「お祓い」とは何か

楽太郎です。

6月21日に太陽が蟹座に入り、夏至となります。
それを前にしてか、本日17日には火星が獅子座から乙女座に入ります。
火星は昨年11月4日に獅子座に入り、12月には逆行となりました。戦いの星である火星が獅子座に入る時期は、「闘争や自己表現」がテーマとなります。
それが6月17日あたりで滞在を終えます。

奇しくも、先日11日の満月を境にエーテル体と神世の気場が接続し始めたのを体感してから、憑依による霊障が遠のくのを確信しました。
しかし、それに比例して悪意の密度が高まり、憑依としては高度な対応が必要になって来ました。

思い返せば去年の火星獅子座入りあたりからスピリチュアルな話題に目覚め、その時期あたりから「神世」という概念を意識して色々と学び、実践と自己浄化に取り組むようになりました。
そして、絵も言われぬ謎の霊障がその頃から付き纏い始め、不調の中で内省を極める過酷な日々が続きました。

生霊だけでなく呪いによるものや、悪霊よりも大きな力を持った存在、あらゆる憑依を体験しました。
今考えればこれも私に課せられた修行の一種だったのでしょうが、この憑依との戦いも火星乙女座入りを気に終わるかもしれません。
というのも、一昨日からかなり類を見ない霊障に襲われて、それを振り解くには新しいアプローチを試みなければならなかったからです。

これらの霊障が顕著になった昨年末の火星獅子座入りと、12月21日の冬至点とは無関係だったとは思えません。
神世への選別が始まったのと同時に苛烈化した霊障は、やはり次元上昇を妨げる目的があったのだろうと思います。
そして、火星獅子座期が終わる頃に急に熾烈になった憑依は、おそらくこれが「最後の山場」なのだろうと思います。

今回がなぜか「最後」だと思う理由は、この憑依を呼び寄せている原因が何となくわかったからです。
それは、私の中に幽界の存在を引き寄せる「幽界的観念」があるからであり、つまり私に「悪意」があるということです。
人の不幸を望み、破滅を喜ぶような浅ましさが私の心にあるからこそ、悪魔的な存在を引き寄せてしまっていたのです。

魂が同じ性質によって引き寄せられることを、スピリチュアル的には「エーテルコード」と言いますが、日月神示的な言い回しで「霊線」と呼ぶことにします。

私の心に「何かを憎む心」があるから、その憎悪に幽界的存在が感応し、魂の霊線を辿って憑依が可能になるのです。
この「霊線」を断ち切ってしまえば、原理的には幽界からのアプローチを止めることができるはずです。

そのためには、私の心にある「幽界的部分」を浄化し、つまりは憎悪や悪意を私の心から消していくことです。
ただ、このレベルの手放しは一朝一夕でできるようなものではありません。
それでも、この霊線が私の心に残り続ける限り、いくら魂が神世にあっても憑依は続いてしまうのでしょう。

私は、この憑依に関して基本的に間違った認識をしていたようです。
憑依に対して「祓い」を行う時、その感覚は「除霊」に近いものでした。「祓法によって邪霊を払い除けよう」とすることは、そこに敵愾心をどうしても発生させてしまいます。
自分の身体の不調も精神的な不安定さも、「邪霊のせいだ」と思えば思うほど、幽界的存在との対立を深める要因になっていたのだと思います。

要するに、私が霊障を問題視して憑依を邪魔なものとして認識するから、延々とやり合うことになるのです。
それはむしろ幽界側にとっては望ましい状況で、互いにやり合っているうちは私の覚醒や進行を妨害することができるはずです。
だから、この関係を断ち切るためには、私が常日頃から抱いている私自身の攻撃的な欲望をよく内省する必要があったのです。

私が常日頃から抱く「腹立たしさ」の正体は、単に「悪を憎む心」にあります。
あらゆる不正や欺瞞が横行し、それを取り締まる気配も希薄で、人々がその状況を黙認していることへの怒りです。
先日の「怒りを捨てるな」という記事でお話したように、この怒りの感情も浄化して正しい動機にするなら全く問題はありません。

