楽太郎です。
前回、前々回と「あめつち御中の神」の解説を軸に話を進めて来ましたが、日月神示「空の巻・第三帖」の思いの外すごい破壊力に今さら驚いています。
今回はその新たな発見と、そこから「ミロクの世」に繋がる扉が見えてきたという話をしたいと思います。
さて、前回「伊弉諾命と伊奘冉命が元の御身体のまま神産日神・高神産日神の次元に戻られる」という話をしました。
この時、伊弉諾命と伊奘冉命の「御魂」に「国常立大神・豊雲野大神」「国常立尊・豊雲野尊」の神霊を宿し、その中に「宇宙」と八百万の神々、それを司る「撞賢木向津姫命」が内包されると考えられます。
これは「地の岩戸」が開かれ「富士の仕組み」が完成した暁の話であり、現在の「あめつち御中の神」の序列が変わることでもあります。
私たちの宇宙は「あめつち御中あめつち御中天地」であり、それを司る「元の神」であられる伊弉諾命と伊奘冉命は「あめつち御中あめつち御中天地御中ウしの神」ということになります。
逆に言えば「国常立尊・豊雲野尊」「国常立大神・豊雲野大神」が「あめつち御中あめつち御中ウしの神」となるわけです。
文章にするとわかりづらいかもしれないので、一覧にしてみます。
- あめつち御中ムしの神…アメノサギリノミコト・クニノサギリノミコト
- あめつち御中のムしの神…天御中主神
- あめつち御中ウしの神…神産日神・高神産日神
- あめつち御中あめつち御中ウしの神…国常立大神・豊雲野大神(両尊)
- あめつち御中あめつち御中天地御中ウしの神…伊弉諾命・伊奘冉命
- あめつち御中あめつち御中天地御中ヌしの神…撞賢木向津姫命
ちょっと頭が痛くなりそうな字面ですが、これがとても重要なのです。
「あめつち御中あめつち」とは「宇宙」であり、国常立大神と豊雲野大神の「胎内」に生み出されたものと考えられます。
その宇宙に伊弉諾命と伊奘冉命によって「修理固成」されたものが「天地(地球)」であると言えます。
つまり、今の私たちが住まう「地球」は、直接的に国常立大神と豊雲野大神の「宇宙」に内包されていることになりますが、「天地の岩戸開き」後の世界では「伊弉諾命・伊奘冉命」の「胎内」に宇宙が内包されることになると考えられます。
これは概念としてイメージする必要があるため、ちょっと掴みづらいのですが、実はとんでもないことです。
私たちの今いる「宇宙」が、全く異なる神の「胎内」に生み出され、そこに置換されることを意味するからです。
これが神示で「一度は天地に引き上げ(富士の巻・日月の巻)」と述べられていることの真意なのではないでしょうか。
これは私たちの司宰神が変わるというより、私たちの「宇宙」そのものが新たに生まれ、そこにある時「置き換わる」ことを意味しています。
「五葉の巻・第十五帖」に、こうあります。
「岩戸が開けると言う事は半分の所は天界となる事じゃ、天界の半分は地となる事じゃ、今の肉体、今の理念、今の宗教今の科学のままでは岩戸は開けんぞ、今の肉体のままでは人民は生きて行けんぞ、一度は仮死の状態にして、魂も肉体も半分のところは入れ変えて、ミロクの世の人民として甦えらす仕組み、心得なされよ、神様でさえ、この事分からん御方あるぞ、大地も転位、天も転位するぞ」
やはり「天地」の引き上げが起こる時、現宇宙が一旦リセットされ、全てが置き変わると考えられます。
また「天と地」の統合が起きることから、これを「二十二(富士)の仕組み」と言い換えて良いでしょう。
私たちの住む「天地」が引き上げになる先は一次元上の「あめつち」であり、一旦神々の胎内に戻った後、また新たな司宰神の胎内たる「天地」に移行することになります。
よく考えると恐いことなのですが、おそらく私たちはこの宇宙的置換が行われる時、全く自覚のない状態でさっきまでやっていたことを継続的にやっている気持ちのまま、この瞬間を迎えることになるはずです。
おそらく置換の瞬間は人間には知覚できないほどさりげなく、しかし明確に引かれた次元の境界線を、私たちは普段の感覚のまま飛び越えることになると思います。
それは1秒前の世界とは全く同じ宇宙に見えますが、全く違う形質の宇宙に「すり替わる」ことになり、それは人間にはわからないだけで凄まじい世界的変化となるでしょう。
