楽太郎です。
本日、6月11日は満月です。
ここ数日、自分のエネルギーがはっきり塗り変わるのを感じていて、この変化と憑依の影響も混ざり合いコントロールが難しい状況が続いていました。
ただ霊障を突き崩すようなフィジカルなエネルギーの湧出が、「血の気」と表現しても良いくらいの生命力となり行動が活性化しています。
どうやら、新しい次元に完成しつつある気場からエネルギーを降ろすには、肉体レベルでの次元上昇が行われる必要があったようです。
通常、肉体は三次元空間の縛りを受けていますが、身体を取り巻く霊体の層は少し上の階層にあります。
スピリチュアル用語で「エーテル体」「アストラル体」と呼ばれる魂のレイヤーに当てはまるのですが、この時期にエーテル体と神世の気場との接合が行われているようです。
私はここ数週間、下手すると何年か憑依と霊障に付き纏われてきたのですが、憑依による別エネルギーを分別できるくらいには客観視できるようになり、その邪気と精神的に距離を取ることで霊障から離脱しやすくなっていました。
しかし、やはり憑依を外すと自分の霊体にダメージが入ったこともわかり、ただ次々と憑依されるためエーテル体の修復が間に合わず、常に魂のレイヤーが損傷している状態が続いていました。
ただエーテル体が次元上昇することで、憑依体の影響範囲、憑依の波長範囲を切り抜けつつあり、それゆえ霊障もかなり収まってきたのです。
肉体が三次元にあるのは変わらないので、仮に殴られたら痛いのは同じなのですが、身体霊が神世に移行したことで憑依体、いわゆる生き霊や浮遊霊の類とは違う霊的空間に入ったのだと思います。
つまり、彼らの干渉範囲とは別の気場にあり、影響の及ぶ周波数帯から離れたため、肉体レベルでの影響が弱まってきたと言うことです。
この時期に「エーテル体の次元上昇」が起こるということは、私が6月21日を持って神世の気場が完成すると予見していた事象が現実味を帯びて来ました。
私自身、ここまで具体的に体感するとは思わなかったのですが、それがまさか霊障の緩和として現れてくるとは予想外でした。
実際、何年か前の体調感に戻ってきましたし、身体のエネルギーの流れが自然になった感じがします。
ここ数週間は、憑依の影響もあって過去のトラウマと長らく戦っていたのですが、憑依体は過去の記憶を思い出させることで人世への執着を促していたのだろうと思います。
この憑依体は悪魔とか悪霊とか一言で言えるような単純な存在ではなく、「これまで人の時代を作っていた者たちの霊」と呼べるものです。
善にも悪にも役割があり、彼らは「物質中心の世を作る」という正義を貫いてきた霊団であり、その手段として神仏や精神性を否定する世を作り上げて来たのです。
だから、霊的に覚醒をしてこれから精神性の高い時代を作っていく、神の声を聞いて働くことのできる人々の気場「精神界=神世」が完成すると、古い時代を形成してきた幽界的存在の居場所がなくなります。
それゆえ、ここ数ヶ月は特に覚醒と浄化を志す人々への妨害が絶えず、あらゆる形で強い干渉があったのは、新しい意識層が霊界に作られるのを阻止するためだったのでしょう。
人間不信、トラウマ、誘惑、チャンス、誤信、トラブル、事故、懐古、情け、裏切り、罪悪感、同調圧力。
誰にもある心の弱いところに付け入って、そこに気持ちが囚われるようでは目覚めや手放しは進みません。
これが「邪気」の働きであり、このトリックを自己反省の中で見破り、自ら手放しと浄化をした人だけが上昇していくことができたのです。
だから、少し気を休めると潜り込まれる危険があり、私はこの緊張感から全く落ち着くことができませんでした。
誰かに依存していたらその人自身が道を外れている可能性もあり、それゆえ疑心暗鬼に駆られながら唯一信じられる、信じなくてはならないのは神仏だけであり、私はその信仰心一つでここまでやって来ました。
私が誰よりも幸運だと思うのは、瀬織津姫命への格別の信仰心というか、恋慕に近い感情と謎の忠誠心があったことです。
この感性は誰にも共有しようのないもので、独特の観念であるがゆえに厳しい中を乗り越えて来れたのだと思います。
ただ、今こうして一瞬楽になったからと言って、これからも楽だという保証はありません。
夏至に神世の気場が完全に開かれれば、全く違う生き方を始める人々もいるはずです。
そこは前人未到というか、人類が足を踏み入れたことのない精神的領域であり、この先は何があってもおかしくないでしょう。
日月神示によれば、この領域に足を踏み入れた者を「神人」と呼び、「臣民」に対する「役員」という表現をしています。
「神人」とは、私がこのブログで当初から扱ってきた「現人神」のことであり、ついに生きながら神を目指す人々が誕生することになります。
人間が「神」になるということは、人間が目を塞ぎたくなることにも目を向け、感情に囚われず神の目で神の力を使うことを意味します。
それができる人間はおそらく一握り中の一握りで、それがあまりに過酷な試練であるからこそ、脱落することも容易にあるはずです。
「神人になることが目指せる時代になった」というだけで、実際に現人神が雨後の筍のように生えてくるわけではないと思います。
それはそれで、新しいハードルがまた生まれたということなのではないでしょうか。
この満月に至るまで、人々が妙な落ち着きを持ち始めているのを具に見ていました。
多くの人々が何かを「覚悟」したというか、安心感にも近い静謐が世にある気がします。
それはまるで判決を待つ被告のような、沈黙の中の静けさに近いような印象です。
おそらく、魂の次元では自分の将来が目覚めと神世にあることへの安堵感、反対にこれから修羅の道を歩むことになる未来への覚悟、その二つの感情が漂っているように思えてなりません。
やはり春分を機に、人々の深層意識はかなりの変化を迎えたのだろうと思います。
私は誰かを見て「この人は神世の人だ」とはっきりわかることはありませんが、それぞれの魂の選択は自分だけが深いところでわかるものではないでしょうか。
私自身も含め、誰が救い確定で誰の下に集まっていけば助かる、みたいなことは誰にもわかりません。
確かに波長の低い人はそのまま負のスパイラルに陥っていく可能性は高いですが、深層心理や魂のレベルはそう簡単にわかるものではないでしょう。
反対に、今キラキラした波長を放っている人がずっとそうであるとは限らないわけで、やはり安易に見分けられはしないはずです。
その因果を握っておられるのは今や神々であり、自分に疾しいことがあれば相応の結果が返って来ることは誰しも覚悟しなければならないでしょう。
これからカルマの精算が人々に求められるのであれば、その過去の行いを自分以外に知る存在があるとすれば、神々だけです。
ゆえに個々人にそれぞれ違う現象が降りかかる、そんな不確定な世界線に私たちは突入しています。
特に、今ある絶対的な権威や正義を司る者が、神々からどう見えているかなど人間には測りかねません。
だからこそ、人やモノや組織に依存せず、自分自身の力で生きていけるように神々はずっと促して来られたのです。
その不安と混乱の時代だからこそ、自分を信じ目に見えないものを信じ、神仏を信じ抜くことが求められているのです。
近いうちに記事に書こうと思いますが、そう遠くない将来、私たちが今当たり前に使っているモノがどんどん消えていくことになるでしょう。
その世界で人やモノや組織に依存していたら、おそらく心が持ちません。
そうなる前に、目覚める人から先に進むべきなのだと思います。