楽太郎です。
20日頃から続く日食新月のエネルギーを受けて、久しぶりの強烈なアセンション反応でダウンしていました。
日食というのは、地球と月と太陽が一直線に並び、太陽に月が被ることで地球から見て太陽が暗くなる現象です。
スピリチュアル的には普段の新月よりも強力な「リセット」が働くとされ、人心のみならず社会情勢にも影響が起こることが多いそうです。
この日食新月が、私の誕生月である「乙女座」で起きています。
同時に金星も乙女座に入っているので、占星術的に見て乙女座、天秤座と月に強いテンションがかかっています。
そして明日、秋分を迎えます。
私は以前から今回の秋分点が節目になるという話をしていますが、マクロな意味だけではなく私自身にその変化は重要な影響をもたらすと思います。
この数日に私が感じ取っていた新月のエネルギーは、「統合」を意味していました。
自己浄化を日々進める中で、私自身の過去と現在のギャップの違和感をどうも埋められず、過去の自分との連続性をどう捉えたらいいのかわかりませんでした。
私は色々なことに手を出してやってきたのですが、その支離滅裂さもありながら、行いの悪さやあまりに浮き沈みの激しい過去を振り返り、この凹凸だらけの人生を消化しきれない私がいたのです。
自分の内面を浄化していく中で、昔の自然体の自分を取り戻し、ようやく楽になってきた感じはあります。
しかし、過去の自分と感覚を取り戻すにつれ、記憶に付随する世界と現在の世界との繋がりにギャップを感じたりもしました。
昔の日本は、ヤンチャな若者が多かったですし、社会全体もまだ活気があり、今よりもっと雑然としていました。
世の中が「青春」している感じがあって、まだ様々なことに夢がある時代だったのです。
人々はまだ浮かれ気分で、しょうもないことに情熱を燃やして失敗しては、笑い話にできるような世の中でした。
どこへ行っても人でごった返し、チャラチャラした若者がナンパ待ちをしていたあの街はどこへ行ってしまったのか、私は未だ腑に落ちないのです。
あの頃、天にツバを吐くほど威勢の良かった友人は今どんな顔をして暮らしているのか、見当もつきません。
けれど、あの頃の人々も街並みがもうないことだけは事実で、私はそれをどう納得すれば良いのか、ずっと考えていました。
自分の人生以上に「連続性」を感じにくくなってしまった、日本という国。
その社会に生きてきた、今生きている自分にとって、「時代」に繋がりを感じないことへの違和感を、どう消化したらいいのかわからなかったのです。
そして、何となく時代の雰囲気にノって「やらかし」てしまった私の過去も、どこまで「時代のせい」にできるかも曖昧なままです。
けれど、私の近年の運勢や、誕生月に太陽と月と地球が並び、「秋分」という転換点を迎えることの意味と照らし合わせた時、そこまで「原因」にこだわる必要もないことに気づいたのです。
少し前に、ある夢を見ました。
私は生まれて間もない頃、バラック小屋が並ぶような地方の街に住んでいたのですが、その裏手には大きな刑務所がありました。
その街並みも、当時一歳くらいだったはずなのに今でも思い出せてしまうのですが、そっくりの街にいる夢を見たのです。
バラック小屋の間を歩くと、私の住んでいた家の真裏に山があって、そこを見上げると大きな「神社」がありました。
私はそこに登ると、タイルとガラス張りで綺麗に整備された神社があって、そのフロアから街並みを見下ろすことができました。
私は目を覚まして、私が生まれた頃から「神様」は私をご覧になられていたのだと思いました。
というより、生まれる前から両親を見守り、私が生まれてから今に至るまで、ずっと神様は私を見守っていて下さったのだ、と気づいたのです。
なぜ、神様が「見守り」はしても、私が生死を彷徨うようなことが何度も起きる前に「助けて」下さらなかったのかと、皮肉めいたことも考えました。
普通に考えて、いくら神仏をお祀りしても病気にはなるし不幸は起こるし、事故にも災害にも巻き込まれてしまいます。
いくら信仰しても「良いこと」だけが起こるとは限らないのも事実です。
しかし、私たちが「不幸」な目に遭うことも神様のご意志だとしたら、というより「邪」や「魔」という存在に不幸な目に遭わされることを、神様が「お許し」になられているとしたら、それはどういう意味になるでしょうか。
よく、「良い人ほど早く亡くなる」と言います。
私が運転免許更新時に見た講習の動画で、とても心根の優しい子が交通事故で早逝されたことが語られていました。
「もし神仏を強く崇拝していたら、こういう事故は免れたに違いない」とは言いきれないでしょう。
もし、人生における全てのあらすじは予め決まっており、それを「運命」と呼ぶのだとしたら、人間はどう生きてもどういう選択をしても、起こりうることは一つしかないということになります。
しかし、私たちは常に一瞬一瞬、気をつけながら道を踏み外さないように慎重に生きていますし、その都度未来を選択して切り拓いているつもりでいます。
例え最善と思う道を辿っても、避けられない出来事というのは向こうからやって来ます。