「星座の巻・第十二帖」に、こうあります。
「地上界に山や川もあるから霊界に山や川があるのでない、霊界の山川が誠ぞ、地上はその誠の写しであり、コトであるぞ、マが霊界じゃ、地上人は、半分は霊界で思想し、霊人は地上界を足場としている、互いに入れかわって交わっているのぞ、このこと分かれば来るべき世界が半霊半物、四次元の高度の影ない嬉し嬉しの世であるから、人民も浄化行せねばならん、大元の道にかえり、歩まねばならん、今までの様な物質ではない、物質の世となるのであるぞ」
これが神示にある「原爆にも水爆にもビクともしない肉体」に繋がるのでしょうが、私としては字面の通りに受け止めて良いのか、ちょっとわからない部分があります。
「津波に飲まれても奇跡的に助かった」とか「瓦礫に埋もれても無傷だった」という文脈ならわかりますが、目の前の「デーモンコア」からチェレンコフ光を思いっきり浴びてピンピンしていられるとは、申し訳ないのですが神様の言とはいえ想像できません。
ただ、私は以前「神界の仕組み」という記事で以下の図を掲載しました。

私たちの住む「現界」は主に物質で形成されていますが、言い換えれば「映し世」の向こうにある「常世(根の国底の国)」が本来の世界であり「霊界」です。
「天地」が置換された後の宇宙においては、現界の「八方世界」に「◯九十(マコト)」が加わることで現界と霊界が一つになり、「真の世界」になると思われます。
「星座の巻・第十一帖」にある「新しき人民の住むところ、霊界と現界の両面をもつ所、この岩戸ひらいて二度と無い光透ことでひらく仕組み」という文章は、現界と霊界が統合され「真の世界」となった宇宙とも読み取れますが、単純に「中界」とも考えられます。
現在、「中界」の一部が新しい集合意識の霊域「精神界」に作り変わっていると思われ、「天地の岩戸」を開くことによって精神界の気場を土台にする人々が増えていくことが予想されます。
ただそれは世界がさらに次元上昇し、「半霊半物質」のレベルにまで統合された宇宙では、現在ほど霊界と現界の隔たりはないため、より「精神界」への接続が容易になるはずです。
そして精神界の「地球意識」と結びついた文明は、より精神性を重んじる文化に変わっていくでしょう。
この「霊物両面の世界」こそ、新たに人々の住む世界と言っても過言ではないはずです。
ゆえに「半霊半物質」という表現は「物質と霊が一体となる」という状態を指し、決してチェレンコフ光が人体に無害になるような宇宙に変わるわけではなく、物理法則の世界に「霊的法則」が加わるということではないのでしょうか。
従って、原爆や水爆を浴びても「神の御加護」次第では生き延びられる可能性がある、という話かもしれません。
近年スピリチュアル界隈で頻繁に言及される「次元上昇(アセンション)」が「大峠」の一つの最終プロセスだと私は考えていますが、「現象」として見ればいずれ宇宙的法則が書き変わるタイミングは訪れるわけで、そのための「準備」と考えれば説明がつきそうな気もします。
つまり「地の岩戸開き」によって「◯九十(マコト)」の世界が開けた後、司宰神の代替わりと宇宙的大転換によって「五六七(ミロク)の仕組み」は成就するのだと思います。
気になるのは、日月神示においてしばしば警告されるのが「岩戸開きがならない」ことよりも、「九十(コト)に気をつけよ」ということです。
「キの巻・第六帖」には、こうあります。
「桜咲く所、桜と共に花咲くぞ、戦が済んでからがいよいよの戦ぞ、夏マケ、秋マケとなったら冬マケで泣きあげてはならんぞ、役員も一度は青くなるのだぞ、土に潜るのだぞ、肝心のこと分かってはおらんぞ、九十に気付けてくれよ、神示よく読めよ、褌ふんどし締めよ、一のことぞ、一二三ひふみだぞ」
他にも「ビックリ箱が近づいたぞ、改心第一ぞ、一日の日の間にも天地引っ繰り返ると申してあろうがな、九、十に気付けよとくどく申してあろうがな(天つ巻・第六帖)」、「上の臣民は九十に気を付けてくれよ、九十が大切ぞと知らせてあろうがな、戦ばかりでないぞ、何もかも臣民では見当取れん事になって来るからお上に神祀ってくれよ(富士の巻・第十七帖)」など、「九十」が大切だと述べられています。
