楽太郎です。
現在、「神統試論」シリーズの続きに取り掛かっていますが、あまりに情報が膨れ上がり、どう纏めていくか思案中です。
次から次へと新しい発見があるので、頭の中を整理するのも難しい状況です。
この試論の中でキーパーソンとなるのが、「玉依姫命」です。
玉依姫命は、天孫族の一胤たる鸕鶿草葺不合命の妃であり、神武天皇の母となります。
しかし、肝心の鸕鶿草葺不合命に関する情報が不明瞭というか、そもそも御神名からして何となく正体を伏せられている印象がします。
玉依姫命にも「鴨玉依姫命」「櫛玉依姫命」「活玉依姫命」など、様々な系統からの御神名があり、おそらくそれぞれの氏族によって解釈が変わるからだと思います。
その流れで、「鸕鶿草葺不合命」もミステリアスな神格であり、「記紀」はその点をはぐらかす書き方をあえてしているようにしか思えてなりません。
「記紀」はこのように、事実をわざと隠すのですが、なぜか完全になかったというような書き方はしません。
何となく、「読み解いてみよ」と問いかけられているような、そんな知恵比べをしている感覚になって来ます。
記紀が間怠っこしいのは、同じ系統の話が手を変え品を変え何度も繰り返し登場することです。
この既視感のせいで、時代も流れも言葉も混同してよく分からなくなることもしばしばです。
今回は、そんな作業を進めるに当たって、とりあえず情報がまとまったところから出して、「神統試論」の叩き台にして行こうと思います。
その中でも、わりと謎の多い道開きの神、「猿田彦大神」に関しての記事になります。
猿田彦大神は、「記紀」の天孫降臨の段において、天照大御神と高皇産霊神の命を受け、天降る瓊瓊杵命を葦原中津国に道案内をした国津神であるとされます。
その際に、天照大御神の配神である天細女命に故郷の志摩(伊勢)まで同伴し、送り届けてもらいました。
この時、天細女命は志摩国の魚たちに瓊瓊杵命に仕えるかと問い質し、海鼠だけは聞かなかった、という説話が続きます。
その後、故郷の志摩に帰った猿田彦大神は比良不貝に手を噛まれて亡くなります。
この様子から、天細女命は猿田彦大神と共に志摩で余生を過ごしたと考えられます。
奇しくも、「記紀」には類似した説話が登場します。
神武東征の折に高皇産霊神の命を受け、天照大御神の配神たる八咫烏は奈良県の橿原まで神武天皇を案内します。
この時、八咫烏は熊野にいたとされ、大和まで導いたことから紀伊半島南部に縁があったのではないでしょうか。
八咫烏は足が3本のカラスであり、導きをする神の遣いと言われています。
熊野信仰においては素戔嗚命に仕える神使であるとされるため、紀伊半島の地理に詳しいのは理に叶っています。
なお、八咫烏は賀茂神とされ賀茂建角身命と同一しされます。
賀茂建角身命は別名を天日鷲神、神武天皇が地方豪族の長脛彦と争った際、金鵄が加勢に加わったとされますが、天日鷲神のまたの名を天加奈止美命(あめのかなとみ)と言い、金鵄の正体ではないかと言われています。
実は、天孫降臨の際に瓊瓊杵命に道案内をしたのは猿田彦大神だけではありません。
鹿児島県の笠狭崎に瓊瓊杵命が到着した際、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)が自分の国を天孫に譲り渡しています。
実際、宮崎県の西都原古墳群という遺跡の近くに、「事勝国勝長狭神の墓」とされる史跡が存在します。
西都原古墳群の男狭穂塚と女狭穂塚は、通説では瓊瓊杵命と妃の木花咲耶姫命の陵墓参考地となっています。
瓊瓊杵命と木花咲耶姫命がお住まいになられた笠狭宮は、鹿児島県南さつま市に複数存在します。
瓊瓊杵命が住まわれた笠狭宮には前笠狭宮と後笠狭宮があります。
前笠狭宮には舞敷野地区、宮之山遺跡に磐座と石趾が残ります。
加世田にある後笠狭宮には瓊瓊杵命と木花咲耶姫命、その三皇子(火照命、火須勢理命、火遠理命)を祭神とする竹谷神社があり、当社は笠狭穂の跡地に建てられたと言います。
海幸彦山幸彦の神話において、山幸彦(火遠理命)は海幸彦(火照命)の釣り針を失くし、あらゆる手を使ってもダメだったのですが、嘆きながら浜辺に佇んでいると海から塩土翁が現れ、海神の宮へ案内をしました。
一説では瓊瓊杵命と木花咲耶姫命の仲を取り持った事勝国勝長狭神は別名を「塩土翁神」と呼ぶとされます。
塩土翁に連れられて海神の宮に行った火遠理命は瓊瓊杵命の御子ですから、世代は一致しませんが説話としては類似します。
興味深いのは、私の地元に近い宮城県の塩竈神社には、当社の主祭神が不明瞭のため解明を命じた伊達藩主の伊達綱村によると、「塩釜六所明神」として猿田彦大神、事勝国勝長狭神、塩土翁神、岐神、興玉命、太田命の6座は同一神であるとしたことです。
これはかなりセンセーショナルですが、これらの神々の事績がほぼ似通っていることから察するに、理に叶っていると言えます。
この事勝国勝長狭神には、よく似た名前の神格が存在し、名を「正勝吾勝々速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)」と言います。
天忍穂耳命は、天照大御神と素戔嗚命の誓約によって誕生した神であり、瓊瓊杵命の父に当たります。
天照大御神が当初は天忍穂耳命に天孫降臨を申しつけたものの、準備中に子供が産まれたのでその子に行かせる、という経緯で瓊瓊杵命が天降ることになりました。
