「富士・鳴門」の仕組み

楽太郎です。

昨日は私が予告していた11月20日新月でした。
私だけが勝手に「実際に出雲で神々の会合がある」という話をしていましたし、いわゆる言い出しっぺだったので、一応は報告する義務があります。

実は神様の世界では20日の早々に終わっていたらしく、新月自体は昼過ぎなのに昼前には切り上げておられたようです。
今日になって、逆に空気が張り詰めている印象があるのですが、どうもこれから年末にかけて「邪気祓い」が本格化する予感があります。
イメージとしては「年末の大掃除」、まさに神々の「師走」という感じです。

10月満月の「天王山」以降、若干「膠着状態」にあった世のエネルギーは、おそらく「冬至」に向けて強い「邪気祓い」いわゆる浄化が働いていくと思います。
「強い浄化」が働く時こそ、逆に「邪気」が吹き出すので、この1か月はしばらく世が荒れるかもしれません。

「ただでさえ」という感じもしなくもないですが、現状を俯瞰して見ると「悪の親玉」は綺麗に姿を消している感じがあります。
今頑張っている邪気というのは「背水の陣」だから、余計に盛り返そうと必死なのです。
ゆえに強弁や強行手段に打って出る行動が目立つのであり、霊的なエネルギーで言えばひと月前にだいぶ削り取られた印象なので、徐々に具現化してくるはずです。

今、日本の経済危機が叫ばれ始めており大多数の国民は不安でしょうが、残念ながらあと一・二段くらいは「下がる」かもしれません。
「日月神示」では「九分九分九厘」と言われてますし、あと何厘かはわかりませんが、「もうやめてくれ」というくらいまでは締め上げられるのではないでしょうか。

ただ日本人は我慢強いですし、この期に及んでポシャるということは考えられないので、何となく持ち堪えてしまうと思います。
今、高市総理の失言問題で中国が輸出入禁止を口にし始めてますが、実際のところ日本が中国に対する輸出品目を全て国内に回せば、国際貿易が一時停止しても日本は国内消費を問題なく賄えたりします。

まさかとは思いますが、わざと対中関係を悪化させて海産物などの品目を国内に還流させるための失言だとしたら、まさに「神懸かり的失言」でしょう。
中国からのレアアース輸入制限で自動車製造業界に懸念が広がっていますが、円安情勢で一番得している上に、希少金属の中国依存度も実際問題低いのですから、ああいった既得権益組織も泣き言を言わず、国民の感じる痛みを少しくらい感じるべきではないでしょうか。

私は全く自民党には期待していませんが、少しずつ何かが動き始めている印象はあります。
「日本」が面白くなってくるのは、まさにこれからではないでしょうか。

さて、今回は「日月神示」の解説です。
日月神示に頻出する「富士」「鳴門」の仕組みとは何か、について解説していきたいと思います。

真の天照大御神は「黄泉」にいる

前回、「真の天照大御神について」という記事の中で、「伊奘冉命が真の天照大御神であられる」という説を紹介しました。
その際、真の天照大御神が依然「岩戸」に隠れておられるという、神示の内容を引用しています。

「岩戸」は「天の岩戸」と「地の岩戸」の二重扉となっており、「天の岩戸」は80年前に開かれている、と「大峠を読み解く」の記事で述べました。
「至恩の巻・第八帖」では「ナミの神」が火の神をお産みになられた後、「黄泉の国」に赴かれたことに対して「ナミの神はやがて、九と十の世界に住みつかれたのであるぞ」という言い方で表現がなされています。

また同「第十帖」では「国常立神も素戔嗚命も、大国主命も総て、地にゆかりある神々は皆、九と十の世界に居られて、時の来るのをお待ちになっていたのであるぞ」とあります。
これだけ読むと、「伊奘冉命」も「伊弉諾命」も同じ「九十(コト)」の世界に共におられる印象があります。

