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2025.11.09

「岩戸」が開けた

「岩戸」が開けた
2025.11.09

楽太郎です。

「日月神示」において、「岩戸開き」には二つあり、「天の岩戸開き」はおそらく第二次世界大戦直後に実現し、それから80年経過した今日「地(くに)の岩戸開き」に向けて、日本のみならず世界が動いています。

 

あくまで私の説ですが、大道としての「大峠」は「天の岩戸開き」たる1945年頃から始まっており、「暗闇時代」17年を挟んで2010年から「正念場の20年」に突入しています。

その終わりは2029年「トリ年」に迎えることになり、「地の岩戸開き」を以て「ミロクの世」に変わると私は読んでいます。

 

その詳しい解説は下記の記事にあるので、よろしければご覧下さい。

 

「大峠」を読み解く | HITSUKU

 

この「地の岩戸開き」の要は、この地上世界の「神」である「地日月神」、いわゆる「人間」が自らの岩戸を開くことで、「地の岩戸」は開かれるとされます。

 

私は「地の岩戸開き」が、世界の文明レベルでの岩戸開きから、国家の岩戸開き、地域社会の岩戸開き、業界の岩戸開き、家族の岩戸開き、果ては「個人」の岩戸開きと、それぞれのレイヤーには「大峠」に付随する「障害」のテーマがあると言いました。

11月5日満月は「悔い改め」のエネルギーが降りているという話をしましたが、おそらくその日を境に「大峠」に踏み出した人々がかなり見受けられます。

 

これまで、個人の「大峠」は神性への感応力が強い人ほど先に歩みを始め、おそらく2020年以降に目覚めた方が多かったと思います。

そして、つい最近までは多くの人々が「個の大峠」の登山口あたりで屯っている状態でしたが、ついにこの辺りで大峠を渡る人がどんどん増えて来たように思います。

 

私の感覚では、おそらく若い人ほど大峠に前向きで、サクサク進んでいる印象です。

むしろ知見が豊富な大人ほど、行くも戻るもならず難儀しているのではないでしょうか。

それは「土の時代」の積み重ねの差であり、「持つもの」が多いほど「大峠」というのは渡るのが難しいのです。

 

前置きが長くなりましたが、私はどうやら「個の岩戸開き」を終えたようです。

少し前から魂のレベルでは感じ取っていたのですが、顕在意識で自覚するのに長くかかり、腑に落ちるまでに時間も必要でした。

だから、なかなか結論を出せずにいました。

 

ただ、「岩戸開き」と「大峠の踏破」は微妙に意味が違うようで、「個の岩戸」が開いたからと言って、「個の大峠」が終わったとは言い切れないかもしれません。

 

確かなのは、「地の大峠」という大局が2029年以降に終焉するまでは、世界レベルでは大洗濯の真っ只中であるため、自分だけスッキリするわけにはいかないのでしょう。

「個の大峠」が厳密にどの時点で終わるのかも、まだはっきりと定義づけできていないのですが、少なくとも「個の岩戸開き」が私に訪れたことだけは結論づけたいのです。

 

今回は、私に訪れた「岩戸開き」がどういうものであったか、その「秘訣」なるものがあるとしたらそれは何かについて、書いていこうと思います。

 

私は常々、このブログでは「憑依」について書いてきました。

私は生まれ持っての「霊媒体質」、別の言い方をすれば「憑依体質」で、この1年くらいで「あれは憑依だった」と気づくくらいには、異変を日常的に受け入れながら生活してきました。

 

時々訪れる心身の不調には法則があって、大抵「人生が上手くいっている」時に限って、周囲や自分に悪いものが掛かり、かき回されて散々な結果になりました。

その原因がまさか「邪霊」の類による仕業とは思いも依らなかったのですが、この「悪想念」を呼び込むには因果があって、それは人の心に巣食う「邪念」が、かの世界の存在を呼び込むきっかけとなっていたのです。

