人間、本来のあり方に

楽太郎です。

私は心霊オカルトが子供の頃から大好きで、TVの心霊特番はいつも楽しみにしていました。
「幽霊がいたら面白いな」という感覚はありましたが、自分の霊感は疑ってましたし、周りに合わせて「目に見えない世界」の存在を否定していました。

私はつい1年前までは、完全に「無神論」の世界にどっぷり浸かり、その世界観に全く疑いもなく生きてきました。
それが昨年の秋分以降、みるみる霊的な覚醒をしていき、あれよあれよという間にスピリチュアリストとしての道を突き進んできました。
それはもはや私の意志というより、強制的に「道に戻された」感覚に近いのです。

このブログでは常々、目に見えない存在からの「憑依」の戦いを綴ってきました。
そもそも、私が「憑依されやすい体質」であること、憑依されるから言動や思考に影響を受けやすいこと、霊障が起きているから心身共に体調がおかしく、何となく変なことばかり起こるのも、それまで「無神論=唯物史観」の世界に生きてきたからこそ、何十年も気づくことができなかったのです。

考えてみれば、赤ん坊の頃に異常な夜泣きをしたり、幼稚園に上がる前から頭痛持ちで、子供の頃から集団がもの凄く苦手で、大勢の人と同じ空間にいると頭がモヤモヤしてくるのも、全て「霊感」という概念で説明がついたはずです。
しかし、周りにそういった指摘をできる大人はなく、その大人の大部分が「霊など存在しない」と思ってましたし、憑依や霊障も何らかの病気の一種で、ちゃんとした医者にかかれば治ると考えていました。

しかし今答えを出すならば、私が正しく「信仰」という道に気づいていれば、神様が私を守ってくださり、心身はもっと充実した状態でいられたのでしょう。
そして無駄に苦しむことなく真の問題と向き合い、自分の心身に何が起こっているかも知ることができたはずです。

その「気づき」が遅れたのは、別に周りの大人が悪いわけではなく、霊障に苦しむ人生も自分の魂と神様が決めた人生のシナリオだったのだと思います。
ただ、「唯物主義」に染まった世の中であるがゆえに、目に見えない世界の干渉や影響の可能性に誰も気づかず、あらゆる不調の原因を「科学的病理」としてきたからこそ、問題の在処が覆い隠されてきたのです。

私の亡くなった叔父の話をすると、やはり私と同じ能力と血族的因縁を持った人で、霊感もかなりある人だったのだと思います。
叔父は心を病んで自ら命を絶ってしまったのですが、生前に「あるはずのないものが見えたり、聞こえる」ことを誰かに相談しても、「お前は頭がおかしいんだ」と散々言われ続けたようなのです。
ど田舎の農村から大学受験をして良い所の大学に進み、そのまま東京で有名な大企業に就職した頭の良い叔父は、その仕事場で心を病んでしまいました。

全ての因果を叔父が知ることができたなら、叔父は何十年も無闇に苦しむことはなく、自ら命を絶つ前に救われる道はいくらでもあったのです。
「唯物主義の社会」と「無理解」が叔父を殺めたとも言えるのです。
そして、下手すると私自身も叔父と同じ道を辿る寸前のところにいました。

人を陥れ、神を無きものとしたい勢力からすると、唯物論の蔓延る世界はやり易かったことでしょう。
その裏に「神に仇なす者」がいるとすれば、神の存在を否定すると同時に、自らの暗躍に気づかれずに済むからです。
「目に見えない世界を否定する世界」は、これまで闇の存在にとって最適化された状況であり、人間がモノしか見なければ争いに夢中になり、神を蔑ろにし人々が信心を忘れるほど、神々の加護は加わらなくなるからです。

しかし、それでも世界の真実に気づく人は気づいてましたし、先達たるスピリチュアリストも世のしがらみや誹謗を耐え抜いて、真実を伝えて来られました。
それでも、オウム真理教を始めとする宗教団体の起こす社会問題が、余計に信仰への阻害と無神論を加速させていったのです。

「神を無きもの」にするという巨大な陰謀があり、現代社会が物言わずに闇の力に流されてしまったことで、人心の荒廃が起こり不幸に陥る人々は増していく一方でした。
マクロな視点で言えば、神々が窮地に立たされるのも宇宙の大きなシナリオとも言えるのですが、気づくのが不可能と思えるほどの巧妙な隠蔽の中で、私たちが無闇に苦しむ原因がもたらされる状況が続きました。

この世は「神に仇なす存在」に主導権があり、人間社会は「無神論」の方針を支持する形で発展を続けてきたことで、ずっと逆神の肩を持ち続けてきたのです。
だからこそ人々は神への真の信仰になかなか至れず、邪教を崇拝し道に迷い、神に仇なす者たちの邪な干渉を受け続けてきました。

私一人が、その流れを変えられるわけではありません。
しかし、私以外の人々が次第に覚醒していけば、この世界を覆う闇の正体と影で暗躍している者たちの思惑を、世に知らしめることができるはずです。

