「天日月大神」解説

楽太郎です。
ここのところ、「神世」と「人世」のエネルギーの相剋状態が佳境に入っているように思います。

「神に仇なす者たち」の妨害が脇目も振らないような激しさとなっているように見えますし、同時に「変革と覚醒」のエネルギーがそれだけ押しているということだと思います。
おそらく、一般的な人々の間でも葛藤が起きており、ここでさらに「闇化」する人と古い時代に袂を分つ人が大きく引き離されていくと思います。

この「クライマックス感」は秋分点まで高まりつつ、10月からはまたガラっと空気が変わるはずです。
おそらく、世の中が大きく動くとしたらその辺りからではないでしょうか。

さて、今回は例によって「日月神示解説」です。
「日月神示ファン」の方々なら最も気になるであろうトピック「大峠」に関しては次回以降にしたいと思います。
そこに至るまでに「前提」の話をしなければいけないからです。

「日月神示解説」で取り上げている「荒れの巻」口語訳と解説において、その内容から「伊奘冉命が真の天照大御神であり、伊弉諾命が岩戸開きによって復活なされ、その跡を嗣ぎ(厳密には共同統治)、天日月大神となられる」と読み解きました。

「月と大海原(地球)」を治める素戔嗚命とは伊弉諾命(国常立尊)の「神力の働き」を示す神格であり、「天照大御神=天照皇大神」に対応する御神名であると考えています。

「荒れの巻」に登場する「那岐・那美の神」とは、神示において「伊弉諾命・伊奘冉命に先立って誕生した二柱神」と想定され、後に解説しますが「高神産日神・神産日神」に比定することが可能です。

なぜ「記紀」で男神として描かれる「高神産日神」が伊弉諾命ではなく伊奘冉命とするのかと言うと、記紀での「成婚」の段で、天沼矛を使い作り出したオノゴロ島に八尋殿を建て結婚しようとする折に、伊弉冉命が先に声を掛けたことで一度破談になっています。

上位である「高神産日神」がリードするのは理に叶っていますが、両者の立場通りにプロポーズしたらうまくいかなかったためで、これは「伊弉冉命」が伊弉諾命よりも立場が上であることの証左ではないでしょうか。

また、神示には「男が上で女が下」と男尊女卑を髣髴とする、議論を呼びそうな文言が登場します。
少なくとも神界のルールでは「男神」が先に立つ必要があるのでしょうが、その「順番(いろは)」が違えば物事はうまくいかないということだとしたら、やはり男神である「伊弉諾命」が順序に従いプロポーズをする側だと考えられます。

最初に「太陽と月」を二柱でお造りになられた時、既に「太陽」の支配権を得たのが伊弉冉命であるとするなら、高天原の最高神格である「天照皇大神(大御神)」の玉座も伊弉冉命のものである可能性が高いです。

そして、神界(高天原)を統べるのが伊弉冉命(天照皇大神)であるなら、「高神産日神」の御神名に相応しいのは伊弉冉命であり、また女神である以上は多くの神産みが可能なのも高神産日神である所以なのではないでしょうか。

「記紀」において瓊瓊杵尊が天孫降臨を行う件において、その指揮とサポートを行ったのが高神産日神であり、それゆえに天照大御神の次なる権威という印象も抱きます。

伊弉諾命が単神で三貴子をお産みになられても、神話上どの権威の座にも属していませんが、伊弉冉命は死後に「黄泉の国」の支配神となられているので、やはり伊弉冉命のご神格が本来「上位」であるとした方が自然です。

ゆえに、「荒れの巻」で語られる「那岐の神」を「神産日神」と比定し、「那美の神」を「高神産日神」と同定した上で話を進めます。

記紀ほか日本神話では高神産日神・神産日神を始め「造化三神」を性別のない単神をしますが、神話の語り口ではやはり高神産日神を「男神」とすることが多いので、ここでは視点からは外します。
 

 
「日月神示」の内容から抽出した「最高神の系図」です。
神示の中で複数回言及される「御三体の神々」には2パターンあると私は考えています。

原初の神であり、「宇宙そのもの」でもある天御中主神と、その次に成り出でた「高神産日神」と「神産日神」は、「天地開闢」というレイヤーで重要な役割を果たされた神々であり、神示に言うところの「元の神」であるため、こちらの神々が生き通しだからこそ現在の宇宙が存在しているのであり、確かに御三体の神々が御働きをやめてしまえば、宇宙は成り立ちません。

