楽太郎です。
先日、「瀬織津姫想像図」という神をも恐れぬ記事を書き、そこで私の印象としての瀬織津姫様を描かせて頂きました。
私が心の中で感じる瀬織津姫様は、神様だから当然なのかもしれませんが、もの凄く真面目な方だなと思いますし、メッセージの鋭さの中にも柔らかさを感じます。
決して私がイラストに描いたような容姿で全てを物語れるわけではなく、思うに神様という存在は人間にとって限りなく「概念」に近いのです。
神は霊界より上の階層に暮らす高次元存在であるので、人間が霊として認識するレベルよりも遥かに抽象度が高い存在です。
あまりに波長が高いため、人格としての知覚より情報やエネルギーとしての感覚が先立ちます。
神様にも個性や考え方があるように私には見受けられるのですが、おそらく霊的存在は高次元に至るほど抽象度が高くなり、より純粋な概念に近い存在になっていくような気がします。
だから、私の描いた瀬織津姫様が実際にそのお姿である可能性は、どの程度あるかさえ疑わしいと思います。
ただ霊界も神様の世界も人間には量りかねるもので、「妄想する分には自由」ということにしておいて欲しいです。
それでも私の感じる瀬織津姫様の印象と私が実際の女性や架空のキャラクターに重ねてきた異性の理想像は、どうも瀬織津姫様が原型である気がしてなりません。
私はだいぶ幼少期からオタクが入っていたのですが、漫画のキャラクターを追い求めたりアイドルの追っかけをするオタクも、自分の心にある理想的存在への憧れから始まります。
その理想像は、自分自身の深層心理にある「自分の魂の欠けた部分」であり、心理学的に言えば「アニマ・アニムス」と呼ばれるオリジナルです。
私はユング心理学のスピリチュアル性はそれほど評価していないのですが、オタクが「アイドル」を求める傾向と心理的不協和の関連は深いと思っています。
私にとって「瀬織津姫命」という存在がどういう意味を持つのか、その謎はこれから数十年かけて解き明かすことになるのかもしれません。
ただ私の清純な女神を求める心は、私だけにあるものではなく、世には芸能界のアイドルを追っかける中年男性はたくさんいます。
もしかすると、私も彼らも同じプロトタイプの女性像を無意識に追い求めているに過ぎず、その行動の現れ方が違うだけなのかもしれません。
以前の記事で書きましたが、そのアイドルやスターを求める心こそ、人間が失った神性を取り戻したいという欲求であり、もちろん芸能人も人間ですし神聖にはなれないわけですが、人々はどうしても夢を見たがります。
そしてオタクは、それが夢だとわかっていても夢を追い求める存在であり、私たちは時に自嘲気味に「空想と現実の区別がつかない」様を面白がるのです。
オタクという種族は、それゆえ一般大衆から気色悪く見られますが、実際は偽情報やマスコミのデマを間に受けておかしな行動に走る人々ほど「空想と現実の区別がつかない」人が多いです。
オタクは、自分たちがあり得ない幻想を追い求めていることを知っている分、半分目覚めています。
自分が完全に虚構の世界にいることに気づかず、何の疑いもない状態の方が危険なのです。
おそらく、人々は芸能人や成功者だけに「神性」を見て憧れ追い求めるだけでなく、身近にいる人や伴侶、愛するペットや大事にしているモノ、ブランドや「お金」も人間にとっては神の象徴に置き換わるのだと思います。
魂から湧き上がる神性への欲求は、本来なら信仰という形で直接神に向かう以外に、人間は「神っぽい何か」でそれを埋めようとします。
現実的に目に見える「神っぽいもの」で神性に対する欲求をあり合わせることで、魂の渇望は一時的に癒えていきます。
しかし、あくまでそれは神性の代用であって、神的霊性には置き換えられません。
例えば恋人に理想の異性像を見て、神に奉仕するように付き合っても相手は一人の人間であり、理想はいつか壊れます。
神の代用品が人であろうとモノだろうと、形あるものは完全に神になり変わることはできません。
それが何故かと言えば、形あるものはいずれ形を変えていきますが、神は不変であるからです。
この世が諸行無常であり、自分が追い求める行為を繰り返すたびに信仰の象徴は変わりますが、追い求めるイデアはずっと変わりません。
それを気づくまでに人間は長い時間をかけてしまうのですが、人生をかけてこの結論に辿り着けない人もたくさんいます。
むしろ、これまでの世は欲望と消費という市場経済
によって、自分の真の欲求が「神」という存在に向かうことを誤魔化し、その気づきから逸らされ続けていました。
私自身ですら、ことスピリチュアルにのめり込むまでは、単なるオタクとして二次元コンテンツのキャラクターを追い求めてきましたし、そういった関連のコンテンツを作ってきました。
そのことに全く何の違和感も持っていないどころかオタ活も推し活も楽しいもので、むしろやり甲斐すら感じていました。