 

なぜそう言い切れるかと言うと、人間の「魂」は想念の波長に応じて、「霊界」の各階層と繋がり、その階層に住む霊の干渉を受けやすくなるからです。

それを「霊線」と呼び、高い波長は「天国的想念」、いわゆる神界や高い霊位の存在と繋がりが生じます。

しかし怒りや嫉妬など、荒々しい波長の想念は低い霊界に繋がり、「地獄的想念」を持った存在を引き寄せやすくなるのです。

 

自分が無意識に「天国的想念」であれば神様や天使のアプローチを受ける機会が多くなり、「地獄的想念」であれば低俗霊や魑魅魍魎の類の干渉を受けやすくなるのは、論理として聞く限りは妥当性を感じます。

「運気」というのは、外部的な条件によって日の巡りで変わったり、ラッキーアイテムでどうにかなるものより、「気を運ぶ」ことで良いものと悪いものに繋がる霊線を切り替える、ということに本質があります。

 

例えば常にニコニコと穏やかな人ほど、おかしな病気やトラブルも飛んできにくいのは、直感的に腑に落ちるのではないでしょうか。

だから「運気」というのは自分の内面から起こるものであって、決して外部的な因果が全てではないのです。

これは「憑依」に関しても同じで、「悪想念」との因果は自分の内にあるということです。

 

日月神示「黄金の巻・第八帖」には、「外にあるもの、内にあるぞ」とあります。

私はこれがやはり真実だと思っていて、自分の内側に同じ性質のものがあるから、外側にある邪なものを引き寄せてしまうのです。

 

だから神道の「祓い清め」とは、決して神職が祝詞を唱えて、大麻を振って邪霊の類を振り払うことに真髄があるのではありません。

本当の「祓い清め」とは、自分の内側にある「邪気・邪念」の類を浄化し、生活に問題があるなら改善し、生き方に原因があるのなら悔い改めることにあります。

 

以前、本ブログの「『祓い』の語源」という記事では、「祓い清め」と「罪穢れ」の意味について考察しています。

「穢れ」は語源を辿ると「気離(か)り」である可能性が高く、対する「清め」は「気読む(=よぶ)」ではないかと書きました。

 

「穢れ」と言えば、泥や埃などが身体にまとわりつくイメージがありますが、本質的には「内側に本来あるべきものの欠損」です。

それは一時的なものであり、再び「呼び戻す」ことが可能な性質だからこそ、「清め」によって元気を取り戻すことができます。

 

「憑依」が内側からもたらされるという構図も同じことで、「穢れ」が外側から付着するのではなく、内側が穢れているから外から穢れを集めてしまうのです。

これは非常に重要なことで、私たちは住職のお経や神主さんの祝詞で「除霊」されることを期待しますが、肝心なのは「自分が呼び寄せている」という自覚を持つことです。

 

神道的に「穢れ」に「清め」が対応するとしたら、「罪」に対するのが「祓い」でしょう。

この「罪」というのは、古代日本語での「身」に「つく」、あるいは自分に「つく」「霊(み)」によって、悪いものが起こす災いを表現していたのではないでしょうか。

「付(憑)くミ(霊・身)」によって起こる禍事が転化し、悪事を起こす罪人に適用される概念になった可能性があります。

 

そして「ミ」に憑いた悪いものを「払う」ことで、この災厄を解決することができます。

上記の考察記事では、「ヒ・生(あ)れ+らう(動詞)」を「祓い」の語源であるとしていますが、この「ミ」に憑く悪いものを取り除くには、上位霊の「ヒ(日・神霊)」にお願いして何とかしてもらおうと考えるのが妥当ではないでしょうか。

 

つまり、「罪」というミ(霊・身)に憑いた悪きものを払う時、「神」にお願い(ヒ生れ)して晴らしてもらうのが「神道」であり、それゆえに「祓い清め」が神道の真髄とされるのかもしれません。