しかし、「天と地」の間は「千引きの岩」で塞がっているから「神の道」が閉ざされているのであって、同じ「九十の世界」とは考えられず、これら「天の九十」と「地の九十」はそれぞれ違うと考えた方が妥当です。
では、「真の天照大御神」こと伊奘冉命がおられる「九十の世界」とはどこかというと、やはり「黄泉の国」すなわち「幽界」ではないでしょうか。

神示には「天と地」の間にある「凹凸」によって、歪んだ「気」が幽界を作り出したと書かれています。
その補足として、「白銀の巻・第五帖」には、こうあります。
「天地の中間を中界と申す、天の息吹きと地の息吹きの中間ぞ、天国へ行くも行かんのも、先ず落ちつく死後の始めての世界であるぞ」

この「中界(幽界)」が天に属すか地に属するかは微妙なところですが、この「現界」が霊的事象は視覚化されず、あくまで物質偏重の世界である以上、中途半端な霊界は「天」に属するのではないでしょうか。
「まこと(〇九十)」の世界は、「〇一二三四五六七八九十」の世界とされます。
地上世界が八方的空間であり、神が単身で産みうるのは七ないし八神、という文言から推察するに、天界も「一二三四五六七八」までが限界の世界になっていたということだと思います。

「白銀の巻・第二帖」には「竜神と申しているが、竜神にも二通りあるぞ、地からの竜神は進化して行くのであるぞ、進化を嘘だと思うは神様迷信ぞ、一方、天からの竜神は退化して行くのであるぞ」とありますが、「天」が「地」を志向し、「地」が「天」を志向するとすれば、天界の「九十」の世界は「地の方=下界側」にあると考えられます。

「九と十、〇」の世界は神界と切り離されており、天界において隔離された世界とは「幽界」以外に考えられません。
ゆえに伊奘冉命は、神話上「火迦具土命」をお産みになられて亡くなられたことになっていますが、やはり事実上「黄泉の国(幽界)」を司っておられるのかもしれません。

とすると「真の天照大御神」が「岩戸」の中にいるという記述も、それが「黄泉の国」なら説明は矛盾しません。
ただ「天の岩戸」は神界において「1945年旧九月八日」に開かれたと考えられ、地上時間では既に「天の岩戸」は開かれているので、神界は「〇一二三四五六七八九十」に統合された世界になっているはずです。
ならば伊奘冉命は「九十」の世界を離れ、すぐにでも地上世界に姿を現すことは可能と思われます。

しかし2025年現在、未だに「地の岩戸」は開かれていないため、現界から見れば、天界は未だ岩戸が閉じられているに等しい状態なのだと思います。
それゆえに「国常立大神」は降臨できず、「素戔嗚大神」や「大日月大神」のご神威が示されない状態にあるのではないでしょうか。

「同じ名の神二つ」の意味

先の「真の天照大御神について」の記事の中で、「神の魂は性別が逆転している可能性がある」と話しました。
神々にも人間と同じ「魂」と「肉(霊)体」があり、「魂と肉体は逆の性質を持つ」という説は、日月神示を間に受けないとなかなか辿り着けない考え方です。

伊奘冉命は「日=火」の魂を持つがゆえに神魂としては「男性格」ですが、御神格としては「女神」であり「陰属性」の玉体をお持ちになられます。
対して伊弉諾命は「月と夜と滄海原」を治らす神であり、「水」を司るがゆえに「陰=女性格」の御神魂を持ち、玉体として「男性=陽」の現れとなります。

神示には「同じ名の神が二つある」とたびたび言及されていますが、詳しく述べられている箇所が「青葉の巻・第十三帖」にあります。
「同じ名の神二つあると申してあろう、同じ悪にもまた二つあるのじゃ、この事は四海の火水(ひみつ)ぞ」

神示の話法では通常「善の働きと悪の働き」のことであり、人間が善悪二元論で神を評する時、「和魂」と「荒魂」で神を分けて考えることに繋がっています。
「禍事」を起こす神は、一つの神の働きであっても人間からは「善悪」として見えるため、正しく神を知ればそれが「表裏一体」であり「善悪ではない」という真実を理解できるのです。

