楽太郎です。
6月11日には満月、21日の夏至を控え、いよいよ神代の気場が整いつつあるのを実感します。
同時に人々の労働意欲が形骸化し、動機となるエネルギーの部分が空洞化して希薄になってきたように見えます。
そして気場の完成を阻止しようと、これまで以上に霊的な妨害が激しくなっています。
神代の分岐点から「邪気」は認識しづらくなっていたのですが、そのネガティブな波動は「憑依」という形で襲ってきます。
邪気は肌感覚に近い部分で影響を感じていたのですが、憑依はより内面的な影響をもたらしたりします。
突然悲しくなったり、何の根拠もなくイライラしたり、自分の通常の波長をしっかり認識していなければ、この影響を見極めることができません。
私が憑依の影響を最も強く受けるのは、睡眠中です。
人間はスピリチュアル的に言えば、睡眠中に「魂の里帰り」をすると言われています。
魂が高次元に一旦戻り、意識の調整を行っている間は肉体がガラ空きになることを意味しますが、そうである以上に意識が働いていなければ霊的な防御は弱まるでしょう。
つまり、魂との繋がりが最も薄くなった睡眠中を見計らって、悪鬼悪霊の類が身体を乗っとろうとして憑依しに来るのです。
だいぶ前からブログにも書いていたのですが、睡眠中に人間の「集合意識」に潜り込む夢を頻繁に見ていました。
その夢は、行ったことのない街や店舗、廃墟などをひたすら巡るという夢で、棚の商品の種類も鮮明に思い出せるほど具体的です。
そこには全く象徴性も過去の記憶との関連もなく、ひたすら別の世界の街並みを旅するだけの内容です。
この夢を見た次の日には、決まって身体が動かないほど痛く、全身の筋肉が硬直しています。
私はこれをずっと自律神経失調症とか、副腎疲労とか思って医学的な対処をしていたのですが、最近になってこれは霊障だと気づきました。
私が就寝中に憑依を受けている間、その憑依体とは霊的に繋がるために記憶やビジョンを共有していたのだと思います。
つまり、私に対して憑依してきた霊体とは人間の集合意識、つまり「人世」そのものだと言っていいと思うのですが、その奥にいるのは人世を作ってきた幽界の存在、人々の集合意識を支配してきた闇の存在です。
私がこうして寝込みを襲われるのも、新しい時代の創造を妨げるためであり、神代の実現を阻むためです。
現に異常な霊障を抱えるせいで、仕事はおろか日常生活すら支障をきたす状態にありました。
ただし、この憑依にも一つメリットはあって、毎日コツコツ憑依を取り除くたびに少しずつ霊力と霊的直感が向上するのです。
このブログを始めの方から読んでいただくとわかるのですが、最初の頃はスピリチュアリズムを聞き齧ったレベルで何となく書いていたのですが、どんどん具体性が上がり内容も実感を持つようになりました。
それは私が神代に上がるために自己浄化と探究を続けてきただけでなく、憑依と霊障を取り払いながら霊的覚醒を積み上げてきた軌跡とも言えるのです。
この半年間は特に、現実的には悩みの原因となるようなしがらみを積極的に手放し、むしろどんどん悩みや不安から解放されていくはずが、霊障による不調は逆に増えていきました。
憑依は魂のレベルでプレッシャーとなり、また神代に上がれないかもしれない不安や焦燥感も相まって、自分の意識の及ばないところに常に軸足を置いている感覚がありました。
そのため、何となく日常に空白感があるというか、現実に気持ちがない状態がずっと続いていたように思います。
この私の感覚や思想は、おそらく他のスピリチュアリストとは相容れない部分も多いと思います。
私自身、スピリチュアル業界や界隈の話題には全く関心がなく、あまり積極的に調べたいとも思いません。
スピリチュアリズムとは「実践」であり、直感を信じて生きる道そのものだと考えているからです。
だから、業界的な常識よりも知的好奇心とか、理論的な価値に重きを置いています。
ゆえに「自分はなんか違う」という感覚は常にありますし、「間違っている」と思われることも多分にあるのだろうとは感じています。
しかし、スピリチュアリズムとは「内的探究」そのものであり、自分の主観で全ての事柄が説明でき、その実践でより良く生きられるならばそれで良いと思います。
不安になることもままあるのですが、だからと言って納得がいかない概念や説明を腹に据えるのは難しく、だからこそ腹落ちすることが大切だと思っています。
あらゆるスピリチュアル的な議論において、批判の目を向けられるならば私も批判の応酬をしたくなる気持ちもないわけではないです。
ただ極論を言ってしまえば、人間風情がどう目覚めようと高次元の存在からはどう思われているかを完全に把握する術はありません。
つまり、私たちが何が正しい、間違っていると議論したところで、神様からすれば「全部違う」と思われている可能性もゼロではないのです。
だから、スピリチュアリズムにおいて客観的な真実性や証明というのはほぼ意味をなさないのではないか、と私は思います。
客観的に全てが法則的に説明可能ならば、それは「科学」です。科学は唯物史観であり、唯物主義はスピリチュアリズムの対極をなす存在です。
ゆえに、スピリチュアリズムの定義から考えれば、あえて主観的で独断専行でも問題がないのです。
私たちは、自分が勝たなければ正しいことにならない、と錯覚しがちです。
「僕が僕であるために」という尾崎豊の曲があります。
