その苦しみを越えていけ

楽太郎です。

このブログは、何らかの形で誰かの役には立つように書いています。
ここに書いた文章は、私の実感や経験から潜って辿り着いた、普遍的な結論を記しているからです。

ただ、誰にでも当てはまるとか、誰にでも理解されうるものであるとは思っていません。
それは、私の魂が見てきた光景が映し出されたものだからです。

人は誰しも、各々が一長一短の条件の中に生まれ、再現不可能な人生を歩んでいきます。
けれども、幼稚園に行き学校に入り、受験をして就職をして、という誰もが通る社会的なサイクルの中で、自分が誰かと比較しうるような、代替可能な存在と信じ込み、どこかにいる他人と似た人生を歩みたがります。

しかしそれは、「唯一無二」という真実と向き合わない代償に手に入れた、作られた安寧です。

その安心感の中に人生があると、私たちは思ってきました。
良い学校に入り、大企業に就職し、ステータスの高い伴侶と籍を入れ、可愛い子供をもうけ、年金をもらい何不自由のない老後を暮らす。
大勢の他者がする行動は正しく、その多数派の中で同じ条件にあることによって、集団に正当性を求めます。
そうすることで「自分の人生は間違っていない」と思えます。

私は、これが一概に間違いだと言うつもりはありません。
自分の不二性と向き合わなくても、心の底から安堵して生きられるのであれば、それも人生の選択だからです。
私自身もそれができるならば、そのやり方を自らの人生に完璧な形で再現したと思います。

けれども、私にはそれが難しすぎました。
何をやっても、他人と同じように見える行動ができない。
その違和感を自分に見出してしまうからこそ、私は独特としか言いようのない人生を歩んできました。

それは今になって、全く恥ずべきことではなかったと思います。

こうして「当たり前」の人生設計が揺さぶられる時代になって、人々が寄りかかるべき生き方を見失う時、自らの人生の筋書きを見つめ直す機会を得ます。
その不二性は、どんな生き方をしてもかき消えるものではないからこそ、比較されえぬ自己と向き合う時、それが全ての人にとって唯一の同じ条件であることに気づくことができます。

私は、これまで自分の人生についての感想を、心から誰かと共有したいと願っていました。
それは、私が「理解されたい」という魂からの思いであり、共感を得ることで魂の孤独を埋め合わせ、安堵感の中に幸福を追求する生き方でした。
ただ、それも自己の「不二性」を有耶無耶にする生き方であるとも言えます。

たまに、こう考えることがあります。
私は、自分が思っているような世界の住人ではないのかもしれない、と。

神はいるかもしれないし、いないかもしれない。
自分に魂はあるのかもしれないし、ないかもしれない。
自分自身という存在の自覚も、精神的現象や神の存在すら、己の願望を森羅万象に見出しているに過ぎないのかもしれない。

しかし、それが何なのかを考え、自分なりに結論を出そうとする過程が、唯一無二の「己」を生きるということなのだと思います。
誰にも理解されぬ、心の深くにある感情と向き合い、“そうであるならば、さてどうするのか”を決めるのが、自分を「生きる」ということです。

例え誰にも理解されず、誰にも見出されず、一つも共感を得られず、何一つ残せぬまま一粒の塵として消えようと。
その宿命を全うする覚悟が、自分の人生を生きるということなのだと思います。

すぐ傍に誰かがいて、何かを言えば「そうだよね」と言ってもらう生き方は、誰にとっても幸せでしょう。
けれど人間は誰かと融合することはできず、どんなに愛する人と出会っても、どこかですれ違っていかなくてはなりません。
結局、私たち一人一人が違う人生を歩むという事実は、否定することができません。

「自分は世界でただ一つの存在である」という苦しみの中で、それを抱えながら生きる勇気を持ってこそ、人は己の孤独と向き合うことができるのだと思います。

それこそ全ての人にとって同じ条件であり、かと言って決して比肩できる条件でもありません。
そこに目を瞑らずに生きていくことは、本当に苦しいことです。
けれど、その苦しみを人生に見出すからこそ、自分を信じ愛すること、愛する誰かや大切な何かを見つけ、共に生きていく喜びを知ることができるのだと思います。

だから、安易に答えを出さずとも良いのです。
孤独であってもいいし、誰かと似ていなくてもいいし、人と違うことを恐れない生き方こそ、自分の運命を生きるということなのでしょう。

この不安感は、誰しもが心の奥底に押し込めている部分かもしれません。
ただそれは「闇」ではなく、否定しきれぬ明らかな真実であり、それを見つめることで人生に「光」を見出せるのだと思います。

ちょっと疲れたなと思ってうたた寝をして、目覚めたらこんな話をブログに書いてみたいと思いました。
誰のためでもなく、自分のために書いた文章です。
乱文長文、失礼いたしました。