楽太郎です。
今朝、お風呂に入った時に鏡を見て、酷い顔だと思いました。
確かに昨夜は寝苦しくて何度か起きたのですが、寝たにしては目の周りが真っ黒でした。
こういう状態を見ると、とても自分自身の浄化が進んでいるようには見えません。
心に現れる霊障は、ほぼ無くなりました。
それでも尚感じる胸の痛みの原因がわからず、このモヤモヤが邪気を呼んでいる気がしていました。
この痛みは、湧き上がる感情を抑え込んでいたために起こるものだと気づいた時から、これまでのように必死に前に進もうとせず、自分の足元をきちんと見て歩こうと決めました。
今、制作中の「HARAEDO」ですが、若干方針の変更を考えています。
これまでは1ページないし2ページで1話完結としてきたのですが、あのお試し感は取っ払って完全なストーリーにしたいと思っています。
漫画という形式にも見直すつもりで、別のメディアでの展開を考えています。
漫画というのは、大抵8ページ以上ないと一つの話になりません。
ストーリー漫画はさらに長期のスパンが必要で、一人の作家が数ヶ月や数年を費やしてやる大作業となり、その制作環境を整えるために出版社を通して「連載」という形を取ることになります。
しかし、出版事業における漫画は商業的な成果を上げることが前提になるため、作品の完成度云々とは別の軸での結果を求められます。
編集者も頭を垂れるような大御所ならどんな原稿も通るのでしょうが、自分のやりたいことを出版の世界でやり続けるにはリスクを伴います。
「漫画家は連載してこそ一人前」という考えはその通りだと思いますが、自分が描きたい漫画を描くためなら出版社とのコネが必須なわけではないと思います。
私が考えているのは、漫画を描いて生活が成り立つなら一つの成功と言えるので、その程度にマネタイズできれば問題ないということです。
その方法はさて置き、自分が描きたい漫画はシノゴの言わずに描きたいなら描けばいいだけの話で、出版や商業に関してはまた別の話です。
最近の漫画は特に絵で魅せなくてはならないため、どうしても1話あたりの情報量は削られます。
制作コストと費用対効果を考えた時、「漫画」の持つ情報量に関するハードルをどう埋め合わせるか、それには「文章」と「演出」という形式的な補完によって可能になるのではないかと考えています。
それで、表現形式に関しては色々と実験をしている最中です。
あと、私の描く瀬織津姫命が何となく内観しながら感じる瀬織津姫様と、印象に違いが出てきました。
「HARAEDO」の瀬織津姫様はキャリアウーマン、という感じでしっかりした印象の女性です。
しかし、私が感じる瀬織津姫様はもっと華奢というか、可憐な印象を抱くのです。
デザイン云々のレベルの話ではなく、「瀬織津姫命」というキャラクターを描く時のイメージで、瀬織津姫様は思っているよりずっと少女性があるというか、もう少し儚い印象の神様ではないかと私は感じています。
あえて表現するなら、「透明感」だと思います。
その部分で、より自分の直感に合わせるように再構成していく必要があるように思います。
他の祓戸三神に関しては、むしろ三女神が漫画的な少女性が高く、従来の瀬織津姫命が格段に大人っぽい印象すらあったので、釣り合いが取れるかもしれません。
それをすると、ますます「プリキュア」っぽくなるのですが…
さて、スピリチュアルな話に戻します。
こうして自分を改めて見つめることで、前に進む道筋を知ることもできます。
これまで私の感じる波長には、神様からのもの、昔馴染みの小我のもの、霊的な自分としての魂、憑依体による波長が混在していました。
それらが全く異なる性質の波動ゆえに、私はよく混乱し自分を見失いがちでした。
今も尚、そのエネルギーが交錯して優先順位がわからなくなります。
湧き上がる感情が自分のものなのか誰かのものなのか、その感情を受け入れることは是なのか非なのか、心の中で取捨選択をすることすら難しいものです。
ただし、これらの感情は手放しや前に進むために邪魔になることの方が多かったのです。
神様の意志を実行し自分のやるべきことを実践する時、湧き上がる感情は手放しの対象ですらありました。
だから、基本的に感情は抑圧してしまうものであり、下手に情緒に流されると間違った因縁を招いてしまう恐れもあったからです。
特に私の場合は憑依によってあらぬ方向に引き摺り込まれる危険があったので、余計に感情を押し殺す必要がありました。
慈悲や愛着を感じるからと言って、良い人のように振る舞えばますます雁字搦めになって行ったでしょう。
