楽太郎です。
先日、「悪霊の正体」という記事の中で、私の過去のカルマの一現象として父の憑依があり、そこから呪いを受けているという話をしました。
その後、私の自己浄化が進むにつれて父も正気を取り戻し、いつもの親子関係に戻りました。
この山を乗り越えたから過去の私の行いが精算されたというと、それほど単純な呪いを父にかけていた気はしないので、まだまだカルマは精算して行かなければいけないのだと思います。
今回の霊障が軽くなったのは、一つのウェーブが終了したに過ぎず、まだ違う形でカルマの精算は迫られてくるのでしょう。
私はこの数年かけて、長年積み上げてきた「負のカルマ」を精算する流れにありました。
「業(カルマ)」とは仏教用語で、一般的には悪いものばかりを指すように扱われますが、「因果応報」という「自分のした行いは何であれ自分に返ってくる」という宇宙法則の中では、良い行いも悪い行いも全て「カルマ」です。
良い行いも悪い行いも「報い」としていずれ起こり、悪い行いの報いから今世で逃げ切れたとしても、来世に持ち越せば次はもっと理不尽な不幸に見舞われることになります。
だから、早いうちに悪いカルマは返済し、これから悪いカルマを積まないために改心して気をつけて生きていけば良く、背筋を正して生きていくのに越したことはありません。
もちろん、今の人生における人格では、過去世の自分の行動の責任を取ろうにも赤の他人のように思えますし、他人の尻を拭くようで理不尽にも感じるでしょう。
しかし、現世の自我こそ「仮初」のものであって、本体は霊体であり魂です。ゆえに、仮初の自分が理不尽な目に遭い苦痛を味わうことが、自分が過去世に他人に味合わせた苦痛の再現となるのです。
「覆水盆に返らず」という諺がありますが、器に入れた水が溢れたとして、また水を入れても同じ状態の水にはなりません。
一度溢れた水はもう取り返しがつかないので、水を器から溢さないように気をつけるのがベストです。
これは人生にも対人関係にも言えることですが、誰かを傷つけて関係が完全に戻ることがあまりないように、人を常に思いやる努力をすることが大切です。
私は父との関係について反省し改心したつもりですが、それでも過去の過ちは消えるわけではありません。
だからこそ少しずつ懺悔しながら、父を慮り父から赦しを得ることに感謝しながら、関係を大切にして行こうと思っています。
しかし、こういうことは10代の思い上がった若者にはわかりませんし、ましてや後期高齢者になってもわからない人はザラにいます。
特に唯物主義で現金主義の現代では、こんな話は忌み嫌われて誰もが耳を塞ぎたがります。
だから誰も語らず、高名なお坊さんが言うから説得力のあることで、普通の人はこの法則に気づく機会すらありません。
私が「人を思いやることが第一」だと気がつくまでには相当な道のりがあり、それも多くの人々に迷惑をかけてきたからこそ、ここまでカルマを溜めてしまったと言えます。
これまでの時代が酷かったので不可抗力と言えばそれまでなのですが、悪いことをして迷惑をかけたのは事実であり、「知らなかった」で罪は帳消しにはなりません。
近現代は人治の世だったので、「知らなかった」と言えば「じゃあしょうがないな」で許される世界だったのです。
けれど宇宙法則は継続しているので、人間の世界で許されて悠々自適に人生を終えても、来世はどうなるかなど人智は及びません。
その罪の重さ、どういう経緯で罪を償うのか、それは神々だけが説明ができることです。
ゆえに、現世で良い思いをしただけの悪人が死後どうなるかは、人間に推し量れるものではありません。
私たち人間は、こうして生きているだけで知らず知らずのうちにカルマを溜めてしまうのですが、神道的に言えば「罪穢れ」です。
罪穢れは祓い清めることで取り払われ、晴れて健康で幸福な人生を歩むことができます。
けれども、自ら行いを悔い改めようとしなければ、負のカルマも罪穢れも蓄積していくだけです。
私は仙台在住ですが、東北では2週間近く危険水域の猛暑が続いています。
近所の川も干上がり始め、渇水の心配もあり、このままでは田畑に水を供給できず農産物の不作も懸念されます。
人類は宇宙にフロンティアを求めて火星に移住しようとしていますが、それ以前に日照りで水不足に陥る状況すらまともに手を打つことができません。
私は今、自分だけでなく日本人全体に「カルマの解消」が迫られており、この夏の猛暑もその一環のような気がしています。