これまでの世は、人間のあり方そのものを歪めながら、生き方そのものを型に嵌めて矯正する仕組みでした。
人は生まれた瞬間から、社会が親に与えたヒエラルキーの直下に育ち、学校では定義された「優秀さ」を競わされ、マスメディアでは「理想」とされる人々の成功が持て囃され、世に出れば歪な「エリート」の尺度で行末を決められる、凡そ自分の尺度を持ち込みようのない世界です。

その中で、本当に自分にとって必要な情報や気づきに辿り着くのは、非常に困難でした。
あまりに世にノイズが多すぎるからこそ、確かなものでさえ曖昧になり、何となく生きている人々に紛れてしまえば、何事も確かさなどないように感じられたでしょう。
それでも社会は物質的には豊かであり、何も考えなくてもお金さえ手に入れば、そこそこ深く悩まずとも享楽的に暮らすことができたのです。

しかし、それは「豊かな時代」だからできた誤魔化しであり、貧しくなる一方の状況では異なるはずです。

おそらく日本ならず世界が、かつてのような高度経済を軸にした世には戻ることはありません。
それは「ドル」経済圏が終わるからであり、少なくともドルに代替する基軸通貨が発展形で流通し始めるまでは、低成長経済がスタンダードになっていくはずです。

先進国の少子高齢化もさることながら、製造業主体の経済的牽引はサービス業に取って代わり、製造業は若年人口が多く「発展途上」とされてきた国が担うことになるはずです。
ゆえに日本は、少なくともバブル以前の勢いを再現するのは不可能であり、これからは物質的な豊かさから「精神的な豊かさ」へとシフトする段階に入ったのだと思います。

私の観点は、他の論者とは一手二手先読みする特性があるので、その兆候を感じるのは難しいかもしれません。
しかし経済崩壊は足元に迫っており、心の準備をしていた方が身のためだと思います。
そして、みるみる不便になっていく世を眺めて混乱するのではなく、来るものだと認識しておくことは自分や家族を守ることに繋がるはずです。

現代を形成してきた世界的経済圏の崩壊は、フランス革命とイギリスの産業革命を皮切りとした西洋型資本主義と、そこから派生したマルクス主義の終焉を意味します。
これまでの世界を構成してきた「資本」と「物質」という枠組みが揺らぐことは、人の世を支配してきた権威も決して不動ではなくなるということです。

社会を規定づける権威や権力が相対化される時、人々が「イヤイヤ」ながら従ってきた、ルールや慣習からの拘束も緩むことになるでしょう。
そうすれば、明日だけでなく10年20年先を見越して、仕方なくやるような生き方には何の確かさなどないことに気づくと思います。
その時、人々の心にかけられた「常識」という鎖が解けて、各々が「個人」として立ち戻るきっかけを得ることでしょう。

その時に初めて、これまでの世界を「闇」が支配していたこと、闇の深くに「神に仇なす見えない存在」が蠢いていたことを知るはずです。
そして同時に目に見えなかった存在が、目に見えるようにはっきり人々の心に映ることでしょう。
そこで人々は光を見て、光の中に「神」を見るのではないでしょうか。

私はその時、ようやく報われる人もたくさんいると確信しています。
人々が小さく押し込められた「お金と欲望のために消費される人生」が虚妄に過ぎず、その共同幻想こそ自分たちに迷いや苦しみをもたらしていたことに気づくはずです。

その瞬間が訪れたら「金儲け」という支えを失い「じゃあ、これからどう生きていけば良いんだ」と困惑し、絶望する人も出てくるでしょう。
自分の軸を持ち、金儲けという枠組みがむしろ煩わしかった人ほど、産業のシステムや規則に縛られない状況こそ、待っていた趨勢かもしれません。

それは少なくともこの250年間、巨大な枠組みの中で争いと淘汰を繰り返し、物質的に便利にはなっても人心がどんどん荒廃していく時代が終わり、やっと一息ついて「これからどういう世界を作って行こうか」と考えるタイミングが訪れるのです。
その時に初めて自分らしい生き方を手にする人もいるでしょうし、そのタイミングに合わせて生まれてきた魂もあるのでしょう。

今、闇が深まっていくばかりの世では、どう考えても光なんてないように感じられるかもしれません。
しかし、私たち人間が「悪くなる」と思うことも、神々があえて「悪くしている」のだとしたら、見方はまた変わってきます。
そして神々には、人間の考える「良し悪し」とは別の軸としての意味で「より良い世界」をご計画なされているのだと思います。
ただ、そのスケール感は人間に見渡せるものではないため、ひたすら残酷な部分だけに目が行ってしまうのではないでしょうか。

どんな不幸があっても、どんな不幸がこれまであったとしても、より良い世になるのであれば浮かばれる魂もあります。
私は、うまく生きられなかった叔父の苦しみや悲しみを思う時、私が世の中を変えることに貢献することで、その救いになるのではないかと思います。

叔父だけでなく、私だけでなく、見ず知らずの苦しみを抱えて生きてきた全ての人々が報われるために、これからは良い時代を作っていきたいのです。
ならどうすれば良いのか、私はいつもそのことについて考えています。