楽太郎です。
最近、あれだけ世の騒々しさが春先からパタリと止み、天災も人災も目立った現象が目につかなくなりました。
何となく、不気味な平和というか嵐の前の静けさのように感じていたのですが、よく考えると春分を境に世界線の分岐が確定し、神々の選別もある程度完了したからだと思います。
つまり、これまでの出来事は神々が人間に気づきを与えるため、考えを改めさせるために起こしていた現象だからこそ、目覚めた人と目覚めなかった人を選り分ける必要がなくなり、それゆえ「気づき」を今さら促す必要がなくなったからではないでしょうか。
おそらく、その覚醒の度合いで今後起こることは違ってくるのでしょうが、エネルギー的には路線が確定したため後は具現化していくだけのフェーズに入ったのだと思います。
この期に及んで争いを好む人は争いだらけの日常を送ることになり、愛や優しさを配って生きることを選んだ人には温かい日常が待っているのだと思います。
世界にいる人々が、日本人全員が同時に経験するような大きな出来事が起こるとしても、人それぞれの心の持ち方一つで身に降りかかる現象や見え方は異なるはずです。
誰しもが恐れるようなことすら、神や魂の声を聞くからこそ意味を理解し、恐れを捨て前向きに生きていける人もいるでしょう。
そういう人たちに神々の加護はついて回り、祝福を得られた人々が次第に報われるようになるに違いありません。
これは決して「神々が選んだ」わけではなく、全ての人々に気づきの機会が平等にありながら、そのメッセージを無視して考え方や生き方を変えようとしなかった人々が、自ら道を選んだに過ぎません。
それは誰のせいにすることもできず、貧富の差や頭脳の良し悪しも関係なく、神の求めに応じた人々は手放しを決め、手放しを実践することを選んだだけです。
その宿命をどれほど変えることができるのか推し量ることはできませんが、人間には生まれ持って「魂」に備わった今生のテーマがあり、そのテーマに応じて学びがあります。
他人から見れば羨ましかったり悲惨に見えるようなカリキュラムは、その人が独自のテーマを持って生ていくだけで、比較できるものでもなく千差万別です。
ただ、人間には生まれ持った「魂のカリキュラム」が存在することに思い巡らず、やたらと自分と他者を比較し嫉妬したり優越感を味わったりします。
自分より不幸そうな人を見れば「ああならなくて良かった」と思い、どう努力しても得られないものを持つ人に対して狡さを感じて恨んだりもします。
しかし、これまで自分が知らずのうちにかけてしまった迷惑も、他人が無意識にしてきた自慢も、人それぞれが人生という大きな交差点ですれ違うタイミングで演じる役割に過ぎません。
自分の意志かどうかではなく、大きなシナリオの中で違いにロールプレイを行ってきたに過ぎず、その出会いが学びとなるように仕組まれているだけなのではないでしょうか。
人は「運命だ」と思う出会いや、腐った因縁を感じることはしばしばあります。
それは魂に予めブループリントとして描いているシナリオである以上に、そうではない端役としてすれ違うエキストラも、同様に学び気づき合う存在として運命づけられているように思えてなりません。
だから、自分の犯した失敗も他人の罪も許しがたくはあるのですが、誰もがお互い様の存在として迷惑と感謝を掛け合うことで学びを経験するのだとしたら、そこに善悪はないのかもしれません。
もしそれぞれの人が、大きな目に見えないシナリオの中に生きて自分の役割を果たすだけなのだとしたら、私たちにはどれほど「自由」が存在するのでしょうか。
私たちは欲望があればそれを実現し、長期的な計画を実現するために行動します。
目の前の一挙手一投足は自分の意志によるものだと信じ、それこそが自由であると感じます。
しかし、自らが「自由意志」だと思っているものは、どこからどこまでが自由なのでしょうか。
例えば、夏の暑い日には冷やし中華が食べたくなり、クリスマス前には恋人がいないと寂しくなります。
ある人は自分に異性が周りにいなければ生きられないと思い、ある人はお金がなければ不安でしょうがなく、ある人は自分に一人になる環境がなければ耐えられません。
その感覚は人間本来に備わっている欲望というより、社会生活をしていく上で備わった価値観です。
そう感じ考えるように仕向けられる意志もあり、誰かの考えに基づいて型に嵌められた行動は、どこまで「自由」なのでしょうか。
動機があって取る行動の、行動だけに自由があるのか、動機そのものに自由があるのか、その判別は簡単にはできません。
私たちが「自由」だと思ってすることは、実は意味づけや動機づけより大きな枠組みで、予め決められているとしたらどうでしょうか。
自分が「こうしたい」と思って取る行動が、見えない力で差し向けられ、そういう行動を好意的に取らされ、自分がそれを「自由意志」だと思い込まされているとしたら?