しかし、「浄化できない怒り」というのが問題で、例えば目の前を歩いている人が突然ゴミを投げ捨てるとか、人に罵声を浴びせているのを目撃するとか、そういった直感的な怒り、感情として自然に抱いてしまう怒りをどう処理するのか、という課題が依然として残り続けるのです。
その「何かを悪として憎む心」が自分のエゴイズムから発生するならば、自分自身を内省し浄化していく必要があります。
究極的には、「悪を悪と認識しない」レベルまで意識を持って行ければ、悪に対して過剰な憎悪を抱くことはなくなるでしょう。

ただ、考え方として悪の存在がこの世にあるべきシステムの一部であるにしても、その悪を完全に許し切れるのか、あるいは悪事がもたらされたことに感謝し、「悪事に対してありがとう」と言えるほど達観できるのか、という現実的なハードルをどう考えたら良いのでしょうか。

思い返せば、女子高生を拉致して監禁しレイプして暴行死させた上、遺体をコンクリート詰めにして沈めた少年グループ、ある会社に侵入してガソリンを撒いた上に火を放ち、逃げ惑う人々を刺して数十人を犠牲にした男、この有様をどうすれば「悪業を行ってくれてありがとう」と考えられるのでしょうか?

私はこれを思う時、悪は滅するには生温いとすら感じますし、できれば永遠に地獄の炎で焼かれて欲しいとすら思います。
しかし、それを人間の感覚ではなく宇宙や神々の視点で考えるならば、「これも世の摂理としては必要なことだった」と言えるとしたら、これらの出来事はどう解釈したら良いのでしょうか。

常々、人を貶め暴利を貪る連中ばかりが表通りの真ん中を歩くような、不条理極まりないこの社会を私は苦々しく思って来ました。
ただ、これも神々が「必要なプロセスだ」と仰るのだとしたら、その意味を考えてみたいのです。

私はこれを考える時、「水槽」が頭を過ぎります。
今、この社会において「ホット」なのは、権力とお金とステータスを持ち、軽快に生きる人々です。
彼らは物質や目に見える価値観に対して非常に強いパッションを持っているからこそ、この弱肉強食の社会を勝ち上がってこれたのでしょう。
彼らが水槽の中にある「熱湯」なのだとしたら、温かい水ほど軽いので水槽の上層部に溜まります。

彼らのようには物質主義の競争社会を勝ち上がれなかった人々は、温度が低い分底部に沈み滞留します。
それが世に言う「勝ち組負け組」であり、これは水槽の上澄の人々が名付けた仕組みです。
この上層に上がるために、私たちはこれまで目に見える価値観を追い求め、ステータスを必死で手に入れようとして来ました。

しかし、それほど単純な世界ではないのです。
水槽の中も循環し、高温と低温の水、淀んだ水と澄んだ水、色のついた水と透明の水、様々な水質が同じ水槽の中にあります。
私たちが社会を認識する時、この水槽全体を俯瞰してものを考えることが殆どできません。
どこかの位置の水を抽出して、そのサンプルを複数揃えて分析するに過ぎないのです。

そして「悪」とは、この水槽の中で最も淀んだ熱い汚水に宿るものであり、それがある時に別の水域へ紛れ込んで禍事を起こすのだと思います。
ただ、それは水槽全体で見れば、一定量の淀みの中で特に高い濃度の汚水であるだけで、その水が水槽の淀みを吸収している分、他の水質はクリアでいられるのです。

確かにこの汚水が清浄な水に流れ込めば、そこに悲劇を見出してしまうでしょう。
しかし全体で見れば、いずれ「起こる可能性がある」現象であり、そこで起こらずとも別の場所、別の形、別のタイミングで起こったはずです。
ゆえに、俯瞰した視点で考えれば混沌とした現実世界において、全く理不尽なことが起きるのも世界のバランスの中では必然とも言えるのです。

