自分の中に「神」を認める

楽太郎です。

今年も最後の日となりました。
思えば、今年の前半は迷走から始まり、秋分を機に精神性がガラッと変わり、急激にスピリチュアルに目覚めていきました。

それから3か月の間に神の存在を信じるようになり、自分の使命を確信し「神代をつくる」ことを決意するとは、夢にも思いませんでした。
思えばこの3年は何をやってもうまくいかず、その原因も世に対して逆張りを続けてきたからで、知らず知らずのうちに、魂はずっと次元上昇の準備をしてきたのでしょう。

これまで、自分のエゴで汚いことも平気でやれましたし、道を外れたことすら何十年もしてきたはずなのに、一気にここ数年で軌道に戻された感じがします。
おそらく、私は土の時代にうまくやれたとしても、このシフトの時までに準備を整え、いずれにせよ神の計画に参加する定めだったのだと思います。

ところが、この神の計画に魂の成長を無理矢理合わせる形になったため、この3年間は修行に全振りしなければならず、社会人として全く何の財産も築き上げることができませんでした。

今でも、自信のなさや不安が払拭できたわけではありません。
人間としての無力感は根強く、この数日は自我のロックが緩んだため、どんどん自信のなさや不信感が湧き出てきています。

これは、私の感じ方では魂のレベルが落ちているように見えるのですが、おそらく己の波動を上げるために今まで背伸びをしてきたのだと思います。
背伸びをした分、背は高く見えますが力を抜けば普段の姿勢に戻ります。
その観点で見れば、人格の統合が起きているのかもしれません。

ただ、不安がよぎるたびに浮かぶのは、「世の中は唯物史観のまま高度な文明を謳歌し、古い精神性を持つ自分はこのまま弾き出されて死ぬのでは?」という恐怖です。

経済は目に見えて悪化し混迷は深まり、世界から秩序が失われようと、今の堅固な支配構造だけが残り、大切な人を守れずに淘汰される未来を想像し、私は時に震え上がります。

私は世に対して、公平な和気藹々とした空気で一緒に暮らしたかっただけなのに、見ず知らずの人から受ける暴力に立ち向かうため、なぜ戦いを始めなければならなかったのか、それが悔やまれてなりません。
日本人は、この十数年で全く違う民族のようになってしまいました。
日本人が変わってしまったことを信じられず、だからこそ世を変えようと抗ってきました。

現在のうまくいってる側の日本人は、それでいいのかもしれません。
しかし精神性のある、かつての日本人のような人たちは、この国に未来を見ることはできないはずです。
このブログでたびたび言っていますが、私はどの道この社会では生きられないのだから、一か八か神様に賭けて真正面から挑んでやろうと思っています。

岡本天明翁に降ろされた日月神示では、「大阿呆になれよ、逆の阿呆になるではないぞ」とあります。
ここでいう「大阿呆」とは精神性のある人間のことであり、学歴階級社会を駆け抜けてきたような、莫大な資産や権力を持っている唯物論者とは真逆の存在でしょう。
その意味で、私はすでに大阿呆です。土の時代に精神性を持つことで幸せになれなかった人間だからです。
ただ逆の阿呆が賢き唯物論者たちのことを指すのなら、日月神様は少なくとも「そうなるなよ」と仰られてるのだと思います。

私に刻まれたこの無力感は、何も持っていない劣等感、喪失感に加え、挫折体験によって自らかけた「呪い」に他なりません。
持つものが優遇され、持つからますます成り上がっていく世界で、持たざるからこそ自他共に刻んだ「落伍者の烙印」です。

仮に、これまでの時代が変わるならば、呪いや烙印にかけられた術者の力は消失するのではないでしょうか?

そうなれば無力感という心の闇は薄れ、自分を縛る鎖は打ち破ることができるはずです。

私たちは完璧な魂を持って生まれ、それぞれの条件で発揮できる才能を持ち合わせているのに、能力を発揮させないように後天的に細工されてきたのだと思います。

人間が生まれ持って自由に未来を選択し、それぞれの目的に才能を持って実現していくならば、人々は自信に溢れ充実した人生を手に入れられるはずです。
もし、それを実践する人が多いとしたら、困る人がどこかにいるかもしれません。
賢い大衆は強権的にコントロールできなくなり、欲望に右往左往してくれなければ、ビジネスもやりづらいでしょう。
私たちはどこか古い時代のある時期に、劣等感に苛まれるようプログラミングされ、心の穴を埋めるためにお金や時間を使うように仕向けられたのだと思います。

けれど、その時代は人々が目覚めれば自ずと終わるはずです。
私たちは、誰もがその覚醒が可能な魂の持ち主だからです。誰もが神のワケミタマを与えられているとしたら、人は遍く神の一柱に他なりません。
自らの中に神を見るならば、人の作り出した理は所詮、人が作り出したものだと思えるはずです。

己を神だと自覚してしまえば、「神」という存在は特別ではないと感じるはずです。
「神」を畏れ多き存在だと敬遠するのは、自らを人間だと思うからです。
私たちは自らを大いなる神の一部だと知ることで、無力感という闇を深い部分から照らせるはずです。

私たち人間がこの目覚めに至れない理由は、自身の神性に目覚めれば目覚めるほど、「孤高」となっていくからです。
孤高とは、群れから離れることを自ら選択し、唯一無二の宿命を生きる道です。
誰かに寄りかかることも、真似することもできない生き方は、強い覚悟と勇気が伴います。
だからこそ、多くの人はそこに立ち向かえず、奴隷的な生き方に甘んじてしまいます。

私たち一人一人は、生まれ持って孤高の道が用意され、唯一無二の才能が発揮できるように生かされていきます。
だからこそ、外にあるものに依存せず、選択を誰かに委ねきらず、自分自身の心だけを頼りに前に進んでいけば、必ず道は拓けるはずです。

ただ、その自覚に至れたとて全てが見通せるわけではないでしょうし、目の前にある社会がガラッと変わるわけでもないでしょう。
しかし、この社会は意識の集合体なので、洗脳から解き放たれる人が多ければ多いほど、変革の波は広がるはずです。

それが新しい時代を作る鍵であり、古い時代を乗り越えていく道なのだと思います。
来たる2025年は、その挑戦が本格的に始まる年だと感じます。

私は、ずっとその準備をしてきました。
不安は正直ありますが、いよいよだと思います。
もう後戻りはできません。