楽太郎です。
昨夜、ほぼ思いつきで「7月の満月について」という記事を書きました。
その記事を投稿して寝ようとする直前、家の前を誰かが徘徊するような気配がして、玄関から外を見ても誰もいませんでした。
私は嫌な感じがしたので、念のため魔除けとして破魔矢を窓側に向けて寝ました。
それから夢を見ました。
私はどこかのお店の中にいるのですが、人語を話すツキノワグマが店の入り口のガラス戸に体当たりしていて、私は熊が店に入らないようにドアをずっと閉めて押し出していました。
ツキノワグマは、私の胸元程度の大きさもないため簡単に押し返せたのですが、その形相は血眼だったのを覚えています。
朝、変な夢を見たなと思い時計を見ると、5時をちょっと過ぎた当たりでした。
そう言えば天体的に満月はその時間付近だったので、昨日の記事との脈絡を考えたら一応説明はつく気がしました。
昨夜は満月による浄化の強い日だったため、逆に言えば邪気が最も暴走する日でした。
人間の集合意識は現在、これまでの時代を作り出してきた物質主義者と彼らをサポートする存在の支配下にあります。
彼らは彼らなりの正義を実現するために「神に仇をなしてきた」のです。
その彼らにとっての脅威は、神の意思を地上に降ろし地球意識と結びついた人々そのものにあります。
私が「精神界」と呼ぶ新しい時代の気場からエネルギーを地上に降ろし、地球意識を体現する人々の行動によって古い時代の気場は取り払われていくからです。
従って、彼らが血眼で攻撃をしたい相手は自ずと決まってきます。
今の世を支配する者たちは、自分たちの代替となる勢力を生み出したくはないはずです。
私はだいぶ以前から彼らの波長とぶつかり合ってきたのは本ブログで書いていますが、夢の中でガラス戸に必死に体当たりしても押し戻されてしまう彼らは、確かに私にとって恐怖そのものであるにしても、もはやぶつかってくる以外に何もできなくなりつつあるのです。
私は最近、この仇なす者たちが愚直に同じ手口で同じことを繰り返すだけのように感じ、「他の方法がもはや思いつかないのでは?」と考えるようになっていました。
まるで、今の人々が昔のやり方をひたすら踏襲するしかないように、彼らも無駄だとわかっていながらその方法以外の道筋を取ることができないように見えるのです。
それが哀れに思えるからと気を緩めるつもりはないのですが、どうも彼らが追い込まれているのは実感を持って認識してしまうのです。
起きて家の外を見回すと、やはり満月の日で雨天もあってか邪気が蔓延しているように感じました。
それにしては邪気が強すぎるし、不可思議に気場も荒れていると思いました。
毎朝、神棚をお祀りする際に祓いを行うのですが、今朝に限っては「日本のためにお祓いをしなければならない」という妙な緊張を感じて、気づけば1時間以上は祝詞を奏上し続けていました。
さすがに集中力も切れたので奏上をやめると、まるで冬山にいたかのように身体が冷え切っていました。
今日は比較的涼しいのでエアコンを止めて閉め切っていたので、これも不思議な感じがしました。
色々と妙なことが起きているのを感じながら、熱いお風呂にしばらく浸かりました。
ここまでは、今朝起こった奇妙な出来事の話です。
全てを俯瞰的に説明する文脈はあるのでしょうが、私にはまだ点と点が繋がっていません。
ただ、おそらく人世の気場というものは、かなり凄惨な状況になりつつあるのかもしれません。
確かに、夏至を経由してからのエネルギーの変化は凄まじいものがあります。
私自身は神様も邪気の存在も忘れるくらい身体のエネルギーが高まり、多動とパッションをコントロールするのが難しいほどです。
人々がどんな状況か観察しようにも猛暑がきつすぎて通行人を見ることも稀なのですが、何万人もいる街なのにそれほど人が住んでいるように見えないほど静まり返っており、私との温度差を感じます。
ふとすれ違う人たちを見れば、相変わらず楽しそうに生きているようには伺えます。
ただもはやエネルギーの種類が私とは違うというか、全く同じ人間なのに別の世界の住人のように感じるのです。