それ以外の用法として「男の魂は女、女の魂は男」とあり、「天つ巻・第三十帖」にはこう述べられています。
「手足は沢山は要らぬのだぞ、火垂(ひだり)の臣と水極(みぎり)の臣とあれば良いのだぞ、「ヤ」と「ワ」と申してあろうがな」

「光の巻・第五帖」には「ヤとワは火の中の水、水の中の火であるぞ」とあり、やはり「ヤ=左」は「日の神・伊奘冉命」、「ワ=右」は「月の神・伊弉諾命」と言うことができます。
「青葉の巻・第二十一帖」には「神の動きは、アヤワ㋳㋻だと申してあろうが」とありますが、これには注釈が必要です。

「至恩の巻・第七帖」に、こうあります。
「根本の元の元の元の神は〇から一に、二に、三に、四に、五に弥栄したのであるぞ、別天津神ことあまつかみ五柱と申してあろうがな、五が天であるぞ、五は数であるぞ、転じて十となるなれど、動き栄えるには+と−の神が現われねばならない、これが中を取り持つ二柱の神ぞ」

つまり「ヤ=ナミの神」「ワ=ナギの神」とすれば、「天の御三体の神」で言えば「ア」とは「天御中主神」「ヤ=高神産日神」「ワ=神産日神」、「地の御三体」とすれば「ア」は「つきさかきむかつ姫命」、「ヤ=伊奘冉命」「ワ=伊弉諾命」となります。
しかし㋳㋻とは「悪神」としての二柱神であり、それを意味する文章が「青葉の巻」にあります。

「神の動きは、アヤワ㋳㋻だと申してあろうが、それをヤワ㋳㋻となし、ワ㋳㋻と致し、㋳㋻となし、㋻㋳にして、分からんことに致したのじゃ・タマ無くなって、その上に上下、下がひっくり返っていると申してあろうがな」

これは「神の道」を塞いだ「岩戸閉じ」に関する文章と読み取れ、実はこれが「岩戸開き」すなわち「富士・鳴門の仕組み」を解き明かすのに重要な文章となります。

「ヤ」と「ワ」が働く時に「+」と「−」の性質を持つ「神」が現れることになります。
これが「ナギの神」「ナミの神」とされますが、「ヤの+(陽)」が「ナミの神」だとすると、「ヤの−(陰)」もまた「ナミの神」として現れます。
これが「同じ名の逆の働きを持つ神」であり、「ワ」の「ナギの神」も同様です。

つまり「㋳㋻」とは「悪神として現れる正神」の働きであり、これは厳密に言えば「邪神」とは異なります。
私たちは大雨や洪水をよく経験しますが、それを「祟り」と思うことが殆どないように、自然災害に善悪がないこともよく知っています。
ただ、それが「損か得か」という観点での「良し悪し」で言えば、やはり災いは「良くないもの」なのです。

しかし地震にしろ津波にしろ、例え人間が「良くない」と思っていても、自然の摂理は当然受け入れなければなりません。
これらは「良いこともあれば悪いこともある」という、表裏一体の現象で言えば「当たり前」の話であり、本来は「一つ」の現れに過ぎないのです。

「青葉の巻」の一節は、そんな「神の摂理」に対して「善と悪」で切り分けたことが、次第に形骸化して最終的に「神に悪がある」という考えに繋がったことを揶揄しているのではないでしょうか。

この「形骸化」は本来の物事である「◉」から「◯」に変わったことを意味し、「◯」になったことが問題なのだから「・(キ)」をカタに入れ直そう、というのが「岩戸開き」の基本コンセプトなのです。