冷静に考えて、この話では産まれたばかりの子に天孫降臨をさせたことになりますが、そもそも天忍穂耳命は天照大御神が身につけた珠からお産まれになられたので、言うのも野暮かもしれません。
事勝国勝長狭神と天忍穂耳命が同一神であるとするなら、瓊瓊杵命に吾田の地を譲った事勝国勝長狭神は瓊瓊杵命の父となりますが、必ずしも実父を指すのではないかもしれません。
瓊瓊杵命の妃である木花咲耶姫命は、別名を「神阿多津姫命」と言います。
父を大山津見神とし、姉に石長姫命がおられます。
瓊瓊杵命は天降った先の笠沙の岬で神阿多津神命を見初め、それを大山津見神は喜び姉の石長姫命もついでに嫁がせようとしますが、姉だけは送り返されてしまうという悲劇に繋がります。
こうして考えると、「事勝国勝長狭神=大山津見神」であり、瓊瓊杵命は娘の神阿多津姫命(木花咲耶姫命)に婿入りした、或いは婚姻関係を結んだことで政略的に領地を手に入れた、と考えた方が自然です。
笠狭宮の史跡が残る地はかつて「阿多郡」と呼ばれ、薩摩隼人の住まう土地であったとされます。
奇しくも神武天皇の妃には「阿比良姫命」がおり、海幸彦である火照命は阿多氏の祖神と言われています。
この「阿多」と言う地名は、八咫烏の「ヤタ」、八咫の鏡のような光る目を持つ猿田彦大神を連想するのですが、如何でしょうか。
とは言え、ここに猿田彦大神のルーツを垣間見ることは出来ても、オリジナルであると言い切るには時期尚早です。
猿田彦大神には、別名を「佐田彦神」と言い、稲荷三神の一柱として宇迦之御魂の配神であるとされます。
「佐田」とは、「早苗」や「早乙女」と同意の「神聖な稲田=サ」を接頭語とする言葉で、伏見稲荷では実際に猿田彦大神がお祀りされています。
つまり、猿田彦大神は導きの神でありながら稲荷神でもあり、「吾田=阿多」の地を領していた事勝国勝長狭神と同じく、稲田と関わりの深い神格だったのです。
さらに興味深いのは、「サ」という接頭語が、「猿」や「狭」や「沙」「佐」などの上代特殊仮名遣いに変換されると、関連づけられる神格がいくつも見られます。
「清之湯山主三名狭漏彦八嶋命(すがのゆやまぬしみなさるひこやしまのみこと)とは、「八島士奴美神(やしまじぬみかみ)」とも言い、宇迦之御神の異母兄弟であり、素戔嗚命と櫛名田姫命の御子であるとされます。
八島士奴美神とは別名を「大己貴命」とし、神名を読み解くと「八州(日本列島)を総べる主の霊」となります。
そして、大己貴命は別名を「大国主」と言います。
大国主は父を素戔嗚命、母を櫛名田姫命に持ちます。
そして、妃は宗像三女神である市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命とされます。
三姉妹が同時に嫁入りするのも不自然ですし、三女神の他にも妃がたくさんいるので、少なくとも宗像三女神は同一神、もしくはニ柱だと考えて間違いないのではないでしょうか。
大国主が猿田彦大神であるとすれば、猿田彦大神の妃と思しき天細女命はどう考えるべきかと言うと、江戸時代の国学者、平田篤胤によると天細女命は伏見稲荷に祀られる「大宮能売命」に比定されるそうです。
大宮能売命とは、天照大御神の侍女であり太玉命の娘で、女官や巫女の神格であると言います。
伏見稲荷では宇迦之御魂の配神として猿田彦大神と共に祀られ、そこに天細女命ではなく大宮能売命が鎮座されています。
天細女命は、現代では芸能を司る女神とされていますが、古くは巫女の「猿楽」が芸能の始祖とされるため、宮中祭祀に関わりのある神格と思われます。
大国主の妃である宗像三女神の市杵島姫命の「市杵」とは語源的に「斎・厳(いつき)」であり、宗像三女神を主祭神とする「厳島神社」とは巫女の祭祀を象徴する神格として遠くはない気がします。
ゆえに、宗像三女神が巫女の神格であるとするなら、その夫である大国主を猿田彦大神と同一視することができるとしたら、その妃である天細女命、大宮能売命も巫女の神格として比定可能なのです。
従って、猿田彦大神は御神名の由来を辿れば、八島士奴美神・大己貴命であり、必然的に大国主命に辿り着いてしまうのです。
では最後に、興味深い発見があったのでこれを記して終わりにしたいと思います。
大国主の祖父は「於美豆奴神(おみずぬのかみ)」、またの名を「八束水臣津野神(やつかみずおみつのかみ)」と言います。
こちらの八束水臣津野神は、「出雲国風土記」で国引きを行なった神とされており、朝鮮半島の新羅から越の国(新潟県)あたりの岬を繋げて出雲の国を大きくしたと伝えられます。
その神の御子に「赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと)」がおり、この名の「佐和気」は「狭別」であり、猿田彦大神や事勝国勝長狭神の神名との繋がりを感じます。
「別」とは「彦」と同様の大王や官を指す言葉であり、「狭」は稲田を示すとされているので、稲作に関連する神名である可能性が高いです。
この八束水臣津野神は、出雲の国引き神話で「国来、国来(くにこ)」と歌いながら岬を繋いでいったとされます。
同様の話が、「記紀」の中にあります。
「こをろこをろ」と歌いながら泥をかき混ぜ、八州を作り上げていった神々がいます。
その御神名を「伊弉諾命」と言い、妻の伊奘冉命と共に国産みを行いました。
この繋がりは、何を意味するのでしょうか。