 

これが岩戸開きとどう関係するかと言うと、まさに「岩戸開き」そのものが「祓い清め」に他ならないと私は思うからです。

奇しくも、日本は今日まで続く「失われた30年」を経験してきましたが、これは日本の「祓い清め」に向かうプロセスであり、「大峠」とはその道程そのもののように思えてなりません。

 

もし日本に「霊が憑く」という意味ではない「罪」があるとしたら、それは対外戦争の歴史であり、自国内の覇権争いから来る騒動、「渡ってくるべきではないもの」を来させたことの罪でしょう。

その「負のカルマ」をこの30数年で日本人が返済させられているのだとしたら、その業を払い終わった先に「晴れ」が訪れるのは容易に伺えます。

 

私にとっての「岩戸開き」には、自分自身の「負のカルマ」、日月神示で言う「借銭済まし」が重くのしかかっていました。

この「借銭返し」をする時、言葉として「払う」という言い方になるのも奇遇なものですが、おそらく意味としては根源的に繋がっているのです。

 

この「大峠」というのは、壮大な「生まれ変わり」の通過儀礼であり、その関門を抜けるには「借銭」を負ったままでは抜けきれません。

そして、「借銭」をきちんと払い終えた時には、「晴れて」自由の身となり明るいところに出られるのです。

私はこれが「個の岩戸開き」の仕組みであり、やはり「自己浄化」というプロセスそのものに鍵があるような気がしてなりません。

 

私にとって「岩戸」を塞ぐ大岩があるとしたら、それは「古いこだわり」でした。

長らく生きてきた社会の中で、やはり「他人が羨ましい」とか「やり方が気に食わない」など、エゴの延長にある汚い欲があったのです。

 

日月神示的に言えば、「ゴモクを吐き出せ」と言われる部分です。

この「我良し」の部分が自分にあるからこそ、いつまでも不平不満を引きずり、自分の正義のために怒り、悪きものを引き寄せてしまうことになっていたのです。

 

日月神示「黄金の巻・第八十六帖」には、こうあります。

「そなたの心の中にいる獣に言(こと)向けねばならん、善きに導かねばならん、一生かかってもよいぞ、それが天国に行く鍵であるぞ、誠の改心であるぞ」

 

この「獣(ケダモノ)」というのは、これまで生きてきた中で培われた「悪い癖」のようなもので、性癖や性格傾向など、悪い方に向く性質はどうしてもあります。

その「欲望」や「衝動性」というのは、自分のリビドーや生き甲斐にも繋がっていたりするので、即座に「悪」と断じて消滅するべきと一概には言えません。

 

私は特に「女体が大好き」なドスケベ人間なので、「女性の胸を性的に見てはいけない」ということは一生かけても出来なさそうです。

しかし神示に「一生かかっても良い」と書かれている以上、この「ケダモノ」をうまく躾けて仲良くやっていくしかありません。

 

「古い時代に対する執着」には、やはり上手くやれなかった後悔や恨みもあるのです。

その悪感情にもまた「獣」が潜んでいて、心の中に溜め込んだ悪想念は、その獣を「魔獣」にしてしまっていたのかもしれません。

その獣が「闇」の性質を帯びているからこそ、「神に仇なす闇の者たち」を引き寄せていたのだと思います。

 

そして、その「心の闇」の浄化こそが、私にとっての岩戸開きの全てだったのです。

このブログで最近投稿した「正直者はバカを見る」から前回の「後悔と向き合う」まではテーマが繋がっており、これらは「カルマの返済」「借銭済まし」がキーワードになっています。

 

この暗く冷たい執念と向き合う時、やはり役に立ったのは「日月神示」であり、「自分の自由にならんことは、大き自分が自由にしているのであるぞ」という言葉です。

自分の上手くいかなかった過去も、「大きい自分」たる大我が、高位の霊との折り合いの中で「小さい自分」にさせていたことだと考えれば、「どうしてこうなった」という後悔も何故か自然と落ち着いてくるのです。