これらの宇宙創生に関わる神々を「天の御三体の神」と呼ぶならば、宇宙が出現した後に元の神々は役目を変えられて違う神格になり、異なる御働きをなされるはずです。

それが「成りなりて」という表現での「別の神格での生まれ変わり」を意味しますが、そもそも天地開闢から生き通しの神々様であらせられるので、「死による転生」とは捉えられないかもしれません。
先ほど天の御三体の神に比定した「那岐・那美の神」は、「国生み」の段にて「伊弉諾命・伊弉冉命」としての御神格に成りなられます。

神示にはもう一つの「御三体の神」として天照大御神の荒御魂とされる「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」と思われる「つきさかきむかつ姫」を加えた神々が言及されています。

神示の言い回しでは、「天照大御神」と「天照皇大神」、「天照皇大神宮の神」とはどうもご神格が違うようで、おそらく「真の天照大御神」は未だ岩戸に隠れられているとされているので、そのご神格を伊弉冉命とするならば、「撞賢木向津姫」は天照皇大神宮の神であると考えられます。

伊勢神宮始め数々の由緒書きや伝承本によれば、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」は「瀬織津姫命」とされており、神示の中でも「祓い清め」や「祓戸大神」は重要なタームとなっています。

中臣祓詞、通称「大祓詞」や「禊祓祝詞」「天津祝詞」において、祓戸大神は伊弉諾命が黄泉の国から帰還した際、潔斎をした際にお産まれになられています。
その時に天照大御神含む三貴子が同時にご誕生なされており、この故事が「天照大御神=瀬織津姫命説」の論拠となっています。

なぜ伊勢神道始め歴代の神道が伊弉冉命ではなく瀬織津姫命を「天照大御神」としてお祀りしているのか、私はきちんとした根拠があると思っているのですが、それとは別に「撞賢木向津姫命」が御三体の神に含まれているのはなぜでしょうか。

神示の文脈でいうと、日(太陽)の神としての伊弉冉命、月と地球(大地)の神としての伊弉諾命の他に、「水の神(地球の水)」を司る撞賢木向津姫命の「御働き」があるからこそ、太陽の光と大地と水の力で生命が育まれているからではないか、と思います。

これらの司宰神が三柱揃うからこそ地球上に生物が存在しうると考えたら、宇宙創生の神々に等しく重要な御働きを担われている神々であると言えます。
私は、こちらの三柱を「地(くに)の御三体の神」と呼称したいと思います。
 

 
付け加えておくと、「撞賢木向津姫命」は伊弉冉命が黄泉の大神となり、伊弉諾命と仲違いした時に伝言をなされた「菊理姫命」と同じく、伊弉冉命の御子神か二柱からご誕生なされた可能性があると思います。

「撞賢木(つきさかき)」の「撞」とは「月・槻」であり、「賢木」を「榊」と置き換えるなら、「向」は「日向」に使われる「依代(神籬)」に宿る神格であり、「月」と「榊」はそれぞれ月と太陽(日)、或いは「サ(稲)」の神であることを示しているのではないでしょうか。

ならば、「撞賢木向津姫命」は太陽と月の両方の性質を受け継いだ女神ということになり、伊弉諾命と伊弉冉命の二柱の御子神と考えて良いかもしれません。

伊勢神道を始め、日本で「日月」の性質を持つ撞賢木向津姫命を「天照皇大神」としてお祀りする意義は強いと思います。
しかし、神示の中では伊弉冉命も伊弉諾命も各々が幽閉に近い状況にあり、ならば二柱の正統後継者として色濃い撞賢木向津姫命が神界を支配しているのでしょうか。

私はその可能性が高いと思います。
しかし、神示では二柱が幽閉に近い状態に置かれ、「騙された神が”偽の岩戸開き”から現れたことで闇の世となった」と語られています。

「騙された神」が撞賢木向津姫命であるかは定かではありませんが、いずれにせよ「騙した神々」がいることは確かで、ややすると偽の岩戸開きをでっち上げた神々が伊弉諾命と伊弉冉命を幽閉させた上で、クーデターを成功させ「闇の王」として支配していたとも考えられます。

或いは「騙されて王位に就いた」撞賢木向津姫命の統治能力が低いために混乱が起きたのか、権力を有した宰相が独断で勝手な政治を始めたのか分かりませんが、それによって神界は相当乱れ、その混乱は三千世界に広がり今の私たちの情勢に繋がっているということらしいのです。

あるいは、「祓戸大神」「瀬織津姫命」として、父・伊弉諾命の補佐役につき、地上に残って世界の罪穢れを浄化する役割に徹していたのかもしれませんし、「菊理姫命」として封じられた両神の伝通役を担っていたのかもしれません。
そうだとしたら、皇統のロイヤルファミリーが何者かに高天原を追放されていた可能性も考えられます。

