真実を探す楽しみ

楽太郎です。

先日、世に言う「知の権威」が揺らぐ時期にあるため、その知識で自分を固めていると、権威が揺らいだ時に自分が揺らいでしまう、という話をしました。

これは私自身痛感しているのですが、最近は特に顕著にスピリチュアルの分野でそれを感じています。

スピリチュアル業界は、そもそも霊感商法と親和性の高いビジネスが多く、その真贋はほとんどの人にはわからないはずです。
宗教を土台にしたビジネスはそれこそ昔からありますが、かつてテロ集団となったカルト教団もあり、精神性があるからと言って安全であるとは限らないのも事実です。

近年は、スピリチュアルの裾野が広がり、全く霊能力がなくても新規参入できる分野となっています。
とはいえ、私はそれを批判する気はありません。
人が自分自身の在り方を思い直し、日常をポジティブに変換することができるならば、それも悪くないと思うからです。

スピリチュアルをエンタメとして俯瞰してみると、都市伝説やオカルトという分野とも結びついています。
都市伝説とオカルトとスピリチュアルは、いずれ切り離されるべきだと、私個人としては考えています。

先日、都市伝説界隈のインフルエンサーに詐欺が発覚し、界隈ではちょっとした騒ぎになっています。

彼は日本民族のルーツや伝統などをテーマにされていた方だったので、私も興味があり拝聴していた時期がありました。
ただ彼に問題が発覚して、私が頭に入れてしまった知識がどこからどこまで正しいのか、それを再検討しようにも術はない状態となり、結局自分自身の思い込みを丸ごと疑わざるを得なくなりました。

同様のことが、これからスピリチュアルの業界でも起こる可能性が高いと思います。

しかし、これは詐欺を流布する人が悪いとか、真贋を判断できない視聴者が悪いとか、そういうレベルの話がしたいのではありません。

私が都市伝説系YouTuberの騒動で思い知ったのは、他者の用意した結論を知識として自分に入れ、それで世界観を構築してしまうリスクの高さです。

特に、スピリチュアルは神様や宇宙、世界の法則や真理などを扱います。
あっさり「宇宙はこうなっている!」という解説が15分くらいの動画にまとめられていますし、分かりやすく納得もしやすいものが多いです。

私は、これらが正しいか偽物か判断するべきだ、と言いたいのではありません。
それを鵜呑みにするか、批判的に見るか、俯瞰して距離を取るか、それらは自分の自由意志で選択できることであり、それを意識することの方が大切だと言いたいのです。

私もかつて興味があり、神様や宇宙の法則や成り立ちなどについて、情報を漁りまくった時期がありました。
しかし、その知識を誰かに求めたり、外部の権威に縋ることは、自らの人生観の一部が「〇〇が言っていた真理」で構成され、下手すると死ぬまでその思い込みを引きずることになります。

私は神様との繋がりが強くなればなるほど、世に溢れる情報に真実があろうとなかろうと、答え合わせを外に求めるのはつまらないと感じるようになりました。
神様の与えてくださるインスピレーションの方が事実を抉っている感覚がありますし、その答えを自分の内側に求めるのは楽しいからです。

確かに、「宇宙はこうなっている」と話をされたら、あながち嘘ではないと思う自分がいたり、すんなり納得することもあるかもしれません。
そこであっさり宇宙の真理について知ってしまえば、この宇宙の真理を自分で解き明かすプロセスを陳腐に感じ、探求の楽しみを失ってしまうのは勿体なく思います。

私たちはおそらく、この時代の世に生まれてきたのは、「体験すること」自体に意味があるからです。
その体験が魂を磨き、人生を充実させるからこそ、真理は見つけた瞬間に大きな価値を持つのです。

それが気軽な動画から得られるのは、確かに便利ではあっても、便利さで満足するかは自分の選択です。

だから私は、スピリチュアリストが言う全てのことに対して、実感を通して共鳴する部分だけにアンテナを張っていますし、それも自分の魂の体験で「あれは本当だったかもしれない」と思う日まで、飲み込まずに咀嚼を続けています。

現代人は「答え」や「正解」を見つけるには、早ければ早いほど良いと考えがちですが、答えや正解の価値は、問題の難易度がわからなければ容易く忘れてしまいます。
その難易度の高さは、自分の実体験を通してしか理解できず、それも他人に「これはハイレベルな問題だ」と教えてもらうのは意味がありません。

私とは何者なのか、神とは何か、世界はどうなっているのか、人間はどういう存在なのか、それらは自分に与えられた条件の上で解いていくからこそ面白いのです。

確かにわからないものと向き合うのはストレスを感じるかもしれませんが、自分なりの答えを見つけた瞬間にはカタルシスもあります。
そのプロセスは苦しくもありますが、プロセスそのものが喜びに向かうものだと私は思います。

だからこそ、安易に「他人の真実」を自分のもののように思い込むのはやめよう、今はそう考えています。