楽太郎です。
先日から母が風邪をひいて、つきっきりで看病していました。
間近で母を診て私が感じたのは、今は「風邪」の症状に「霊障」が加わるケースが見受けられることです。
「そんなバカな、ウイルスはただの微生物だ」と思われるでしょうが、そもそも「憑依」が人間に取り憑く現象とすれば、動物やモノ、ならば細菌に「宿る」ことがあっても不思議ではないでしょう。
私は2020年のコロナパンデミックの折、何となくコロナの罹患にはある種の「共通項」や「因果」が含まれるケースが多いことに気づき、何となく超常的なものを感じていたりもしました。
ただ、あまりに突拍子もないことなので、敢えてそんなことを口走る勇気はありませんでした。
けれども、最近私が風邪でダウンした時、やはり「ウイルス」と「霊障」はあながち無関係でもないようにも感じたのです。
全てがそうであるとは限りませんが、「細菌を霊媒とする事象も起こりうる」ということは、頭に入れておく必要性はあるかもしれません。
母の看病をしながらそんなことを感じたのですが、病状に咳が加わったので、薬と食材の買い出しを兼ねて買い物に行きました。
今回は、その時に感じたことをそのまま書いていこうと思います。
薬局に行くと、数グループの「中国語」を話す方が買い物をしていました。
今は、日本で全く日本語を話さないけれど、普通に暮らしている外国人を見ることが増えましたが、こんな地方都市の隅っこの方でも珍しくなくなりました。
日本が外国人まみれになっていることを、私は正直言って良くは思っていないのですが、そう言うと「国際化に背を向けている」とか「他民族を受け入れないなど狭量だ」と批判されるのは承知しています。
しかし、私は外国人が頻繁に日本に来るようになった理由も、日本以外の国々が「日本の国土が欲しい」と内心思う理由がわかるからこそ、「ハイハイどうぞ、隣の家が空いてますので」とは言うことはできません。
「軒先貸して母屋が乗っ取られる」という言葉がありますが、我が国の150年間を見渡して、全く「心当たりがない」と言えるでしょうか。
結局のところ、「日本は世界の一部だから、世界に譲っても良い」というグローバリズムの推進で、日本人はスマホを見ながら俯き加減でトボトボ歩き、日本語を全く話さない人々が大声で街を闊歩する世の中になったのです。
こう言うと「国際化を批判するのか」と逆に批判されるでしょうが、「地域に外国人が増えて住みにくい」という正直な感想を意図的に抑え込むには、より壮大かつ壮麗な「正論」を社会全体に刷り込めばいいでしょう。
そうすれば、「国際化」という理想社会の実現に背を向ける者は、「田舎者」や「時代遅れ」と呼ばれても致し方ない空気にすることができます。
私はこの現状を眺めて、そもそも「外国人」が悪いわけでもなく、外国人が大量に移住してくる世の中が悪いというよりは、この現象自体が「日本人に対する試練」であると受け止めている部分が強いです。
外国の方からすれば、政府が「どうぞどうぞ、日本に住んでください」と補助金や優遇政策まで出して勧めているのですから、その「良い流れ」を使ってその人なりに、良い暮らしをしようとしているだけです。
問題は、日本政府がそうしたい理由と、外国人労働者に頼らざるを得ない日本の社会システムにあるのであって、外国の方々を招いておきながら「来るな」というのはおかしなことです。
私はそんなことを考えながら、薬局のレジで「咳止め」を買おうとしたところ、どうやら指定の成分が入っているために「一人一個」であることを念押しされました。
折に触れ、なぜこんな地方都市に中国人のグループがいるのかピンと来ました。
外国から日本の市販薬を買いに来る人がいるのは知っていましたが、「一人一個」では大量に買うことはできません。
だから、一店舗一個という形で街中を巡れば、滞在中に数十個購入することも可能でしょう。
そういった転売目的の「ブローカー」も国内には沢山いるのでしょうが、転売品は外国で高価と考えられますし、ブローカーにコネを作るくらいなら直接日本へ行って「爆買い」した方が確実です。
ただ、それをすると数年前のように、日本人が普通に市薬品を買えなくなるわけです。
だから法律で「一人一個」という建前を作って、外国人の転売を水際で防ごうという施策なのだと思いました。
これはもはや「転売が悪い」とか「外国人が悪い」とかそういうレベルの問題ではなくて、あまりにも社会が非効率かつ合理的でない世の中になっているせいで「起こりえない問題を引き起こしている」としか、私には感じません。
そもそも、外国人が日本の地方都市に個人輸入のために大量に訪れるのも不可思議ですし、転売に対して国が微妙なルールを作って水際対応する構図も不可思議です。
この社会がこれほど「歪」で、個人どころか巨大権力でも手をつけようがないほど複雑な社会が出来上がった要因は、どこにあるのでしょうか。
