神様の望みごと

楽太郎です。
今朝の出来事を書きます。

先日、須佐之男命様を描かせていただきました。
その制作過程で地元にある薬師堂の如来様に完成祈願をしました。
その頃は、須佐之男様から受けるプレッシャーにビビり倒していたからです。

一応その件は完了したので、お礼参りをしました。
そうしたら、やっぱり念が体にドシっときて、こういう時でもご奉仕せねばならんのだなと思いました。

この念を抱えている間、妙に「お金」のことが気になりました。それも某大企業の社長のことが頭をグルグル回ってたので、お金関係の念を背負わされたのだと思います。
散歩がてら、ご神気を不思議と感じる一画に立ち寄り、念を浄化することにしました。

この念を放出するために瞑想していると、先日の須佐之男様のイラストのことが思い浮かびました。
私はなぜ須佐之男様のイラストを依頼されたのか腑に落ちなかったのですが、イラストをネットに上げること自体に意味があったのではないかと気づきました。

つまり、神様たちはこのネットの世界の浄化もされるおつもりなのではないでしょうか。

ネットというのは、人間の闇の部分が濃く出る集合意識そのものであり、仮想的社会を形成しています。
人間の現実意識の面だけでなく、こういうレイヤーの集合意識も浄化されるとしたら、計画として理にかなっているようには思えます。

とは言え、私のイラストがどういう効果を発揮するかまでは想像もできません。
ただ、その時思念が入ってきて、「あなたもそれを望んでましたよね?」と来ました。
いや、確かにそうですけど、本気ですか…?

そのあと河川敷に行って、浄化を終わらせました。
近くに竹林があり、そこに呼ばれた気がしたので掃除をしてきました。

神様とお付き合いさせていただいている感覚からすると、神様が人間にして欲しいことの大半が「掃除」のような気がします。
私が何となく言われた気がしてやることの第一位が「落ちている木やゴミを拾う」です。
何となく踏んだら躓きそうな木の枝とか、明らかに自然では取り除けなさそうな障害物などです。

先の神社でも「念」は霊的に言えば人間の出すゴミみたいなものですし、神様はそういうのは人間にやってもらいたいようなのです。

神様が人間に求めることは、「神を敬え」とか「人を救え」とか大層なものではなく、「境内を綺麗にしてくれ」とか「ゴミを片付けてくれ」というのが、なんか不思議に感じます。

「神様が身近な存在になる世界」は、それほど異世界感溢れるものではないかもしれないな、と最近思います。

例えば頼れるおじさんが近所に住んでるとして、そのおじさんの家に押しかけて「困ってるから助けてくれ」と頼むよりも、おじさんの家の前の掃除や余ったおかずを分けに行ったりして、仲良くなったよしみで助けてもらう方が自然です。

それが、いきなり玄関を開けて「金が欲しい!何とかしてくれ」と言おうものなら門前払いです。
でも、人間は神様にこういう態度で接してませんか?

だから、ご近所付き合いとか、人間社会の付き合いと神様との関係は大して違わなくて、礼儀やマナーを求められるのはその辺なのかなと思ったりします。

だから神様と身近だった昭和あたりまでは、日本人はそういう感性だったわけで、神代は温故知新の世になるだけなのではないのでしょうか。
そのためには、現代人が学ばなくてはならないことは本当に多いと思います。