「神」のいなくなる日

楽太郎です。

昨日の投稿で「招神万来」は立ち上げから、ちょうど一年でした。
私も「第一回」から読み返してみたのですが、あまりの拙さに思わず苦笑いしながら、自分の成長を痛く感じたりもしました。

当時は相当「荒らされる」のが恐ろしかったらしく、なかなかビクビクしながらやってる印象があります。
まあ、私の昔いた界隈もなかなか「黄泉の国」に近い場所だったので、相当なトラウマが残っていたのだろうと思います。

ただ、今になってみれば私もだいぶ肝が据わった感覚もあり、でなければグローバリストの親玉を真っ向から批判はしないでしょう。
正直言って過去の文章は痛々しく感じるのですが、まさに「成長の記録」として読むなら研究対象になるレベルかもしれません。

このブログの立ち上げのきっかけは、あまりはっきり覚えていないのですが、「瀬織津姫命」との約束から始まったように思います。
というのも、「私は瀬織津姫です」と名乗られた神様との繋がりから連綿と続いてきたので、おそらく「瀬織津姫命」ご自身だと思うのですが、このブログの歩みを鑑みるとまさにそうとしか思えない部分もあります。

しかし「瀬織津姫命」という神様は、言ってみれば「スピリチュアル界のアイドル女神」であり、今一番HOTな女神様であらせられます。
もし、瀬織津姫様を「推し神」にしておられる方が、時に私のブログなんかをご覧になれば「瀬織津姫命はそんな導きをしない」と感じる方もおられるかもしれません。

ただ、誤解しないで頂きたいのは「神様は全人類共通の存在」であり、一柱の神が誰か一人のために存在することはないということです。
神様は遍く「人類」という、大きな括りのために動かれる存在のため、たぶん相性はあっても依怙贔屓はありません。

「人類」という大きなパズルがあり、その全体を構成する「ピース」が一人ひとりなのだとしたら、神様が一人の加護に就かれる時は「全体」を補完するためでしょう。

特に、私のような歪な形のピースが一つあったところで何にもならず、妙なピースも全体にとって必要な部品です。
一つのピースが「マスターキー」になることはないため、瀬織津姫様の導きが私に対しては過激に出ていようと、私は全体の中で「過激」という性質をもつ一部品に過ぎません。

私が思うに、瀬織津姫様も大神様の元で、数多の神々と共に役目を与えられている神様であられるため、全体の一部の働きとして個人の加護に就かれたりするのでしょう。
つまり全体の完成に向かうために各々の人間、それぞれの神々が動いているのであって、「誰か一人」と「特定の神様」が正しい、ということはあり得ないと思います。

ましてや、一人に働きかける神は一柱とは限らず、究極的には「大神」の内包する全ての神格は、人間から見て「神様」という大きな括りで個人と関わるでしょう。
ゆえに個人への神の働きは千差万別であって、それぞれに使命や人生のテーマが違うように、神の現れも加護の仕方も異なるはずです。

だから、私の元に現れる瀬織津姫様も、誰かに導きを与えている瀬織津姫様も、違う働きのように思えても全く矛盾しません。
一人の心に降りてくる「神様」のお姿がそれぞれ違うのは、各々の「魂」や霊格が異なる上に、導くべき道が違うことと同じ意味を持つのかもしれません。

一年前の「招神万来」を振り返って、当時の記事が何となく殺伐としているのは、私の言う「神世」と「人世」の対立軸において、あたかも「人世に残ると生き残れない」という危機感の上で語られているからでしょう。
少なくとも一年前の解像度では、「神世」というものが全く別の文明に造られるイメージで語られていますが、やはり当時は「大難ルート」の世界線にあって、おそらく2025年夏以降のカタストロフを想定していたのだと思います。

しかし、その世界線が明確に切り替わったのは2025年3月20日の「春分」であり、それ以降は「小難ルート」の世界線が続いているように思います。
なぜ「大難ルート」が消失したのかと言えば、神々が私たちを「大難」に曝すことで「目覚め」を促し、人心が立ち上がるよう仕向けるためでしょう。

ただ、今年の春までに「目覚め」を選択した日本人が想定以上に多かったため、文字通り大きく揺さぶる必要がなくなり、わりとのほほんとした「蜂起」が人々の心に起こっているのではないでしょうか。

けれども「神世」は助かる道で「人世」は助からない道、というぼんやりとした解像度は、現時点ですらあまり間違いはないと思います。
「人世」とは「拝金主義・金権政治」によって形成された文明社会のことであり、この時代の価値観で生きることがいずれ「沈没」の憂き目に遭うという考えは、今でも大して変わっていません。

当時の私は、「大難」によって文明が半崩壊状態となれば、破局的世界において「人の心」のあり方が最も問われると考えていました。
それゆえ「我良し」の生き方では争乱の環境に自ら身を置くことを意味し、対極にある「信仰」を元とした「神の庇護下」においてのみ、無難に生きられると想定していたのです。