例えば「転売が合法」である世の中は、商業の多様性から鑑みれば必ずしも法制度で縛るべきではありません。
しかし「利益追求」の社会は、むしろ「転売業」に風向く社会を作り出し、欲しい人が逆に正規のルートで買えなくなる世の中を作り出してしまいました。
この社会で生きる上で「人間はお金を稼がなければならない」という「建前」が、「お金を稼ぐことは義務なのだから良いことである」というロジックにすり替わり、「法律に違反しなければ、如何なる金儲けも推奨されるべきである」という考えに完全に成り代わってはいないでしょうか。
つまり、いつの間にかお金は「必要悪」ではなく「最善」の手段になっているのです。
だから「お金を稼ぎたい」という人は何をやっても推奨されるべきであり、ただし「法制度」という縛りがあるため、その「抜け道」というのを如何に掻い潜るかに「ビジネスチャンス」がある世の中になっているように見えます。
だから人々は、いかにアコギな商売と言えど「法に触れない限りは合法なのだから悪くはない、むしろ金は稼ぐべきものである」と割り切れるのではないでしょうか。
これは「法制度」の問題なのか「モラル」の問題なのかで言えば、はっきり言って私は「文明」の問題だと思います。
人間は誰しも「幸福」になる権利があります。
誰かにとって得なことは、他の誰かにとって「損」になることは避けられません。
その中で不利益を被る人がいるから、その関係に公平性を持たせるために「法制度」が必要になります。
しかし「法制度」があるからこそ、逆に「法律に明文化されていないことは全てやって良い」という考えに行き着きます。
けれど、文字の羅列である文章なんてのは幾らでも解釈の余地はありますし、法解釈は業界の権威に依存し、判例は政治権力で好き勝手に修正できる性質のものです。
今の「アメリカ合衆国」が酷い有様になっているのは、政治や法制度が賄賂によって容易に操作される社会が連綿と続いてきた結果です。
「賄賂」を行えるのは、元々資本力のある大富豪や大企業、あるいは既に力のある政治家で、その利権を再生産するために法制度を都合良く上書きしてきたのですから、そこにアタッチメントを持たない一般市民が蚊帳の外に置かれるのは無理もないことです。
しかも、一国が定める「法律」は国際社会で通用性を持つため、「覇権国」であるアメリカがポリシーを懐に抱いたまま、他国の主権を尊重しようとするでしょうか。
きっと何か壮大な「マニフェスト」を提示し、それを大義名分として下々の国に押しつけ、流布させようとするでしょう。
「グローバリズム」とは行き着くところ、アメリカの金権政治を国外に輸出するためのレトリックに過ぎず、その推進で最も得をしたのは、アメリカ国内で元々資本力のあった人々のように見えます。
ただ、この「金権主義」のやり方も言ってしまえば単なる「考え方」なので、そのものを法律で縛ることはできません。
だから結局のところ「金で何とでもなる世の中」を受け入れるかどうか、その価値観と向き合って「違う」と感じられるかどうかというレベルで、我が国はしくじってしまったのだと思います。
全ての根本には、日本人がどこかの時点で「ルールがなくては何も考えられない」という思考になったことから歪が生じている気がします。
日本人は昔から同調圧力に弱い民族ですから、厳密にどの時代からと言うのは難しいのですが、一つ言えることは「法律に違反していないのだから良い」という言説が罷り通る社会になったのは、この四半世紀くらいでしょう。
それは「法制度への依存」と「モラルの低下」が交差し始めたことを意味し、人々が明文化された「ルール」はなくとも、個人の頭で「善し悪し」を判断し「人の不利益にならないことである」という想像力が次第に失われてきた過程とも言えるのです。
ゆえに「お金儲けは善であるから、法律に違反しなければ何をやっても許されるべきである」という体質を、社会全体で容認してしまったのではないでしょうか。
だからこそ、法律の専門家でも頭を悩ませるくらいには複雑な法体系が出来上がり、そうでなくとも業界のロジックや社会の利権が加わり、法制度すら骨抜きになり始めています。
そして、これらがあまりに複雑に絡み合い、交錯しながらガッチリ固まっていることで、人間の力ではどうしようもできないレベルの膠着した社会が出来上がったのではないでしょうか。
そして、その「雁字搦め」に一番苦しんでいるのが現代人の私たちであり、日本ならず先進諸国全てにおいて言えることだと思います。
ゆえにこの行き詰まりは「文明」レベルでの問題であり、人類全体として解決策を見出せないことが、さらに出口の見えない状況を作り出しているのです。
人々はいくら「良くしたい」と思っても、具体的に何かを変えるやり方も、変え先も見当がつかない状態にあります。
その反面、例え「良くなることだ」と頭ではわかっても、長年染みついた不自由さに居心地の良さを感じ、良い方に変わることよりも変わらない不自由さを選んだりもするでしょう。