私たちは、こういった悲劇を繰り返さないために啓蒙活動をしたり、社会保障を作ったり法律を変えたりしますが、未だ犯罪そのものを撲滅することはできません。
「悪」という水槽の中の不可分な「淀み」を全て攫い出し、綺麗な透明の水だけにすれば平和的理想の社会が実現すると人々は考えます。
しかし、水は自ずと変質していくものであり、どんな清水も淀めば腐ってしまうのです。

こう考えると、「悪」とは必然的に存在してしまうものであり、必要悪こそが悪そのものとも考えられます。
従って、悪人や犯罪は確かに許しがたいものであっても、その個人的感情から上の視点に立ち、全体から意味を考えることこそ大事なのだと思います。

これが人だけでなく、悪霊や邪気といった類の存在もこの世界のシステムの一部なのだとしたら、その働き自体はこの世に必要なものでしょう。
例えば、私たちが全く身体を気遣わず適当な生活をすれば、いずれ風邪を引いて身体を壊すように、この世にウイルスが存在するから健康に気を遣うようになります。

同じように、マイナスの働きがあるからこそマイナスがあることに気づき、気づきがあればゼロに戻そうともプラスにしようとも考えます。
「悪」とは、バランサーの方側を受け持つ存在にしか過ぎないのではないでしょうか。

私は憑依に気づいた時、「祓い」によって悪霊や邪気を遠ざけようと考えていました。
しかし、祓っても祓っても終わることのない憑依の中で、本当に祓わなければならないのは「自分」だったことに気づいたのです。
私が憑依を払い除ければ済むと思うことは、自分は清浄な存在で何も悪くなく、霊障を受けるような心当たりも責任もない、と考えているのと同じです。
その考えにこそ「悪」が宿り、それゆえにこの「悪心」を断ち切らなければ根本的な祓いにはならなかったのです。

神仏に「祓い」を祈願する時、自分の外側にある厄や邪気を何とかしようと考えがちですが、本当の祓いとは自分自身に対して行わなければならないのだと思います。
自分に疾しさがあるから、その霊線を辿って疾しい存在が近寄って来るのです。
それならば、自分の疾しさそのものを浄化すれば、その霊線は断ち切れるはずです。

ここまで考え至り、私はこの世の「悪」に対してどういう感情を持てば良いのか、見えてきた気がします。

よく考えれば、神道の「祓い」も仏教の「供養」も、煩悩や邪気を浄化することで心を平穏に保ち、幸せに生きるというテーマは同じです。
それは死霊だけでなく、今を生きる自分自身の心にも大切なことです。
浮かばれぬ感情や念によって起きる執着は、肉体があろうがなかろうが手放しが必要なものであり、それゆえに祓い清められることで浮かばれるのでしょう。

日月神示にある「悪を抱き参らせる」とは、悪意への供養、救済であり、世界の罪穢れを請け負った存在に対する癒しなのだと思います。
それこそが「悪との和合」であり、悪を滅ぼす悪にならずに悪を善とする実践となるのです。

「供養こそが救済」と言う考え方において、神道も仏教もほぼ一致します。
それゆえ、飛鳥時代に仏典が日本に伝わった時、神道との共存が図られたのは宗教的目的が一致していたからかもしれません。
神道の究極の目的は「祓い清めによる救済」であるからこそ、人間は真の幸福のために魂の浄化を神々に促され続けるのです。

だから私は、少し時間はかかるかもしれませんが、この怒りをコツコツと浄化していくことにしました。
人の揚げ足を取りたくなるのは性格ですし、その性格の悪さが傍若無人な批判癖に繋がっているとも言えます。
この頑固さが悪を作り出し、私の心に憎しみや怒りを生み出しているのだとしたら、本当の原因はここにあるのです。

いつかこの感情を祓い清められた時、目の前で起こる悪事に達観しながら、「ありがとう」と言える境地にも至れるのかもしれません。
そこまでできたら仙人か神様の領域ですが、いざそうなってみるのも面白いかもしれません。