◯に・を入れることが岩戸開きの鍵である」、まずこれを頭に入れた上で、岩戸開きの重要概念である「富士」「鳴門」の仕組みを詳述していきたいと思います。

「ウ」と「ム」が全ての原型

「春の巻・第四帖」では、さらにこう述べられます。
「(◯の縦線)かみがよろこびであるぞ、(◯の横線)カミも喜びであるぞ、よろこびにも三つあるぞ、(◯の縦線)は表、(◯の横線)は裏、表裏合わせて(◯の十字)かみぞ、(◯の十字)は神であるぞ、神であるなれど、現われの神であり、現われの喜びであるぞ、(◯の十字)のもとが⦿おおかみであるぞ、キであるぞ、元の元の太元の神であるぞ、△であるぞ、△から▽生まれ、▽から△生まれるぞ、同じ名の神二つあると申してあろうが」

今回も特殊記号は出せないのですが、あらかた前章で述べたことが書かれています。
「・(キ)」は拡大すると「◉」であり、「キの元」も「◯」と「・」に分かれていることがわかります。
そして「同じ名の神二つ」というのは、「ム」から「ウ」が生まれ、「ウ」から「ム」を生むことの「二つの働き」を示すと書かれています。

これはどういうことか、図で示した方がわかりやすいと思います。

今になって考えれば、これだけの内容を一枚のスライドに入れるには複雑すぎたかなと思いますが、とりあえず順繰りに説明していくので、まず左上に注目して頂きたいと思います。

「夏の巻・第十三帖」には、こうあります。
「ウとムは相互いに相反するのであるが、これが一つになって、動くウム組み組みてと申してあろうがな、今の人民の智では中々解けん、ウの中心はム、ムの廻りはウであるぞ、中心は無限、周辺は有限であること知れよ」

つまり、「◯」の中心たる「・」は「ム」であり「無限」を意味します。
対して辺縁となる「◯」は「有限」であり、それを「ウ」と呼ぶのです。

では「ウム」とは何かというと、「黄金の巻・第四十七帖」に重要な文言があります。
「ナルとは成る言ことぞ、成るは表、主ぞ、ウムとは(六芒星の中に丶)のこと、生むは裏、従ぞ、ナルは内、ウムはソト、ナルには内の陰陽合わせ、ウムにはソトの陰陽合わせよ、成ると生むは同じであるぞ、違うのじゃぞ、成ることを生むと申すことあるぞ、生むこと、成ると見ることあるぞ、ナルとは🌀こと、自分が大きく成ることぞ、自分の中に自分つくり、内に生きることぞ、ウムとは自分の中に自分つくり、外におくことぞ」

私はこう解釈しました。「ム」から「ウ」、つまり「・」から「◯」に向かう力が「ウム」であり、対して「◯」から「・」つまり「ウ」から「ム」に向かう時を「ナル」と呼びます。
補足として、先の「夏の巻・第七帖」には「有限でなければモノは顕れないぞ、モノに顕わすと有限となるのじゃ」とあることから、「・(ム)」が現象として「生まれる」ためには、「有限」の「◯」とならなくてはなりません。

反対に、「◯(ウ)」は形あるものであり、ゆえにいつかは衰え、壊れたりすり減ったりして消えていきます。
それは「有限のモノ」が「無」に向かうことであり、原点となる「・(ム)」に還っていくということです。
つまり「ウム」時には内側から外部への働きとなり、「ナル」時には外側から内部へ向かう力となるのです。

この「外縁と中心の間にあるエネルギーの流れ」こそ「🌀うず」であり、日月神示の重要概念となるのです。
そして「㋳㋻」が外化した「ヤ・ワ」であるだけで、それに良し悪しはないという話はここで繋がり、「◯」の形骸化は「ナル」という内側への流れが現象化したに過ぎないということです。

この「ナル」の流れが「負の現象」として現れることもあれば、逆に「正の役割」を持つこともあるでしょう。
「有限」から「無」に向かう力は「消失」に結びつきますが、「有」から「無限」に向かう力となれば、かえって「増殖」という性質も持つはずです。

また「ウム」に関しても同様で、「無限」から「有」になることで「無限に発生する」という正の側面も持ちますが、「無」から「有限」になれば「いずれ消え去る有象無象が生み出される」ということでもあります。

ゆえに、これらは表裏一体の関係で見れば「良し悪し」を決めるのは「観測者」の主観によります。
それは「どう捉えるか」の認識の問題であり、現象としては一つの物事に過ぎません。

