楽太郎です。
これから金融経済を中心とした物質文明に、一つの区切りがつくことは、どうやら間違いないようです。
私が想像している「神代」という新しい時代は、神や霊魂という、これまで科学で隅に追いやられた根源的概念が見直され、主軸となっていく時代だと思います。
そこでは、引き続き人間は地球という大地の上で物質を操りながら、これまで以上に目に見えない存在や価値観を尊重する、調和的な世界が到来すると予想します。
この世界に渡るには、「才能」と「信仰」の二つの要素が必要であるとされ、神代に渡りたい人々はその導きに従い、各々が試練を経験してきました。
「才能」と「信仰」という両輪が神代に渡るための歯車だとしたら、絶妙にその二つが噛み合っている人は少ないのではないか、と私はずっと実感がありました。
「才能」はあって、技術やセンスを磨いているけれど、目に見えるものしか信じられず「信仰心」がない人。
「信仰心」はあり、神仏に祈りを捧げているけれど、いまいち自分のやりたいことを追求できず、才能を埋もれさせている人。
わりと世に溢れているのは、片輪しか回せないタイプの人ばかりではないか、と常々考えていました。
ともすれば、神代に渡る人は想像以上に多くないのではないか、とうっすら疑念があり、その母数で果たして文明を維持できるのか、具体的に神代の社会構造について頭を巡らせたりしていました。
これに関して、先日私の指針としている方から、お導きがありました。
神様は、もう神代に渡った人々の総数を気にされていないかもしれません。
神代勢は一つのまとまりとして、神のご計画の中で回していく方針であり、人世からのサルベーションはもはや時間切れに近い。
この内容は、神様の温度感を知る上でかなり衝撃的でした。
私の文明観では、全国津々浦々にいる神代に渡った人々がどれだけ集まろうと、文明水準を維持するのは難しいのではないかと思っていました。
しかし、神々にとっての優先順位は「文明の存続」にはないのかもしれません。
神のご計画では、そのうち神代と人世の連結はほぼ切り離され、神代の母数の中でのみ発展させていく方向になるとも考えられますし、いつまでも往来が可能である保証はどこにもありません。
これは、私にとって考えを改めさせるには充分な情報量でした。
私の仮説では、日本神界におられる菩薩は、人の世に残った魂を何らかの形で救済するよう願われ、その道筋を残されるのではないかと考えていました。
衆生救済の慈悲の心は、例え神仏を足蹴にする輩にも覚醒の光を残されるのではないか、と。
人間には自由意志があり、その自由意志には新たな世界の扉を開く自由が保証されているはずだ、と考えていました。
しかし、これはどうやら見当違いのようでした。
神様からすると「今から悔い改めるほど悠長な時間はない」のだと思います。
もはや、神代に渡るか渡らないかの時間切れはもうすぐで、サドンデスや敗者復活戦のような余興はない。
選別が完了したら強制的に篩い分けが始まり、そこで起こる崩壊は、文明の維持を優先して行われるわけではない。
私はこれに気づいた時、自分の見通しの甘さと神様との温度差に驚愕し、考えを改めさせられました。
もし、これまで同様の文明観で生活を維持しようとすれば、働き方や商売の仕方も根本的に見直さなくてはならないでしょう。
かつて、「お金=マネー」を所有しているのは一般大衆でした。マネーを得るためには、大衆に顧客をどれだけ増やせるか、戦略を取りターゲッティングをしなければ、商売として成り立ちませんでした。
そこには、権威的な内向きの「欲望の潮流」があり、その流れを読んで釣糸を垂らす必要がありました。
しかし、この「欲望の潮流」が消失する世界になるならば、これまでのビジネスのあり方が根本的に変わることを意味します。
「金運」はもはや神様たちが握っている、と言われています。
神様は、基本的に人間のロジックでは動かれません。善悪や優劣といった軸ではなく、徳の高さや魂の輝きを神様は重視されます。
私が神様の顔色を伺ってみて感じたのは、もはや「儲け」という、人にとって当たり前の価値観ですら通用しない世界をご計画されているのではないでしょうか。
となれば、人世にアプローチをかけるビジネスはもとより、「儲け」を念頭にしたビジネスプランですら無力化される可能性もあります。
私は個人的に、ここまで神様が文明に深くメスを入れるとは考えていませんでした。
それは「資本主義経済」までも終わることを意味するからです。
資本主義が終われば経済は劇的に変化し、今の街の形すら変わるかもしれません。
神様がそこまでやるとは想像だにしなかった、私はやはり甘かったのだと思います。
神様が金運を支配し、それを神に選ばれし人間に分配なさるとしたら、私たちは神様のご意向を逆算しながら、これからの仕事を考えるべきなのかもしれません。
おそらく、今わずかでも人世に残している商業的アプローチは引き揚げ、神代の市場に振り向けた方が今後の安定に繋がるとも考えられます。
そこでは、「利益」を軸としたビジネスモデルではなく、「貢献」という目に見えない尺度で経済が回っていく仕組みなのかもしれません。
だからこそ、神様は私たちに「才能」と「信仰」が必要だと仰られたのだと思います。
才能があれば、モノに依存しなくても技術で生きていける。信仰があれば、神の声を聞いてどんな時でも生き残れる。
神様がこれまで発してきたメッセージの意味が、一本の線になって見えてきます。
それは高い熱度の意志であり、私はこれをもっとぬるい感覚で捉えようとしていました。
これに気づいた時、戦慄すると同時に覚悟を問われているように感じました。
「今まで通りの生活」が目に見える形で変わっていき、それが目に見えてこないうちは誰もこの温度差に気づかないかもしれません。
しかし、ずっと神様は一貫してこの生き方を提示してこられたのです。
「時間がない。早く準備を終わらせなさい」
神様が私たちに要求しているのは、どうやら一つのようです。