彼らの波長が云々という話ではなく、行動を引っ張ってくる原動力、言わば考え方や価値観から始まり習慣や生き方に至るまで、まるっきり別の力で動いているように見えます。
それは私と彼らの間の優劣とかそういうものではなく、「違う文化圏で生きている人々」という認識に近いです。
同じ日本人で同じ生活様式で暮らしながら、まるで他国の人みたいに感じるようになってしまいました。
確かに私は社会に生きる人間として浮いてますし、どちらかと言えば不適合者の部類に入るのですが、それに劣等感があるからではありません。
私以外の人々はきちんと組織などで働いていますし、例えやりたくなくても社会に求められる義務を果たしています。
それは大変立派なことだと思いますが、お金を得るための労働をするだけで精一杯のようにも見えます。
また、「昨日やっていたことを明日もやり続ける」ために今を頑張って生きているように思えます。
それ以外の生き方を選ぶのは確かに難しい世の中ですが、まるで不安から逃れるために「昨日までのこと」にしがみついているように見えてしまいます。
これまで積み重ねて来たことだから、それが現実だからと明日も同じことを繰り返せるように今を必死にやり繰りし続けることは、いずれその積み重ねが崩れた時に何をしたら良いのかわからなくなるのではないでしょうか。
将来が不安で、今の世に疑問が多く考えたくない理由もわかりますが、そうして今までのやり方に固執することで安堵を得ようとするのは、結局は問題を先送りにし続けているだけです。
もし私たちがこれからどうするか考える時、「絶対」と思われていた権威が失墜していく時代にあって、安心できる寄辺もない不確定性の高い世の中で、どうすれば幸せに生きられるのかを自分の中に求めていく必要があります。
「こうすれば一生安泰」のような社会のセオリーのようなものは、全ての面で今後揺さぶられていくでしょう。
またそう言った安全地帯は誰もが求めるので、結局は椅子取りゲームになってしまい、おそらく大した安心も得られません。
そんな状況の中で、例えフワフワと漂っていても芯が通っているような、そんな自由な生き方だけが自信に繋がり、あらゆるステータスも決して保障にはならないという覚悟は、確固とした生き方を後押しするはずです。
そうして「自分が何をやりたいのか、何をして生きるべきか」を考える時、自分自身を見つめる難しさや不安から逃げていては、いつまで経っても道筋は見つかりません。
人間は変化を恐れますし、自分自身を見つめることも苦手です。
だからと言って、外側だけに安心を求め続ける限り、自分の生き方はずっと見つからないのです。
この社会で生きる上で「お金」という問題をどうするかに関しては、私自身も言えた口ではなく、今も喫緊の課題であり続けます。
しかし、例え今の世が飽和仕切って雁字搦めの状況でも、どこかに突破口はあるはずなのです。
そして世の中が少しずつ崩れていく中にあって、その隙間に入り込んで広げていくこともできるはずです。
その方法は、既存の常識やセオリーに囚われているうちは、全く見当が取れないかもしれません。
だからこそ、自分自身を見つめていく中でそのアイデアが自分の個性に宿っていることを知り、それを掘り起こして道具に使っていけば良いのです。
誰かの批判や揶揄を気にしているうちは覚束ないでしょうが、そんな自分に自信を持った時に真のオリジナリティを発揮して突き進んでいけるのだと思います。
今、その実践が人々に求められています。
誰かや既存の何かに頼るのではなく、自分自身の内側に信じるものを求め、不安や迷いを振り払って独自の道を切り開く生き方が求められています。
それは確かに難しいかもしれませんが、そのために新しい地球意識の気場が開かれており、そのエネルギーに触れるために目に見えない世界と調和していくことも大切です。
もし自分自身を見つめるだけでは何も見えないのなら、手を合わせてご先祖様や神様にお祈りしてみるのも良いかもしれません。
目に見えない守護者たちは、きっとそんな私たちを応援してくださるはずです。
未来は、常に挑戦する人々に委ねられてきたのですから。