そうしないために、私はわざと愛情を抑えていましたし、神様からも距離を取るように促され続けてきました。
それは今まで「自分の心を守るため」に仕方なかったと思います。
心を自分の制御下で死守しておかなければ、闇のものにいつ取り込まれてもおかしくなかったからです。
しかし、それはそれで自分の魂のエネルギーを抑圧していることになるため、苦しみを伴い肉体的な痛みにも跳ね返り、むしろ邪気を呼び込む原因にすらなりました。
その魂のエネルギーの正負の反転は、幽界との霊線を繋げ「魔」を呼び寄せる邪気にもなっていたのだと思います。
この波動の強さこそ、人間の魂が大神の「分身霊」であることの証左かもしれません。
これは私だけが特別な魂という訳でなく、誰しもが神の分身なのだから同じ仕組みであるはずです。
「祟り」という言葉があります。
これはある霊能者に教えて頂いたのですが、「祟り」とは「神(示+申)が出る」と書き、「神が守護から離れる」ことを意味するそうです。
逆に「崇める」とは「山に宗(たっとぶ)」と書きます。
日本人は古来より神々を山にお祀りしてきましたし、神を「尊ぶ」ことが「崇める」ことに繋がって来ました。
しかし、私たち日本人は神を崇めることを忘れ、それどころか信仰そのものを鼻で笑う風潮になってしまいました。
では、崇められなくなった神はどうするのかと言うと、「祟り」ます。
神が祀ることをしなくなった人間から離れる時、人間が生きながら負う罪穢れによって邪気や禍事を引き寄せ、その災いから守られなくなってしまうのです。
そうなった人間は陰気をまとい運気も下がり、自分自身が邪気を放って禍事をもたらすようになります。
これは神社仏閣に鎮座する神々を疎かにして起こることだけでなく、人間の心の奥深くにいる「分身霊」を粗末にすることで祟られることもあるのです。
人間は少し気が病むと誰かを攻撃して憂さ晴らししたり、気休めのポルノで自分を慰め、薬やアルコールに頼って気分を誤魔化そうとします。
しかし、その繰り返しでは自らの魂を裏切り続けることになり、いずれ自分自身という神に見放されていきます。
そうして自分が自分を守らなくなった時、「自分が自分自身に祟る」という禍事が発生するのです。
よく考えれば、あらゆる病気が生活習慣から起こるように、自分を偽り裏切り続ければ心身に現象として現れるのは、実際に認められることです。
私も、他人を道具としか思っていない上司の下で働いていた時も、金儲けのことしか考えないような会社に所属していた時も、「お金が必要」だからと無理に従い、自分の心を押し殺すうちに病気になっていきました。
自分自身の心に蓋をして否定し続ければ、いつか自分自身に祟られるのも無理はないのです。
だからこそ、自分自身を正しく「崇める」必要があるのです。
それは自分を神だと思い上がることではなく、「自分自身を祀ろうこと」即ち自分の心や身体を大事にして、素直に生きるということです。
これは生きる上で基本中の基本でありながら、なかなかできることではありません。
身体に良くないとわかっていても、嗜好品は摂りたくなりますし、やめられない癖もあります。
かと言って、無理にやめることを強制しても自分自身に反することになります。
この匙加減がわかるようになるのは、なかなか難しいものです。
しかし、「自分に素直になる」こと以上に自分を祀ろう、即ち自分を尊ぶことはなく、大事に思うからこそやるべきことが決まっていきます。
私たちは長らくこの感覚を忘れ、「こうしなければいけない世の中だから」「みんなこれをやっているから」「あの偉い人がこう言っていたから」と、自分以外のものを最優先にしてしまいます。
それは、自分以外の存在を祀ろうことであり、自分の神を崇めずに外の神を崇めることです。
その状態では、自分自身という「神」に裏切られるような出来事に見舞われるのも当然の話です。
私は自分の不調を通して、このことをよく理解しました。
神仏を信じ、瀬織津姫様をいくら崇拝しても、自分自身という神(分身霊)を蔑ろにすれば、神は崇めていないも同然だったのです。
これはなかなか盲点となる部分で、この信仰を疎かにして信心というのは成り立たないのだと思います。
それにようやく気づいて、今は無理に前に進もうとせず、一旦立ち止まることも必要だと思いました。
さすがに鏡で自分の顔を見て、幸せそうな顔にも浄化されてさっぱりした顔にも見えませんでした。
ここで意固地にならず、「俺は疲れてるんだな」と思うことにしました。
個人的に、ゆっくり考えなければならないこともあります。
これを良い機会にしてみようと思います。