楽太郎です。
最近、気になっていることがあります。
私の近所に、空き地を公園にする工事が行われているのですが、その作業が全く進んでいません。
今年は雪も降らないし暖かい日も多いわりに、施工期間が春まで延びました。
業者の方も、敷地内を歩いているだけで重機も作業も動いているところをあまり見ないので、不思議だなと思って見ています。
何か外部的な理由があるのかもしれません。
予算が降りないとか、部品が届かないとか、他の業者のスケジュールが合わないとか。
ただ、そうしている間に従業員に給料は払われているわけで、工期が延びた分の工費は増えていきます。
その資金を捻出しているのは、市民です。
私はこれを見て、日本の縮図だなと思います。
組織や集団としての歯車は回っていないのに、金だけが流れてどこかへ消えていく。
全体として「何かをやり遂げよう」という意志で動けばすぐできることでも、意志がないから歯車をうまく回せず、実行する力もないのです。
皆、自分が何をしたいのか、何をすべきなのか見えなくなっているのかもしれません。
拡大解釈すれば、人々が信じられる価値観が揺さぶられ、社会も会社もマスコミも芸能人もエンタメもお金も未来も、あらゆるものが信じられなくなっています。
その中で、自分が何を信じて生きていけばいいのか、皆が悩み始めているように見えます。
その点においては、私は天性の天邪鬼というか、人様と違うことを率先してやる分には才能があると思っています。
ただ、私以外の九分九厘以上の人々は私よりまともでしょうから、どんなに私が正しかろうと浮きます。
それでも私自身が心を曇らせずに生きていられること自体が証明しているのかな、と思っています。
スピリチュアルを信じる私としては、目に見えず自分にしか分からないものを感じて生きるので、その不安感は独特なものです。
この世界にも能力差や権威性のようなものがあるため、影響を受けてしまう要素もたくさんあります。
ただここで私が気をつけているのは、仮にそれが真実だと思ったとしても、あえて生きづらくする選択をしないということです。
スピリチュアルは結局、精神的な幸福を求めるプロセスなので、自分自身のためにやるというのが中心的なテーマです。
信念も大事ですが、使命感に駆り立てられて自己犠牲をしてしまうなら、幸福とは真逆の方向に行ってしまいます。
他人にパンを与えて自分が餓死するのは人様から見れば美しいかもしれませんが、神様から見れば「何やってるの」という感じに見えると思います。
魂の求めに応じる時、私は子供の心に戻ります。
子供の心は小悪魔的なところもあるので、そのまま出せば社会規範に触れます。
多くの人は、その魂の抑制を思考や習慣で押さえ、ルールで手懐けています。
人生の修行を経験して魂を成長させてきた人は、直感のレベルで何をしていいか何をして良くないのかがわかります。
それでも、人の生まれや性格には一長一短があるので、全てを統一された善悪に置き換えることはできないでしょう。
霊的な説明をすると、良い部分だけを集めると最終的に平均的な性質に慣らされてしまうのだと思います。
だからこそ神様は人に生まれつき個性を与え、一長一短あるように作られたのではないでしょうか。
その一長一短は、人間からしてみれば平均的であった方が扱いやすいので、抑圧して形を変えることで集団行動を効率化してきました。
ただそれは思考による個性、魂の操縦なので複雑なルールで縛らなければいけませんでした。
そのルールという鎖が壊れた瞬間、わがままにやりたい人はどっと溢れるのでしょう。
本当の成長とは、学校で丸暗記させられたことに忠実になるのではなく、経験することで魂が整っていくことを言うのだと思います。
この世界には一長一短、光と闇があるから違いが生まれます。
闇は光を知ることで光を学び、光は闇を知って闇を学ぶ。
その相互作用があるから成長があり、同質で同レベルの馴れ合いの中でそれを促すのは難しいかもしれません。
仏教に「天魔」という概念があるように、神様は闇の存在もうまく遣われるようです。
魔が神の一部であるという話は、堕天使ルシファーが悪魔の王サタンと同一であるという宗教観にも見て取れます。
ルシファーは神の次に神に近い存在だったと言われます。光に近い者ほど、闇を抱えてしまうと深刻になるのかもしれません。
キリスト教的世界観では光と闇が常に戦っていますが、日本の八百万の世界では光も闇も地続きの存在です。
日本神話では、高天原も黄泉の国も対立しているわけではなく、それぞれが世界の一部として共存し、役割をこなしています。
これこそが「統合」ではないかと思います。
個人的に解釈する中で、神様が私に「闇と戦え」と仰ったことがありません。
光と闇がぶつかれば対消滅するからか、光と闇が統合することができないからか、どちらかの理由があるのだと考えます。
光と闇が共存すれば、その高みにあるのは清濁併呑のワンネスです。
清濁併呑には、「愛」という共存の意志がなければ存立できません。
それは限りなく強い光かもしれませんが、ただ純粋なだけではない、深い悟りと慈悲に満ちた境地ではないのでしょうか。
私は、ここに到達するのが霊魂の目標なのではないかと思います。
だから、人に個性があり一長一短があり、良いところと悪いところがあり、けれどもそれが良い調和の状態こそが理想的な形なのではないでしょうか。
浄土真宗の親鸞聖人は、とてもすごい修行をされた方ですが「煩悩はなくならない」と悟られ、衆生を選ばれました。
私はそこに、地に足のついたスピリチュアリズムがあるのではないかと思います。
どう頑張っても、人の一生のうちでは変えられない性質や課題はあります。
しかし、その悪い部分があるから幸せになれないということはありません。
悪い部分、弱い部分があっても、自分だけでなく周りに補うものがあれば、人はありのままに生きて幸せになることができます。
ありのままに生きて、それが何となく認められたら、だいたいの人は満たされた生き方になるのではないでしょうか。
そういう世になるには、あまりに道のりが遠すぎるような気がします。
まあ、私一人だけ意気込んでもしょうがないので、そういう世が来るように神様にお祈りするだけです。