しかし、奇遇にも「瀬織津姫命」という女神をきちんとお祀りするようになってから、自分の中のフラフラした渇望感は徐々に薄れていきました。
自分が霊的に求めてきたのは「信仰」であり、神との繋がりによって人間社会では得られない霊性を補給し、目に見えない存在の導きによって迷いがなくなることだったのです。
魂のレベルで感じる不足感や不安の解決方法が、まさか「神社に参拝して特定の神様のご神札を拝領してきちんとお祀りする」ことであると、どうすればこの答えに辿り着けるものなのかと未だに思います。
なんか、わざと簡単に答えが出ないような引っ掛け問題を出されて、とてつもなく長い時間をかけてその問題を解かせられてきた、そんな風にも感じるのです。
その答えがなぜこの数年で急に解けるようになってしまったのかわかりませんが、そこに神様の思惑があるならば、正解が出るまでバカでもわかるヒントをギリギリまで出してもらっていたのかもしれません。
だから余計に瀬織津姫様には頭が下がるというか、どうしても神の導きというものを否定することができない立場に置かれてしまったのです。
この出来事と「地球の次元上昇」という時期の関連は不明ですが、何らかの役割が私に与えられているのは間違いないのだろうと思います。
瀬織津姫様が自らを明かした上で私を導き、こうしてご自身の創作をお許しになられていることは、今の時代だからこそなのかもしれません。
神様は、おそらくこれまでの時代では表に出たくても出て来れない状態にあったのだと思います。
私の感覚では、今は神社に行っても神様から積極的に人間の相手をして頂けないように感じます。
おそらく、少しずつ時間をかけて神様たちは人間から距離を取るようになって行ったのだと思います。
日本人は神のご利益と言えば現世利益と考えがちなのですが、その恩恵は神々をきちんとお祀りし、奉仕するから得られたご神恩だったのです。
第二次世界大戦によって焼け野原となった日本は、物不足の世にあって復興に尽力しなければならなくなりました。
その復興を後押ししたのは戦勝国のアメリカだったのですが、モノ作りが盛り上がり物質的に豊かになっていくにつれ、戦争中に神も仏もないことを悟った日本人は、ますます神仏を敬わなくなりました。
そうして始まった戦後教育は自虐史観と左翼思想に染め上げられ、その教育システムによって支えられるアカデミズムと学歴社会によって、日本人の思想は唯物史観に変わっていったのです。
その後の経済発展と国際化によって、日本人の精神文化は完全に後手に回っていきました。
拝金主義が蔓延り、物質的な目に見える幸福の形を追い求めることは、日本人が本来望む性質のものを違う形で供給し続けてきたのです。
そうして荒廃した人々の感受性は、今の社会的混乱に繋がっています。
いくら求めても消費しても満たされないのは、本来求めているものが違うからです。
今の人々には、それが何であるかを知る術はほとんどありません。
しかし、こうして瀬織津姫様を始め前に出て来られる神様が現れたことは、新しい兆しかもしれません。
YouTubeなどでも、神の代弁をする人も増えて来ました。
これはそれぞれが個人的に受けたメッセージを個人的に解釈して個人のやり方で表現しているものなので、誰が真実で誰が間違っているということはなく、それぞれの発信のあり方を神様がお許しになられていることの方が重要です。
もちろん、その啓示を与えているのが神様ではないパターンもあり、注意は必要です。
例えば私が瀬織津姫様からメッセージを受けて知らせても、「瀬織津姫様はそんなことは言わない」という人も中にはいるでしょうし、審神者の能力もそれぞれ違います。
結局は、神様のメッセージを受け取って行動する人間がどんな役割を演ずるのかが本質であって、事実云々ではないと思います。
ある種の啓示を間に受けて、それを現実にどう反映させていくかにスピリチュアリズムの本質があるのです。
今、スピリチュアルな分野だけでなく多くの人に神々は強くアプローチしており、それはおそらくこれまでの歴史になかったことです。
それほど神様が前面に立って動かれる世というのは、明らかに画期的と言わざるを得ません。
地球が次元上昇する件にあって、人類は西洋的物質文明の円熟期にありました。
それと入れ替わるように立場を変えられた神様たちを鑑みれば、やはり時代はこれから根本から変わって行くのでしょう。
それは「神々の帰還」を意味します。
これまで、神々はなりを潜めていたからこそ人間は好き勝手にやれたのです。
しかし神々が何千年か越しに秩序を司る時代になれば、もう少しはマシな世になるかもしれません。
私をそれを「神世」と呼んできましたし、ずっと待ち望んできました。
その世界がいよいよ到来した、そんな感じがします。