これは「九十=言(コト)」であり、「身・口・意=行動、言葉、心」の「三つの『コ』ト」の実践が「神の道」に繋がっているのですが、むしろ「岩戸開き=八」から「九・十」に突入した「期間」について「気をつけよ」と仰られている気がします。
というのも「地の岩戸」が開き「天地の引き上げ」が行われた際のインパクトは想像以上かもしれないからです。
これまでの物質偏重の世界は、言わば悪い意味での「人間中心」の時代でした。
ところが幽界と親和性の高かった人間界が、これを期に神界の直接統治下に移ることになり、全く勝手の違う世界になるでしょう。
それどころか、人間の世界では「通用」していたあらゆる方便が、神々の目の行き届く世界でも同じように通じるとは思えません。
「天地引き上げの時」以降、人間は全く異なる宇宙法則の下で息をしなくてはならなくなるでしょう。
これまでの時代では成り立っていた物事が目に見える形で変わっていくでしょうし、事態が「神はいよいよ鬼となって、規則通りにビシビシと埒(らち)つけるぞ(キの巻・第十帖)」となることも予想されます。
「日の出の巻・第十帖」に、こうあります。
「桜咲き神の御国は明けそめにけり、十月になったらぼつぼつ分かるぞと申してあろうがな、ハタキかけてバタバタと叩く所もあるぞ、箒ほうきで掃く所もあるぞ、雑巾がけしたり、水流す所もあるのだぞ、掃除始まったらバタバタに埒つくと申してあろうがな、めぐりだけの事は今度は何うしても借銭無しにするのだぞ、花咲く人もあるぞ、花散る人もあるぞ」
まず、この文章で驚くのは現在の「大峠」自体が巨大な「借銭済まし」であるにも関わらず、本格化するのは「十月」以降と読み取れることです。
おそらく「十月」とは「十月八日」を意味し、「月神」であられる伊弉諾命が「天日月大神」として御顕現なされ、「三四五(みよいづ)」の仕組みが成就し「五六七(ミロク)の世」となった後の話なのです。
確かに、現状の世界を見回して「地の岩戸開き」を2029年、「大峠の正念場」終了を2030年と考えても、あと4・5年で世の混沌が全て解決し、世界平和が訪れ「完し完し」となるとは思えません。
ゆえに「十合目」を迎える2030年から「大転換」が本格化すると予想され、むしろ「建て壊し・立て直し」はここから本番を迎えることになるのではないでしょうか。
だから「気をつける」べきなのは、「悪」が蔓延り「霊ガカリ」がウヨウヨいる現在より、むしろ「宇宙法則」が変わって神々の「大掃除」が始まった2030年以降とも考えられるのです。
そして気をつけるべき「上の臣民」とは官僚や政治家とも取れますが、今「落ちぶれている」神の国の臣民が「天地がひっくり返った後」の世界において、逆に上の立場になってしまった時なのではないでしょうか。
もし今「踏みつけられ踏みつけられ」して「落ちぶれすぎて縁ある臣民かわからないレベル」の神人が、何かの拍子で表舞台に出てしまった時、有頂天になって言動を踏み外すような時ほど「コト(特別)」に気をつけなければならない、のかもしれません。
まあ、これは実際になってみなくてはわからないのですが、常日頃から「身魂」を磨いておかなければ、もしもの時には身を持ち崩す可能性への注意喚起とも取れます。
「あれなら日月の民ぞと、世間で言う様な行いせねばならんぞ(松の巻・第十一帖)」とあり、やはり常にフンドシを締めた気持ちでいなければいけないのだと思います。
昔TVで郷ひろみさんが「僕は郷ひろみを”演ずる”のが嫌になったから、もう”郷ひろみになりきる”ことにしたんだ」と語っておられたのを思い出しました。
ここで軽口を叩くと私自身の危うさを露呈してしまうのですが、「神人」の道は想像しているより遥かに厳しいということでしょう。
まして「天地がひっくり返る」時代において、動乱の世にあり顔色一つ変えない人間であるためには、やはり普段からの「鍛錬」が必要なのだと思います。
ただ、そこまで「誠」を貫く覚悟があるからこそ、新しい時代の「軸」となる人材になれるのかもしれません。
神の声を聞き、神の意志を実践する「神人」が自らの才能で時代を切り拓く時、その背後には神様がついておられます。
「神と人」によって作られる文明を「ミロクの世」と呼ぶのではないでしょうか。
果たして、これが「絵空事」になるかどうか、それは私たちに掛かっています。


