蜘蛛の糸

楽太郎です。

冬至でエネルギーがきっぱり切り替わり、先日のブログでも書きましたが、人生のテーマが刷新されました。

これまで、私は人の目や評価を気にしながら、それに合わせたり過剰に適応しようとすることで、自分の軸にしていました。
しかし、神様的にはその依存性は度し難いらしく、瀬織津姫様から浄化を促されています。

私の過剰適応に伴う努力性や献身性、悪く言えば自己犠牲的な生き方は、「自分を大事にする」とは程遠いものでした。
うまくいかないことがほとんどでしたし、だからこそ周りを責めたり、社会を責めたりしました。
けれど本当に問題なのは、目的意識を常に外側に求め、結果を他者から与えられるのを待つ態度そのものにありました。

そこにある劣等感は、人の世が作り上げ、長い時間をかけて刷り込んできた「欠落感」から派生したものです。

私たち人間は、生まれ持って頭ごなしに否定されるべき要素など持ち合わせていません。
しかし、人間社会はその性質を評価し、分類して要改善とすることで、人々の天性を抑圧してきました。

私たちは長い間、「価値のある人間と価値のない人間がいる」と信じ込まされてきました。
そして大抵の場合、人は自分を価値のない人間だと思い込んでいます。
価値のある人間は、他者と比較して優れた者だけに与えられた資格であると信じています。

しかし、私たち一人一人に与えられた「ワケミタマ」は、神の一部、神の一柱でもあります。
ところが、人間には魂など存在せず、それこそ動物やモノと同等の生物であることにすれば、神を否定したい人々や存在からは都合がいいでしょう。

「魂」や「霊」を否定することが可能なら、その延長にある「神」も否定することになります。
だからこそ、彼らからすれば人間が「細胞でできたロボット」でなければならないのです。

けれども、誰もが神のワケミタマであり、「誰もが価値がある」ということになれば、人の弱みはだいぶなくなるはずです。
誰もが自分に誇りを持ち、心の声を聞き、真贋を見分ける感性があれば、闇のつけ入る隙はなくなります。

私たちの本来の姿、生き方はそこにあり、「目覚め」とは自分が神から祝福された魂であること、分け隔てなく自由で幸福になれる魂であると理解することにあります。

私の半生を貫く苦悩は、他者と比較し優劣を他者か自分がジャッジし、外側の価値観で己を反省し、自らの目的や動機にしていたから起こるものでした。
しかし、その「根拠」としてきた外圧は、すでに崩壊のフェーズに入っています。

私たちは、仕方なく外側の仕組みに寄りかかる時代から、自分の足で立って世を歩いていく時代に移ろうとしています。

この冬至、私に与えられた課題は「人の世の価値観から解き放たれる」ことでした。
中でも、社会の常識というより、自分の心の動機づけに使用していた「思い込み」、とりわけ「妄想」とさえ言える部分です。
これは私の深いところに染み込んだ思考癖でもあるので、簡単に変えるのは難しく、わかっていても同じことを繰り返してしまいます。

私はこれまで「神から与えられた役目」とは、人々の願いを叶えたり、役に立つことだと思っていました。
私の生業もその延長にあり、人間を中心に考えることが神のご意志だと信じてきました。
けれども、神様は必ずしも全ての人間を救うおつもりはないようです。
むしろ、振り払うべき人間を選ぶために、神様はこれまで入念な準備をしてこられたようなのです。

もちろん、人に奉仕して人を助けるのは前提なのですが、神様にとっては全てではないように思います。
大切なのは、人よりも神様のご意志を優先することなのかもしれません。
「人のため」を思ってやることと「神のご意志」で行うことは必ずしも一致しません。
その部分を混同せず、それが神様のお選びになったことなのかを注意深く察する必要があります。

そう考えると、私は自分の立場やなすべきことがわかってきました。
意思決定の上で重要なのは、「神の優先順位」に他ならないということです。
人の世の価値観より神の道理を優先すること、他者ではなく自分、自身の信念よりも神を優先することです。

これに気づいた時、私は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出しました。

悪人のカンダタはある日、気まぐれで蜘蛛を助けますが、カンダタが死んで地獄に堕ちると、仏様が蜘蛛の糸を地獄に垂らして極楽へ上がれるチャンスをお与えになります。かつてカンダタが蜘蛛を助けたのを、仏様がご覧になられたからです。

私が蜘蛛だとしたら、カンダタが助かるかは蜘蛛である自分が決めることではないはずです。
地獄に堕ちる選択をしたのはカンダタ自身ですし、カンダタを裁いたのは仏様です。
蜘蛛は、自分の役割で糸を垂らしたにすぎません。

私は人の目を気にするあまり、自分自身のやり方に徹することに気後れしていました。
人々はどう思うか、これをやればどうなるか、神様はこれをどう見るだろうか、そればかりを気にしていました。

しかし、私は己に与えられた役割をこなせばいいだけで、それがどういう意味を持つか、どれだけ世に貢献するのかまで考える必要がありません。
それを決めるのは、関わった人たちかもしれませんし、神様かもしれません。
自分が何をすべきか、役割とは何か、それを難しく考える必要はなく、神様が降ろしてくるものを信じて自分なりにやればいいのです。

それがわかった時、急に気持ちが楽になりました。
人は自分にできることは知れてるので、下手に全てに責任を感じる必要がありません。
人間にできないことは神様の世界の話であり、今は神様にしかどうにもない時だからです。

だから、今は自分自身に集中してていいのです。
むしろ、これから局難が来ることは想定できる以上、今は地盤固めに勤しむべきでしょう。

今、地球の次元上昇は思っている以上に早く、上昇しなかった人々をどんどん引き離しています。
この大衆にチャンネルを合わせると、自らの波長がどんどん下がっていくのを感じます。
それほどまでに人の世は、神からも地球からも見放されているように思えます。

こういう時こそ、はっきり目的意識を持ち、波長を落とさないように心がけるしかありません。
冬至でエネルギーが変動し、覚束ない感覚もありますが、幸いにしてこれから年末年始を迎えます。
そこで新しい気持ちに切り替えて、2025年という局難に立ち向かう準備をするには、うってつけの時期かもしれません。