それどころか、2020年ごろから日本には良くないことしか起こっていません。
パンデミックや情報社会特有の混乱、社会制度の悪用、外国人移民によるトラブル、能登半島沖地震、インフレに伴う物価高、人工的な米不足。
災害は置いておいて、社会の混乱は日本人が自分たちで何とかできた範疇の事柄です。
政治に関しては我関せずかマスコミの言う通りに投票して今の状況にあり、社会全体のモラルの低下も日本人がまともな思想を持たずにやってきたからです。
一人一人が自分に芯を持って物事を判断して行動していれば、このような状況は回避できたはずです。
自然環境に関しては、「天気」というくらいですから神様のご気分次第です。
それでも、減反を放置して米を食べてこなかった日本人が、今になって米が高くて食べ難くなり、この日照りで稲が不作となればいよいよ「天罰」の気配すら出てきました。
日本人はこれまで食べ物を大量に作ってそのまま捨てるような飽食の時代が長く続いてきたので、食後のデザートはおろか日に日におかずが一品ずつ少なくなっていく生活に直面しているのは、何の因果でしょうか。
これはどう考えても巡りのようにしか思えず、私たちはこれまでの生活で蓄積してきた「負のカルマ」を返済していくフェーズに入っているのかもしれません。
先日の記事で書いたように、因果応報による不幸や災難は、宇宙法則なので神々の守護を貫通するのです。
そして、おそらく負のカルマは善のカルマ、即ち善業を積んだことによる福徳によって相殺される性質ではない気がします。
例えば、某有名アイドル始め芸能人がスキャンダルで引退することが相次いでいますが、「あんなに色々な人を楽しませたのだから無罪放免にすべきだ」と言う人はあまりいません。
実際、過去に色々やっていた人は社会的信用を失くすことで報いを受ける結果になりました。
過去に良い行いをしたからと言って悪い行いが無くなるわけではなく、やはり「悪いことは悪い」のは人治の世界でも変わりません。
「良い行い」をして人々から得た対価によって富や幸福を手に入れることと、「悪い行い」をして人を陥れて得をした罪は、全く違う性質の事柄です。
だからこそ、「負のカルマ」は負のカルマとしての返済を求められるのだと思います。
それは結果的に自分の善業すら汚してしまうものになり、実際に問題を起こした有名人に対して「ファンだった」とすら言えない空気になってしまいました。
おそらく、カルマの解消は神々から求められる時、応じた瞬間に発動するものなのだと思います。
「応じる」というのは、霊的次元の話であり現世における人格的反応を必ずしも意味しません。
借金の借用書を出された時に、お金を借りたのは自分なのだからと、大人しく有り金を差し出すか物品の差押えを選ぶかは本人次第です。
借金の取り立てから逃げ続けることもできますし、借金のアテを他の金融業者に頼ることもできますし、「金なんて借りてない」と開き直って暴れ回ることもできます。
ゆえに、借入の返済は素直に借金を返す良心のある人から先に始まります。
おそらく、それは霊的な次元における「カルマの返済」に関しても同様であり、悪人ほどカルマの返済時に起こる不幸は後回しになっていくはずです。
しかし、後回しにしている間も借金をし続けているようなものなので、神々からすれば利子がついていくことでしょう。
それは「罪を償おうとしない」という負のカルマに繋がっていくからです。
従って、カルマの解消が遅ければ遅いほど降りかかる不幸は大きくなり、破産した時の悲惨さも目を当てられなくなるでしょう。
私のカルマの返済状況を見てもかなり酷いものだと思うのですが、私自身全く善良に生きてきたとは言えないまでも、私以上に酷い行いをしてきた人々はザラにいます。
下手すると、地獄に堕ちるだけでも足りないような状況に陥る人だっているはずです。
こういう話をすると、ニーチェが「ツァラトゥストラ」に語らせた弱者のルサンチマンみたいに見えますし、「言っても実際そうはならないでしょ」という感じになるのもわかります。
これまでは人治の世界だったので、被害者の告発も問題の提起も誰かに金を握らせれば封じ込めましたし、当事者を全員この世から消してしまえば最悪なかったことにできたのです。
しかし、それは「今までの時代は」の話です。
おそらく、2020年以降この国にカルマの精算が迫られているからには、もはや神々に対して言い逃れが許されない状況が始まっているのだと思います。