ただ、この構図は程度の差こそあれ、図式としては変わっていません。
やはり「目覚め」を選択した人々はすべからく「神の道」を通ることになり、いずれは「大峠」の中で自らの「岩戸」を開かなければいけない時は来るでしょう。

そして、遅かれ早かれ「拝金主義」の生き方を捨て、あるべき人間の生き方に戻っていくことになるはずです。
その時、古い時代の生き方をしていれば、残念ながら目に見える形で静かに沈んでいくことになると思います。

せっかくなので、今回の記事では改めて「神世」とはどういう世界なのか、神々はこの世をどうなさるおつもりなのか、書いてみたいと思います。

日月神示の「風の巻・第十四帖」には、神々が最終的にどうなさりたいのかを垣間見える文章があります。
「新しき世とは神無き世なりけり、人が神となる世にてありけり、世界中を人に任せて、神々は楽隠居なり、あら楽し世ぞ」

つまり「人間」が「神」の代わりになるため、この世で「神」の役割が終わり、神々が悠々自適に暮らすことが述べられています。
これは神示の用法で言えば「神人」と呼ばれる人々(全人類)が「地上の神」の役割を果たすことで、おそらく神々は従来の仕事を行う理由がなくなることを示しているのだと思います。

この「神人」とは何かと言うと、「秋の巻・第十八帖」に説明があります。
「人民は神の臍へそと繋がっているのであるぞ、臍の緒さえ繋がって居れば良く、神人であるぞ、・と ・と繋がって、更に大き ・ に繋がっているからこそ動きあり、それぞれの動きあり、それぞれのハタラキあり、使命を果たし得るのであるぞ」

すなわち神の「キ」と人間の「キ」、魂と魂が繋がることで神と人間の合一が果たされ「神人」になるとされます。
人間が超進化して「神人」になるのではなく、神が肉体に鎮まる必要があるということです。
ならば、なぜ神様は「人間」と繋がる必要があるのでしょうか。

「黄金の巻・第四帖」に、こうあります。
「神は人となりたいのじゃ、人は神となりたいのじゃ、霊は形を、形は霊を求めて御座るのじゃ、人は神の入れ物、神は人のいのち」
「黒鉄の巻・第二十一帖」にある文章です。
「神は人間の命、人間は神の容れものであると申してあろう、人間の極まるところは神であるぞ、霊人は中間の存在ぞ、人間は神への土台ぞ」

つまり「人間」は元々、神々が降りて鎮まるための「容れ物」であって、神自らそれを望んで人間を造られたということだと思います。
そして、この「人間に神が鎮まる」プロセス、私は「神留まり」と呼んでいますが、「岩戸開き」とこれが果たされることには密接な繋がりがあります。

「風の巻・第一帖」にこう書かれています。
「臣民の肉体、神の宮となる時だぞ、当分宮無くてもよいぞ、やがては富士に木の花咲くのだぞ、見事富士にこの方が鎮まって、世界治めるのだぞ、それまでは仮でよいぞ、臣民の肉体に一時は鎮まって、この世の仕事仕組みて天地でんぐり返して、光りの世と致すのじゃ」

「極めの巻・第二帖」は、こう述べています。
「今の人民は誠が足らんから、誠を申しても耳に入らんなれど、今度は神が人民に移って、また人民となって、誠の花を咲かす仕組み」

やはり、神様が人間の心に住まわれることで肉体を「宮」とし、人と一つになることで世を変える、「神人」とはそういう仕組みであると述べられています。
しかし、なぜ「全知全能」であられるはずの「神」が、わざわざ人間の肉体に宿らなければ世を変えることができないように仰られるのでしょうか。

「春の巻・第四十一帖」には、こう書かれています。
「天には天の道、地には地の道、人民には人民の道があると申してあろう、同じ道であるが違うのぞ、地にうつし、人民にうつす時には地の約束、人民の約束に従うのぞ、約束は神でも破れんのであるぞ、次元が違うのであるから違って来るぞ」

つまり、それぞれの次元には「法則(フトマニ)」があるため、神が次元を超えても法則を破ることができない、ということだと思います。
神の世界では「全知全能」でも、適用される法則が違えばその神能にも制約がつきます。
「制約」がついた神能を「全知全能」と言うことはできず、さすがの神々でも「知りうる限界」「能力を及ぼせる限界」が生じるということです。

ゆえに、神々が次元の法則を超えることはできないということは、人間の住む地上世界において神が「肉体」を持たないことで、神能に物理上の制限が掛かると考えられます。
確かに神は生物や気象を操作したりすることはできますが、こと人間を操るには「肉体」に宿る必要があります。
しかし、人間も「大神」から「分御霊(ワケミタマ)」を与えられた神の一柱であり、簡単に同じ性質を持つ「神」を操る訳にはいきません。

つまりは「同じ神」同士、天の神が地の神たる人間の肉体を無理に乗っ取るわけにはいかないため、地の神が「どうぞどうぞ」という状態にしなくては、天の神も一緒に人間の肉体に宿ることができないということでしょう。