また、自分のことに精一杯で、目の前の不正ですら何とかする余裕もなかったりします。
そのこと自体を咎めるつもりはありませんが、自分から変わるのが嫌で、周りが勝手に良くしてくれることを期待するあまり「天変地異」が起きて、自分もろとも世界が「変わらざるを得なくなる」ことを期待する気持ちはないでしょうか。
私はこれに、心当たりがないとは言えません。
やはり、何も変化が見えない鬱屈とした状態にあっては、雨が降ろうが槍が降ろうが変化がある方が望ましいと考えるからです。
しかし、その変化が起きたとしても、必ずしも良い方に変えられるとは限りません。
やはり、自分たちの居心地の良い社会にするには、自分たちの手を入れていかなくては最適なものにはならないのではないでしょうか。
私は数年前、この世の中の行き詰まりにとうとう息ができなくなり、ついに「神頼み」しかないところまで追い詰められました。
けれど結果論で言えば、例え親を泣かせてでも「神頼み」の方が良い選択であったと今は思います。
「神頼み」はきっかけには過ぎないとしても、「日月神示」に出会って今、多少は先を見通せるようになりました。
全てが「神のシナリオ」だとすれば、この文明の行き詰まりや不可解な現象も説明することができ、その状況で人間がどうするべきかも見えてくるのです。
これまでの物質偏重の時代がどういった思惑で生み出されたのか、その背後にいた存在に関しても、どう考えどう対応すべきかも含めて、今は明確な答えを出すことができます。
こう言うと「オカルトだ」と言われるのですが、人類の長い文明史において「信仰」をここまで揶揄される時代はあったでしょうか。
つまりは「科学」が隆盛した、この1世紀くらいのものです。
人間には本来「目に見えないもの」を感じ取り、読み取る能力があります。
対して「そんなモノは証明できないから迷信である、全ては物質と数学の関係で説明できる」という立場を「科学」と呼びます。
そこで「目に見える世界」の説明はできても「目に見えない世界があるかないか」の断定をすることは科学には不可能です。
仮にこの世に「目に見えるモノだけの世界」にしておきたい「目に見えない存在」がいるとしたら、今はまさにそういった者たちに都合の良い世になっているのではないでしょうか。
もはや人間の手では何ともならない、時代の行き詰まりを打開するために「神の力」が必要なのだとしたら、神の力を借りるためには「目に見えないモノを信じる」という考えに至らなくてはなりません。
ここで「科学」という世界の側面だけで解決しようとすれば、科学の力ではどうにもならない袋小路の現状に戻って来てしまいます。
ゆえに、私たちは「既存のスキームと真逆の方向に活路を見出す」しかなく、それは現代において「信仰」であったり「モラル」であったりするのではないでしょうか。
冒頭の母の看病の話に戻りますが、誰もが「風邪は風邪」だと思っているから、私が「霊障としての風邪」と言ったところで爪弾きにされるのは目に見えています。
だから私はそう思っても「風邪、早く治るといいね」と母に言うことしかできないのですが、この世界は人間が思っている以上に複雑に出来ているように思います。
だから外国人が日本に大量に移住してきて、「円」の通貨価値を外国に決められ、日本人が日本の土地を喜んで外国人に売却する、この不可思議な現状も「日月神示」は理由を教えてくれていると私は感じています。
そして、この現状をどうすれば良いかも書かれていたりするのです。
私は「神道だけが唯一」とは思っていませんし、「神社に行け」とか「日本の神様を信じなさい」と言うつもりはありません。
そもそも、信仰はどこに向けても構わないものだと思っています。
ただ人々が雁字搦めになっているのは、全て世にある「形式上」の仕組みからのもので、「形」だけのものだということを、まず頭に入れておいて欲しいのです。
そして、肝腎要の部分が抜け落ちているからこそ、外側だけをガッチリ固める必要があり、それが余計に物事を形骸化させて複雑にしています。
私はそこが問題と思っていますし、実際に「神示」にもそう書かれています。
つまりは、人々が「心」というものを失ったからこそ、芯がなくなり骨がなくなり、社会全体がフニャフニャした優柔不断な体質になってしまいました。
そのコンニャクのような巨体を支えるためには、甲殻類のような外骨格を持ち、形をガチガチに固めなければなりません。
それが今の社会における「法制度」の実態であり、何がこの世に最も大切であるのかは言うまでもありません。
どこから始めればいいのか、どこをどうすればいいか、その答えは簡単には見えてきません。
けれど自分から「心」という芯の部分を取り戻し、自分たちが少しずつ変わっていくことで、大きな変化に繋げていくしかないのではないでしょうか。