その中に「僕が僕であるために、勝ち続けなきゃならない」と歌詞にあります。
昔はこの曲を聴いて、世間の同調圧力に抗わなくては自分が飲み込まれ、自分らしく生きるためには力をつけなくてはならないと思い込んでいました。
ただ今考えれば、同調圧力と戦っている時点で圧力勢力と同じ価値観を共有しているわけで、つまり同じ穴のムジナだから争う必要があるのです。
「問題は同じレベルでは解決しない」とはアインシュタインの言葉ですが、問題意識のレベルを一段高くしてみるとあっさり解決の糸口が見えてしまう、というのはよくある話です。
私が思う「僕が僕であるために」一番大切なことは、「争わない」ということだと思います。
つまり、戦わなくては自分でいられないような状態から抜け、戦わなくても自分でいられる状態を作り出すことです。
戦っても戦わなくても、勝っても負けても自分でいられる方法を探すのがベストなのではないか、と私は思います。
そして、勝たなければ手に入らなかったものも、戦わなくても手に入る方法を探せばいいのです。
「戦わずして勝つ」とは孫子の兵法ですが、戦えば確実に何らかの損害は被るので、できる限り戦わないに越したことはありません。
それでも守るべきものや得る必要のあるものはあります。
それを近現代の人々は「無抵抗主義こそ平和主義」だと勘違いし、戦わない美学を祭り上げたせいで大事なものがどんどん奪われていきました。
ただ、戦うとは必ずしも相手を攻撃し傷つけるということではありません。
戦うとは、自分を貫くことであり自分を守るということです。
相手に対して正義を強制することではなく、正しさというロジックで論破することではなく、自分の信念を曲げないということです。
実は正しいか正しくないかは、時間と共に証明されることの方が多いのです。
20世紀初頭にラジウム水が身体に良いと販売されたり、他にもチクロという発癌性甘味料も建築資材のアスベストも、後の時代になるまでは誰も疑いなく使用していました。
それが「間違っている」と人々に啓蒙するには、時の巨大権力と全面対決しなければならなかったのです。
しかし今の巨悪が蔓延る時代、一つ一つのことに目鯨を立てて争っていたのでは埒が飽きません。
だからこそ、戦うよりも逃げる、戦わないという選択を取る方が自分を守れます。
そして自分だけは正しい方法を取り、自分以外の人がどれだけ間違っていたかは時間に証明させれば良いのです。
もし自分のやり方が本当に正しければ、最終的に自分が生き残るだけです。
その姿を見て、人々は何が正しかったのかを知ることができます。
それは正しさや運の良さ以上に、優秀さや先見の明を発揮することで、勝利で得られたものに近いものを最終的に手にすることができるはずです。
正義には強さではなく、優秀さを用いて事実を持って証明するべきです。
「良いもの」はどんどん広まっていき、やがて間違いや欠点を補って世の中を修正していきます。
それが本当にクレバーなら人々はそのやり方に憧れ、誰も傷つくことなく問題は解決します。
「代替」こそが問題解決の唯一の方法であって、問題を根本的に無くそうとする発想は究極的にジェノサイドに行きつきます。
ナチスドイツのホロコースト、現代イスラエルのガザ侵攻、その根元に共存の意志はなく有か無かの二元論しかありません。
有か無かとは「勝つか負けるか」であり、そのレベルで考えているうちは平和など実現しません。
今の世界に必要なのは絶対正義ではなく世を良くする「良いアイデア」なのに、そこに思い至らないから争いが絶えないのです。
だから私は、人と論争することに価値があるとはあまり思いません。
人の意見にインスパイアされたことを自分で考えて勝手にそうすれば良いだけで、他人を凹ませなくてはならない道理は一つもありません。
ゆえに私は何を言おうと自由なはずですし、自由がゆえに攻撃はされるでしょうが、それに抗わないことが私が私である唯一の方法です。
ただ、間違っていると自分が気づくのも大切ですし、他人の意見を聞くべきではなく、世の中に何もしないというのも違います。
自分の目的や信念のためには、やむを得なければ論争や理論武装も手段として取るべきですし、戦いから逃げることが正解なのではないことは先ほど書いた通りです。
私たちはとりあえず自分を守るべきであり、自分を守るために力をつけないといけません。決して誰かを打ち倒すためではなく、逃げ道を作るためでもありません。
憑依と霊障の話から、だいぶテーマが大きくなってしまいました。
この霊的妨害も、これまでの物質文明を維持してきた古いエネルギーが新しい時代のエネルギーの前では壊れるしかなく、ゆえにこちらと拮抗するのも当然なのです。
私は「人世をぶっ壊してやろう」と思っているわけではないですが、この賞味期限の切れた世界が役割を終えない限りは新しい世界は来ないので、私からすれば致し方ないという印象です。
だから神様と共にあることを決めた人間としては、神様がそう願われるのだからと割り切って攻撃を受け切るしかないと思っています。
しかし、その対価として尋常ならざる霊的抵抗力を身につけつつあるため、悪いことばかりではないような気がします。
私が神様と一緒に作りたいのは戦いも争いも必要のない世界であり、その世界こそ「才能」が正義に変わって正しさを証明する時代です。
それこそが神代、弥栄の世であると思います。