神示に語られる「五つの岩戸閉じ」のうち、「人皇による支配」と「仏教伝来」以外の岩戸閉じ、「黄泉の千引の岩戸」「天照大御神の岩戸隠れ」「素戔嗚命の追放」は伊弉諾命と伊弉冉命の幽閉と比定することによって説明がつきます。

そして大峠の後に達成される「岩戸開き」が起こると、東北の地に封印された「国常立尊(伊弉諾命)」がまず最初にお出になられ、すぐに「千引の岩」を自らこじ開け、幽閉された天照大御神(伊弉冉命)を救い出し、何千年か越しに逢瀬を果たすと言われています。

その後、伊弉諾命は真の天照大御神(皇大神)であられる伊弉冉命から、高天原を支配する玉座を引き嗣ぎ、次の「天照皇大神」となられます。
そして二柱で神界を統治することになり、「日の神」である伊弉冉命と「月と地の神」である伊弉諾命が一緒になり、「天日月大神」となられるのです。

神示の中では、国常立尊一柱が「天日月大神」となられるようにも読めるのですが、「荒れの巻」では両神が「一つになる」ことが特に強調されているので、仮に伊弉冉命が天照皇大神の玉座を降りずに引き続き就任するにしても、伊弉諾命が新しく玉座を獲得されることに変わりはなく、「天日月大神」となられる事実も変化しません。

そのため、別の見方では「素戔嗚命が天照大御神となる」という解釈も可能です。
神示では「天が地を補佐する」とも書かれており、素戔嗚命の天ヶ下での御働きを天照大御神がサポートするという意味に取れば、やはり二柱での共同統治という説明は理に叶っているように思います。

そして、「日月神示」がなぜ「ひつく」と呼ばれるのか、要所に出てくる「てんし様」とは何かと言えば、「天嗣(てんし)=天(日)を嗣ぐ」ことを意味し、国常立尊が「てんし様」となる意味が通ってくるのです。

伊弉諾命と伊弉冉命が一緒になることで「天日月大神」となられるのだとしたら、時に見られる「大日月大神」とはどう違うのでしょうか。

神示には「大日月大神とは人間の言うお役所のようなものぞ」という一文から察するに、大日月大神とは神の類魂(グループソウル)を示す可能性が高く、大洗濯後にはバラバラに行動していた神々がひとまとまりになるとされることから、高天原を始め全ての神々が大日月大神となる(属する)とも言え、それゆえ「お役所」という表現になるのだと思います。

その大神を取り仕切る神が天日月大神であるとするなら、二柱神は「市長」のような感じかもしれません。
天日月大神が神界・幽界を支配する最高神とするなら、地上いわゆる「現界」を司るのも二柱であり、しかしその場合は「地(くにの)日月大神」と呼ばれるはずです。

そして神示によれば「地日月神」とは臣民、即ち人間のことであり、そもそも大神から分御霊(わけみたま)を与えられている全ての人類は、神の一柱です。
つまり、全世界の「神」の類魂、集合体が「大日月大神」そのものとなり、それゆえに三千世界を跨ぐ統一・統合が可能になるということではないでしょうか。

そう考えると、これまで神・幽・現界とそれぞれ三千世界がバラバラであったがゆえの混乱であり、それが「闇の世」をもたらしてきたのだとすれば、それらの世界の統一は理に叶っていますし、確かにこの世が誕生して以来ない大変革です。

その膨大なスケールの構造改革こそ「大峠」であり、冷静に考えてこれほどの改革が行われるのであれば、衝撃的な出来事や「禍事」に似たショッキングな現象が伴うのも頷けます。

しかし、「三千世界の大洗濯」が終わった後には、「悪を抱き参らせた」新たな秩序の宇宙に生まれ変わり、そこでは「善と悪」の戦いはなく善も悪も仲良く弥栄える、三千世界通して天地一平の世になると神示には語られています。

現在、自らを「絶対正義」と信じて疑わず、あらゆる偽称も搾取も迫害も、「善悪の戦い」という暴力の中で正当化されているからこそ、世は混沌とした闇の世となっているように感じます。

この争いこそ「大洗濯」の渦中に現れる罪穢れや禍事であるとするなら、その汚れを取り去った後には、確かに奇麗な風通しの良い世の中になっているかもしれません。
私は、どうもそれが今この世界で現象化しており、「大峠」はこれから佳境に向かっていくように思えてなりません。

そのことについても「日月神示」には記されており、その解説は近いうちにしたいと思います。
そして新たな世界の扉を開く「岩戸開き」は、どうも私たち地上の人々、「地日月神」にかかっているようなのです。

そのヒントも神示にはあるようです。日月神示は、本当に示唆に富む書物だと思います。