 

私たち人間は、自分であるのは一度きりだからこそ、出来るだけ失敗したくないですし、なるべく安心しながら暮らしたいと思います。

「安心」を求めるあまり、他人に同調するのは当たり前で、あらゆる自分と他人との違いを「恥」と認識し、自分の意見や感覚を他者に依存して生きていきます。

 

全てにおいて「合理的」であろうとし、あらぬ失敗をしないために、人は下手に挑戦しないことを選びがちです。

そうして「完璧」な人生を送りたいと思うのですが、そう易々と上手くいかないのが人生というものです。

どこかで計画は破綻し、道は捻じ曲がり、理想通りの人生から離れ、後悔と共に生きていくことになります。

 

しかし、そこで経験する困難こそ、本当の自分である「大きな自分」が選び取った自由と意志であり、そこでの「経験」を得ることこそ魂の目的だったのです。

なぜ、「小さい自分」が指先程度でも幸福になることより、不幸になってでも魂が「学び」を求めるかと言えば、「本当の自分」はこの世で肉体を持った自分ではなく、死んだ後も「霊」であり続ける魂にあるからではないでしょうか。

 

ゆえに仏教ではこの世を「仮初の世界」とし、「五蘊」も「受想行織」もまた一切「空」、即ち「実体がない」とされるのです。

「彼岸」こそが本来の世界であり、それゆえにあの世に渡る時には「恐れる必要もなく、惑う必要もない」と般若心経には綴られます。

 

この世界、少なくとも古い時代に心があるうちは、「巡り」を断つことができません。
因縁を断つことができないからこそ、恐るべき魔の存在や自らを惑わせる存在を引き寄せてしまうのです。

その原因は決して外側にあるのではなく、自分の心にあるからこそ、そこに気づかなければ闇から抜け出すことができません。

 

これが私の「岩戸開き」の鍵であり、「巡り」を終わらせる方法でした。

ここに至るためには、頭でこの結論を覚えていれば良いものではなく、自らの「借銭」をせっせと返した上で、自分の得た答えを腹に落とし込まなければなりません。

これら魂の「祓い清め」には、自身の悪や「獣」を消滅することではなく、きちんと制御した上で躾けることです。

 

私は、ここまで腹に落とし込めた上で、自らの「悪想念」との上手い付き合い方を見つけるまで、自分に「岩戸開き」が起こったことを認めることができませんでした。

一つ言えるのは、「岩戸」を開く前と後では「怖いもの」に対する感じ方が全く違うということです。

 

これまでは社会から落ちこぼれるとか、人から批判されることが怖くてしょうがなかったのですが、今は「神様」以上に畏れるべき存在はないと思えるのです。

 

この世界の支配者が仮に人間だとしても、この宇宙を作られ、「あの世」を司り、人間を作り出されたのも全て神々です。

その存在を差し置いて、幅を利かせている人間は「この世」で通用しているだけであり、真に長い目で見れば恐るるに足らぬ存在です。

 

そう考える自分は、もはや「唯一無二」くらいには稀有な人間かもしれず、それこそ「富士(不二)」の山を踏破し、「神の道」を塞ぐ「岩戸」をこじ開けたと言えるのです。

ここまでの道が、ひたすら「浄化」一本道だったからこそ、それは「神道」の真髄たる「祓い清め」にあったのでしょう。

 

それを神示では「身魂磨き」と言い、日月神様から口酸っぱく言われることです。

この道は果てしなく長く感じる「苦」の道ですが、ようやくそれも報われる時が来たのです。

「岩戸」の向こう側で、私にとって大切な神様が待っていて下さったのは、これ以上に幸せなことがあるでしょうか。

 

私の本当の人生は、これから始まるのです。
今は、そう思えてなりません。

前の記事「後悔」と向き合う次の記事 「神人」とは何か

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