これは、どう考えたら良いのでしょうか。
おそらく、「どういう選択をしても、結果的に最善の道を選択してしまう」というのが真実なのではないでしょうか。
私たちが常に善意を持って行動するのも、悪意マシマシで過ちを犯そうとする時も、おそらく「運命」という切り口から見れば、どの行動を取っても「最善」になるのかもしれません。
人間がこの世界に、「学び」や「修行」として生まれ落ちるとしたら、それぞれの魂に学ぶべき「カリキュラム」が存在するはずです。
人間は経験を通して学ぶものですから、間違いや失敗があるから自らを顧みて、また違うやり方を覚えて成長していきます。
この輪廻転生を「魂の学校」と呼ぶなら、「カリキュラム」は選択単位制で、タイムテーブルも自由なら「授業」の中身も前後します。
しかし全体を通して学ぶ内容は決まっており、今世で学びきれない分は、次の生まれ変わりに持ち越されるのかもしれません。
いくら「学び」と言えど、人間から見れば「失敗」や「挫折」などない方が良いのです。
そして、自分の犯した過ちを後悔して、アレコレと悩みがちです。
しかし大事なのは、その過ちを省みて学びに変え、自分の成長に活かしていくことです。
人間はこの世界のことしか目に見えないしわからないので、平面的に「成功」とか「失敗」という見方で自分の行動を振り返ります。
しかし神様の視点から、あるいは一つ高い次元から見れば、その平面で起こった出来事には別のあらすじを見出せるはずです。
人間は近目なので手元にあることで判断しがちですが、立体的に見れば底辺をなぞっているだけに過ぎないのかもしれません。
それこそ過去からのカルマや、「カリキュラム」の内容次第では、むしろ「痛い目を見る」ことの方が重要だったりするでしょう。
その意味は、地上で平面的に生きている人間には結局のところ知り得ません。
人間がその出来事を通して、どんな学びをし、どんな学びを残すかということだけです。
私たちが「最善」と思ってやる生き方の中に不幸が忍んでいる理由は、そこにあるのではないでしょうか。
人間にとって経験する出来事は「良い」か「悪い」かしかありませんが、一つ高い次元から見れば「学び」のプロセスであり、それは人間の価値判断で捉えきることは不可能なはずです。
私は常々「神様とは、人間ではないから神様である」と言っています。
そして、人間の「善悪」と神様の「善悪」も違うのです。
私たちが直感的にイヤな目に遭うと、神様を逆恨みしたりもするのですが、神様からすれば「成長の機会」を与える恩恵の意味を、人間が履き違えやすいだけなのだと思います。
だから、あらゆる選択は運命から見て「最善」であり、「最善」以外は存在し得ないのではないでしょうか。
しかし実際、霊的な目線で言えば今年の春分点のように、人生のタイムラインが切り替わるターニングポイントがあることも否定できません。
私が思うに、人生において大まかな専攻のテーマと「カリキュラム」は予め決まっていて、それを学ぶ仕組みにはなっていますが、進むコース自体は自分で選ぶことになっているのだと思います。
だから、「わざと道を外れる」というのもコースの一つであって、それは数ある最善の道から自分が選ぶ、自分が進もうと思う道なのではないでしょうか。
そう考えると、「人生における失敗」の定義は変わってきます。
私たちは「あの時こうしていれば」と悔やみがちですが、実はあの時、自分が無意識に「失敗しよう」と思ってやっていたなど考えもつきません。
けれど、その失敗が起こらなければ「学び」が発動しなかったとしたら、自ら失敗を引き起こす理由になりうるのです。
私はそう考えた時、いつまでも自分の半生にクヨクヨしていてもしょうがないな、と思いました。
私が自分自身で望んで犯した失敗なら、失敗した経験は「失敗の成功」なのです。
もし私の真後ろで、それを神様が糸を引いていたのだとしたら、全ての言動には「裏があった」ということです。
生まれる前から神様が見守ってこられた私の人生は、誕生月の秋分を持っておそらくリセットされます。
その天体の流れは数億年前から決まっていたことで、私はその奇跡のようなタイミングで転機が訪れていることになります。
これはもう、神様に「降参」するしかありません。
自分の勝手な考えで神様をいくら否定しようと、それすら神の手の中にあったということなのですから。
私は、これまで自分の意志で色々やってきたように思ってますが、神様にやらされていたと考えれば、妙に辻褄が合う部分もあるのです。
このアセンションの時期に私がスピリチュアルに目覚めたこと、時代が切り替わる時期に私が起こしている行動、それらはどこにも「エゴ」を差し挟む余地がありません。
つまり、今の時代にこうしている私は、丸ごと神のご計画だったということです。
そうなったら、後は覚悟を決めるだけです。
いくらジタバタしても、ジタバタすること自体が神様の手のひらの内なのですから、いっそのことジタバタしない方が疲れません。
「そうさ 私は乙女座の男
お気の済むまで 笑うがいいさ
貴女は遊びのつもりでも
天国の果てまで ついていく」