つまり、私たちが「自分の意思でやっている」と思うこと自体が錯覚であり、内実は魂のレベルで意味も目的もわかっていて、あえて間違った行動を取らされる、ということもあるのではないでしょうか。
自分が意識できる可視範囲の外側で、自分の魂とあらゆる霊魂が交渉し合い、そのコミュニケーションが偶然を装って現象化しているものを、私たちは「現実」だと呼んでいるのかもしれません。
魂が「学ぶ必要がある」と思うから目の前に困難が現れ、「学び終えた」と思うから離れていく事象があるとしたら、これは「引き寄せの法則」そのものです。
起こる事象は一つでも、人の見方が違えば見える現象が異なるように、それぞれの出会いや出来事はその人にとっての意味だけがあるのかもしれません。
以前、たまたま知り合った霊能者の方が、人に迷惑や感謝をかける出来事があると、その人を守護する存在や先祖霊が干渉して様々なことが起こる、と説明して下さいました。
私も人間は物質的側面よりエネルギー的な影響が強いと思っているので、目に見えない霊的存在の干渉はあると考えた方が腑に落ちます。
大まかな人生の目的は生まれる前に決まっていて、出会う人も関わる人もだいたい決まっているのかもしれません。
ただ不思議なのは、自分の運命はほぼ決定しているように見えて、本気で取捨選択をしながら命がけで行動しなければ道を切り拓けないということです。
人生は決まっているのだから、何となくダラダラしていればそうなるわけではないのが運命の面白いところで、結果だけを見て堕落し切っていれば違う結果となり、しかしその結果も大きなシナリオの一部だったりします。
手を抜くこともガムシャラにやることも、自分の意志次第に思わせておいて、それすら決まっているとしたら、どうやっても自分の意志は「自由」だと錯覚し続けるはずです。
だからこそ、いずれ舐めていたら痛い目を見ますし、上手くいく時は上手くいくし、積み上げたものが意外なところで見出されたりするのだと思います。
それは自分には預かりしれぬ次元のストーリーであり、それは人間に簡単にわかるものでないからこそ、とりあえず自分と向き合いながら生きていくしかありません。
私は神様もこの先のことは知っているけど、あえて知らないフリをして行動されているような気がしてなりません。
神様は時空を超越された存在なので、100年先も千年先もわからないとは思えません。
しかし、それが決まっているからと何もしなければ何も起こらず、それゆえ神様たちも現象を引き起こすまでには至らないはずです。
だから、あえて「わからないフリ」をしてご自身のお仕事に専念されるのだとしたら、納得がいく説明はできます。
神様の世界にも、神様の世界を司る神様がいて、その世界にも神様がおられる、というループが広がっているとしたら、私たちが感じる神様たちも大きなシナリオを知ることは難しいのかもしれません。
私たち人間が自分の意志で悩み迷い、学び悟りながら大きなシナリオには気づけないように、全ての存在が一つのまとまりの一部として動いているだけなのではないでしょうか。
そう考えると色々なことが小さく思えて、誰かを呪ったり憧れたり、嫉妬したり依存したりする関係も、少しは距離を取って考えることができます。
私たちが自分を自由だと思うからこそ、「不自由」な現実が許せなくなり、どうにか変えようと躍起になります。
しかし、その自由は錯覚であり、自分ではないものの自由によって自由と思い込まされているのならば、私たちはそもそも不自由な存在なのです。
その不自由さから自由になろうとするよりも、自由が不自由そのものであることに気づいた時点で、私たちは自由と不自由から自由になることができるのかもしれません。
変にこだわらず雲のように水のように流れに身を任せて生きれば、もう少し私たちは楽に生きられるのではないでしょうか。
かと言って、何もしなければ流れも生まれないのも事実で、気が向くことさえやっていけばとりあえず物事は進むように思えます。
本来なら、もっとシンプルに生きられたはずの人類は、楽か苦しいかという次元を超えた「喜び」としての生き方を後手に回す社会を作ってしまいました。
誰もが窮屈と思い、それでも「こういうものだ」と妥協しながら暮らす中で、その生き方が見直される時にあるように思えてなりません。
そして、その時代の終わりを経験することは、この地上に生きる全ての人にとって「学び」となり、それは救済や罰を超えた教訓を人々に見せることになるはずです。
それは恐ろしいとか変わることが嬉しいとか、その考えで逃げたり出迎えたりするものでもなく、大きなシナリオの中で私たちは「経験させられる」しかないように思います。
私たち日本人は経済的に豊かな社会を作り上げましたが、その代償に失ったものも多く、「平和」について抱いていた甘い考えは、今反省を持って我々の前に立ち現れています。
それをどうするのか、どう改めるかは私たちにかかっています。
だから、私たちに必要なのは「覚悟」、つまり学び取ろうとする意欲なのかもしれません。