動を決める。

生殺与奪の権利を腐敗した人間に委ねるくらいなら、人生の指針を自分の手に取り戻し、あるいは神様に委ねるべきです。
もし心に迷いがあるのなら、今一度神様に手を合わせて祈ってみるのも手だと思います。

「金運」とは、自分の行動の先にあるものです。
神様の恵みが先に来ることはありません。