この「ウム」「ナル」という二つの流れは、「左巻(火垂・ひだり)の力」「右巻(水極・みぎり)の力」で現すことができ、それぞれ「ナミの神(+)」「ナギの神(−)」に対応してきます。
しかし、ナミの神もナギの神も「ウム」と「ナル」ことは可能であり、ゆえに二柱が「二つずつ逆の性質を持つ」と言えるのです。

先に挙げた「青葉の巻・第十三帖」の「四海の火水(ひみつ)」とは、おそらくこのことです。
そのどれもが「生み出す」という過程であり、そこに栄枯盛衰はあっても「善悪」はありません。
ゆえに「悪」は厳密に言えば「悪」ではなく、「アク」であり「悪」とは違う、という神示の複雑な教えはここに結びつきます。

しかし全ての問題は、この循環の中で「・(キ)」が失われてしまうことで、本来の「ウム」と「ナル」の循環に支障が出てしまうことにあります。
その根本的な問題を解決する方法として挙げられるのが「富士」と「鳴門」の仕組みです。
次の章では、その仕組みを掘り下げてみたいと思います。

「二十二」が岩戸開きの鍵

冒頭で「一二三四五六七八」の「八方の世」に「〇九十(まこと)」が加わることで、世が立体化して開けていくという話をしました。
「至恩の巻・第十五帖」には、こうあります。

「12345678の世界が12345678910の世となりて、012345678910の世となるのじゃ、012345678910がマコトと申してあろうがな、裏表で二十二じゃ、二二の五じゃ、二二ふじは晴れたり日本晴れぞ」

「紫金の巻・第三帖」では、「二十二(ふじ)」の説明があります。
「誠とは〇一二三四五六七八九十と申してあろう、その裏は十九八七六五四三二一〇で合わせて二十二であるぞ、二二ふじが真理と知らせてあろう、二二が富士と申してあろうが」

これを読んで、「012345678910」を2つ合わせて「22」にはならないと、誰もが首を捻ると思います。
「012345678910」の文字数を数えてみると、「12個」ですが、漢数字「〇一二三四五六七八九十」で換算すると「11個」です。
これを「表裏」で揃えると「22」、すなわち「二十二(ふじ)」になります。

「岩戸(一八十・いわと)開き」とは、「一二三四五六七八九十」の世界に「〇九十(まこと)」が加わることで十進数のあるべき世となり、それが「天地」揃うと「二十二」となり「富士」に「苦(九・こ)」の花が咲き、めでたく「弥栄の世」となるのです。
簡単に言ってしまえば、「八までの世界」が「十の世界」になることが「鳴門(成る十・なると)」の仕組みであり、「十の世界」が天地合わさることが「富士(二十二・ふじ)」の仕組みと言えます。

しかし、そういう説明では「ふーん」で終わってしまうので、この世を変えるために私たちは何を神様から求められているのか、という話をしたいと思います。
上記の図説に戻りますが「岩戸閉じ」の問題について、「富士の巻・第三帖」に「ウ・ム」の仕組みに近い文言が示されています。

「玉とは御魂みたまぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ、これを三種の神宝かんだからと申すぞ、今は玉が無くなっているのぞ、鏡と剣だけぞ、それで世が治まると思っているが、肝腎の真中ないぞ、それで散り散りばらばらぞ」

これによると、「鏡」とは内向きに働く「ナル」の力であり、「剣」とは外向きに働く「ウム」の力です。
これは「・(ム)」が元にあるが故に力が働くのであり、この「玉」がなくなっていることが全ての問題と語られています。

「岩の巻・第二帖」には「二つづつある神様を一つにする」とありますが、月光の巻・第五十一帖」には、それに繋がる記述があります。
「世界を一つにするのであるから、王は秘答理ひとりじゃ、動きは二つとなるなれど、二つでないと動かんのじゃ、キはキの動き、ミはミの動き、動いて和すのじゃぞ、和すから弥栄えじゃ、和せば一つじゃぞ、キミとなるのじゃ」