今の「人間」が例え「神」だとしても、この世界では未だ「微知微能」であり、霊的には未熟な存在です。
しかし「神人」となれば霊的向上が見込まれ、いずれは「小知小能」から「大知大能」になるくらいには、「人類」が進化していくのだと思います。

ただ、今の人間は「科学」の知識と技術で「神に匹敵する」ことができると考えており、雨の一つも降らせることができない割には、「全知全能」だと思い上がっている節があります。
神々からすれば、一度その幻想を壊してあげなければ自分の身の丈に気づけないでしょう。

これから神々が起こそうとされていることがどういう意味を持つのか、何となくわかるような気がします。
「AI」が四六時中、人間の考える代わりに生活や行動の「指示」を与えるとしたら、その役割は本来「神」の仕事です。
それを人間は企業のサービスで実現させようとし、企業にサブスクを払うことでAIに「神様の代わり」をやってもらおうという魂胆は、さながら「人工神」でしょう。

しかし、これはどうも神様の「見せしめ」で終わるような気がします。
かつてニムロデ王が天に届く「バベルの塔」を建造し神に威嚇したと「旧約聖書」にありますが、奇妙なことにどちらもユダヤ系の資本から始まっており、「神に対する挑戦」という意味で共通します。

ゆえに、この「幻想」が今一度壊されることで、また一つの時代が終わるようにも思えるのです。
ただこの「思い上がり」は、人類の成長過程で考えたら「俺は親父よりできる大人だ」という、少年の反抗期の背伸びにも似ていて、もしかすると人類は未だ進化において思春期の段階なのかもしれません。

実はまだ人類は進化レベルで言えば「10代」で、これから青年期、壮年期を迎えるとしたら、まだまだ人間には伸びしろがあるということではないでしょうか。
少なくともこの10万年、人間は生物学的な進化をしていないと言われていますが、もしかすると生物学的にはやはり完成していて、あとは霊的進化を数十万年越しに実現していくのが人類なのかもしれません。

話が壮大になってしまいましたが、そろそろまとめます。
「大峠」を終えた後、本格的に「神世」が始まり、人間の「霊性」が文明の中心となる時代が来るでしょう。
その時に活躍する「神人」というのは、特殊能力を持った新たな人種ではなく、単に「神と気の通った人」であり、わりと一目では普通に見えるかもしれません。

ただ「我良し」の感覚を捨て、社会や自然に調和した生き方ができる「神人」は、いずれ全人類の本流になり、数千年かけて全人類が「神人」になっていくのではないでしょうか。
その時、神々は本来のお仕事である、自然環境を操ったり人間に耳打ちをするような地道な役目を終え、心で念じれば先回りして人間が動くようになれば、本格的に神々は「高みの見物」に勤しむことができるはずです。

こう言われても「ホントかいな」と思う気持ちも半々なのですが、この世を造られた神々が安心できる世というのは、やはり神が働く必要のない「善い世」なのかもしれません。
私は、瀬織津姫様が一日でも早く楽ができるようにしたいと思います。

最近「岩戸が開いたようだ」と言った手前、自動的に「神人」と公言する形になってしまったのですが、全く意図してなかったのは「現人神」という言葉で、その到達を目指していた時期がこのブログにあったということです。
だから、このブログの一年を通して「奇跡」のような一貫性があるのは、そこに「神の導き」があったと考えるしかないように思えます。

ただし、私はそれを自慢したり特権にするつもりは全くなく、むしろ一人でも早く「同類」を増やしたいという気持ちしかありません。
もし私のようにやりたいと思う奇特な方がおられるとしたら、その方にも独自の考え方や才能があるはずで、そこに私の考えを組み合わせて「新しい発想」を育てて欲しいです。

私がこれだけの文章を「無料」で提供するのは、私の知識を「道具箱」のように使って、応用したり化学反応を起こすような使い方をしてもらいたいからです。
決して、私の言葉を「真実」と信じるのではなく、一つの仮説としてご自身がどう考えるかを大事にしてもらいたいのです。

「神」という存在が人間に力を与える時、神は人間の自我に宿るものではなく、「技」に宿るものだと思います。
ゆえに「技」から生み出された「道具」は、やはり人に使われるためにあるのであり、それが「世を拓くための道具」であるなら、尚さら「道具」のように使って頂きたいのです。

ただし、こう言うと「使っていいと言っただろ」と、無断転載なり商売に使われると「そういうこっちゃない」と言う他ないのですが、あくまで抽象的に捉えて欲しいです。
才能とは本来「神」から与えられるものであり、人間はそれを借りて使わせて頂いているに過ぎません。
だから、神様が「使わせてやれ」と申される以上は、私も有効に活用してもらいたいと思うのです。

「この世を良くしたい」

そんな願いから始まったブログですから、少しでも人様の役に立てれば光栄です。