「因果応報」が規則通りに発動する世界線になったからこそ、「絶対的権威」とされていたものが容易に脱落していく世となってきました。
その厳格さは、これまでの時代にはなかったことです。
「日月神示」では、国常立神が高天原を再び支配することによって未来永劫の「弥栄の世(ミロクの世=神世)」が始まるとされます。
それまでの三千年は「闇の時代」であり、神の道への岩戸が閉ざされたことによって訪れたと言われます。
そして、「天照大御神の岩戸隠れ」の時、騙そうとした神々が騙された神を引っ張り出したことで、その一つは起こったと語られます。
もし高天原の最高神が大日月大神たる国常立神に代替わりし、或いは地球を支配する神格が変わるならば、この世のルールが厳格な形に変わっても不思議ではありません。
そして神示の中で日月神が語るように、「大峠」は魂や霊界を中心として起こるものであり、そのキーワードが「改心=祓い清め」であると言います。
ゆえに大峠というのは、人類の歴史上最大の「負のカルマの精算」であり、それを乗り越えて借金ゼロにして始まる世界が「弥栄の世」なのではないでしょうか。
借金の取り立てに訪れる怖い人は、実際に悪いかどうかはともかく「金を貸した事実」があるから借入主に返済を迫るのです。
借金取りに来るような人は強面ですし、怖いので不幸にも感じるかもしれず、それは現実には「禍事」のように見えるでしょう。
禍事が起きれば呪われているとか、どうしてこんな不幸が起こるのかと嘆きたくなるはずです。
しかし「禍事」というのは、悪いことが世に起こることで世を正常に戻す働きがあるのです。
「禍」という漢字は、古代の中国で骨を焼いて吉凶を占ったことに由来します。
それに日本人が「マガ」と当てたのは、どうやら「関節は曲がる」からだそうです。
つまり、日本人からすれば禍事は「物事が曲がること」、即ち自然に上手くいっていた流れが歪み、上手く行かなくなることが「災い」として考えられたのだと思います。
イメージの話をすると「真っ直ぐに伸ばした関節は曲がることもあり、曲がったら自分の力で真っ直ぐに伸ばせる」のです。
物事が曲がることで悪い出来事が降りかかるならば、「曲がったことを知らせる」のが禍事であり、物事が捻じ曲がっていることを象徴するのが「悪」の役割です。
だから、私たちの目の前に起こる不幸、「禍事」は祓い清めのきっかけのために起こるものであり、罪穢れの危険値を知らせるものなのです。
だからこそ、自らに悪事が起きれば犯人探しや責任の追求をして終わらせるものではなく、人々が本当にしなければならないのは自己の反省と実践です。
自分たちが知らずのうちに積み上げた罪穢れゆえに自らに降りかかる災いや禍事だからこそ、その罪と向き合って償っていくことが求められます。
それは「全く自分には関係がない」と感じるかもしれませんが、罪の形が違うだけで災いが降りかかる以上、やはり何がしかの因果はあるのです。
この「カルマの解消」の時、口だけや気持ちだけで罪と向き合っても意味はありません。
思考と言葉と行動、つまり身口意が一緒になっているからこそ、実際に身の回りの後片付けが進みます。
それは心を正しく持ち、自分の行いを受けきるくらいの気持ちでなければ難しいでしょう。
おそらく、大切なのは「もう悪いことはしません」という禁則を立てることではなく、「自ら繰り返さない状況にすること」です。
即ち環境を変えるために動くことが償いであり、罪滅ぼしであり実践となるのです。
おそらく、この日本に降りかかる「禍事」は、これから無神論者でも「なんかあるんじゃないか」と思うレベルまで現象化していくはずです。
そして全人類が「神は存在する」と思うところまで行かなくても、大抵の人が今までのやり方に懲り懲りする程度には反省させられそうな気がします。
そこで日本人を始め世界中の人々が懺悔をしきれば、状況を悪くするような物事が見直される以上、それからは明るい世となっていくはずです。
私はこの数ヶ月、特に夏至以降は特に「非日常感」があって、何となく現実感が薄いというか、日々の冗談のような悪いニュースに共感する気持ちも以前とは違います。
何となく神秘の世界に入っているような、そんな不思議な感覚です。
これが新しい世界に差し掛かるからこそ起こっていることだとしたら、やはり「大峠」は始まっており、神世は近いのだと思います。
ただ、それまでの辛抱がどれくらいか、いつまで続くかは誰にもわかりません。