「左巻の渦」と「右巻の渦」である「日の循環」と「月の循環」を一つにする必要があるわけですが、この相反する二つの働きを繋げる働きが重要になってきます。
「日の出の巻・第五帖」には、打ってつけの文言があります。

「右に行こうとする者と左に行こうとする者と結ぶのが「結び」の神様ぞ、結びの神様とは素盞鳴の大神様だぞ、この御用によって生命現われるのぞ、力生れるのぞ」

つまり、右に行こうとする(左巻の)「日の循環」と左に行こうとする(右巻の)「月の循環」を繋げる力こそ「素戔嗚神」という「結びの働き」なのです。
この円環が二つ並び、その循環を図式化する時、その図には「S」という形が浮かんできます。

これが「雨の巻・第九帖」にある「三エスの神宝と3エスの神宝とあるぞ」という文に示すものであり、これには「正負」の働きがあることが示唆されています。
また「一方の3Sしか分からんから、人民は何時も悪に落ち込むのじゃ」とあり、やはり両面性の認識の欠如が問題とされています。

「S」が3つあることについては、三種の「神宝」に対応しており、それぞれ「剣」「鏡」「玉」の「日・月」二つを結びつける3つの「S」であると考えられます。
そして、そこにある「表と裏」の働きを「・(キ)」で括り、「火(左))と「水(右)」を「・(ム)」で括ることで、これまで「四つ」だった「海(ウム)」の働きは「∞」のループを形成し、終わりのない循環を生み出すのです。

つまりは、これまで「一二三四五六七八」しかない世界は、いずれ「八」という中途半端な形で「終わる」ことになり、ゆえに「滅びに向かう闇の世」であったと言えます。
それに「〇九十(まこと)」が加わることで「〇一二三四五六七八九十」という完全なる広がりが可能になり、「鳴門」の仕組みが完成します。

そこから「〇一二三四五六七八九十」の完全なる円環が「天と地」合わさり「・」で統合されることで一つになり、「∞」という最終形態に到達することで、永遠性を獲得し「弥栄=ミロクの世」となるのです。
この仕組みが「二十二・富士」の仕組みであり、「不二」であることは「一つである」ことでもあり「三つでもある」のです。

「白銀の巻・第一帖」に「三が道と申してあろう」とありますが、「陰陽二元でないぞ、三元ぞ、三つであるぞ、・がなくてはならん、・にも隠れた・と現われた・とがあるぞ、このこと先ず心得て下されよ」とも述べられています。
ゆえに全ての「◯」を「・」で括ること、そこに「岩戸開き」の奥義があるのです。

その方法こそ「神の道」にあり、正しい「祀り」にあるのですが、具体的な方法の解説は後日にしたいと思います。
「黄金の巻・第九十五帖」に、「四季はめぐる、めぐる姿は🌀うずであるぞ、🌀は働き、上れば下り、下れば上る」とあります。

世の森羅万象というのは栄枯盛衰があり、凹凸もある諸行無常の世界で、その良し悪しに一喜一憂して私たちは生きていきます。
しかし神様の目線、少なくとも俯瞰したものの見方をすれば、上がり下がりのある事象こそ本来の姿であり、表も裏もないものです。

それが「許されない」ものに見えるのは、私たちが歪んだものの見方をしているからで、「赤子のような心」であれば、すんなり受け止められるものなのかもしれません。
ただ、世の中というのは実際に「悪人」としか呼べないような人もいて、黙っていれば増長する人ばかりですし、しっかり押さえるべきところは押さえる厳しさも大切です。

決して「戦い」は避けられぬ、綺麗事にはできない世の中で、いかに「悪」を「悪」ではない世の中にしていくか、その実現の困難さは否定できないように思えます。
しかし、「悪を滅する」排除の繰り返しでは、いつまでも「弥栄の世」にはなりません。

ここで「悪をどう捉えるべきか」に気づく、この発想の転換こそ「岩戸開き」の鍵なのではないでしょうか。